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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 昭和20年代から30年代の醬油店

(1) 住み込みで働く

 ア 梶田商店へ就職

 「私(Aさん)が大洲の梶田商店に入社したのが昭和28年(1953年)4月のことでした。当時は中学校卒業者の就職率が70%から80%くらいで、残りの20%から30%の人が高等学校に進学しました。私は豊茂中学校を卒業しましたが、その当時は生徒数が結構多く、一つの教室に46人が入っていました。そのうち高等学校に進学したのは6名で、そのうち2名が大洲農業高校へ進学しました。その同級生が大洲農業高校の面接試験を受けに行ったとき、私も一緒に梶田商店の面接試験を受けに行きました。私が梶田商店に就職しようと思ったのは、中学校の先生から『学校に採用募集が来ていたので、試験を受けてみないか。』と言われたからです。『田舎者だけど大丈夫だろうか』と少し不安に思いながら面接試験を受けに行ったことを憶えています。その後、採用が決まり、4月から梶田商店の2階に住み込みで働くことになりました。私が入社したときには住み込みで働いていた人が6人いたと思いますが、その人たちのための8畳の部屋が2部屋あり、3人ずつに分かれて生活していました。梶田家の本宅には女性従業員の方も2人いて、『大きなお店だな』と思ったことを憶えています。
 当時の食事といえば、私の家では麦御飯ばかり食べていましたが、梶田商店では米の御飯が出されていて、従業員の待遇は他所(よそ)に比べて飛び抜けて良かったことを憶えています。その代わり仕事は大変でした。朝6時には起床し、まず店の拭き掃除を行いました。その仕事は一番年下だった私と先輩の2名で行っていました。それが終わると店の前の道路を掃除しました。当時は道路がまだ舗装されていなかったので、砂利を寄せてごみ掃きを行ってから道路に水を打っていました。掃除を終えて食事が済んだころに通勤の社員が出勤してきたので、その人たちと合流して8時ころから仕事を始めていました。
 仕事の内容は雑役で、大きな前掛けをして、法被のようなものを着て働いていました。その当時、梶田商店では切手や印紙などの郵便物も扱っていて、そのようなものを購入に来るお客さんが夜にもいたため店番が必要でした。その日の仕事が終わり、夕飯を食べて風呂に行った後は、私と先輩の2名で店番をしていたことを憶えています。ただ座っているだけでは時間がもったいないので、店番をしながら習字やそろばんの練習をしていました。そのころは、台帳への記入にはまだ筆を使っていました。ほかの場所ではペンも使っていましたが、店で仕事をしているときには筆を使って文字を書いていました。
 仕事がきつかったため、長続きせずに辞めた人も結構いました。早い人では朝に入社して昼には辞めていた人もいましたが、住み込みの従業員で辞める人はあまりいませんでした。私も待遇が良かったため、仕事を続けました。私たちが梶田家の本宅に入ることはめったにありませんでしたが、年に1回開かれる従業員の総会では、従業員も役員の方々と一緒に本宅の座敷で行われる宴会に参加し、そのときには豪華な料理を作っていただいていました。当時、従業員にそのようなことをしてくれる会社はめったになかったと思います。」

 イ 醬油の運搬

 「私(Aさん)が最初に任された仕事は、『ため桶(おけ)』と呼ばれる、1斗2升(約21.6ℓ)くらいの蓋のない桶を担ぐことでした(写真2-2-2参照)。店の奥の蔵にあった6尺(約180cm)桶から醬油をため桶に入れ、それを肩に担いで店先まで1日に何十回も運搬していました。
 また、先輩が取ってきた注文先に醬油を届けるために樽(たる)詰めを行っていました。1升(約1.8ℓ)升や5合(約0.9ℓ)柄杓(ひしゃく)などを使い、ため桶から樽へ醬油を移し入れていました。先輩方が退職したころには、パイプを使って醬油を移し入れるようになり、作業が随分楽になったことを憶えています。醬油の樽詰めが終わると、持ち運びやすいように樽に縄を掛けていました。樽の鏡板に4斗(約72ℓ)樽の場合は四重に、1斗(約18ℓ)樽の場合は二重に縄を掛けていました。それから縄を2人で互いに持ち合い、樽を持ち上げて運んでいました。昭和28年(1953年)から昭和40年(1965年)ころまでそのような仕事を行っていました。当時に比べると、今は楽になりました。」

 ウ 樽洗い、瓶洗い

 「空になった樽が戻ってくると砂を使って洗っていて、きれいに洗うにはコツが必要だったことを私(Aさん)は憶えています。樽の中に3分の1くらいの量の砂を入れ、樽を傾けながら回して底をきれいに洗います。その後、樽を横倒しにして、一つの樽で20分くらいゴロゴロと転がして側部を洗います(写真2-2-3参照)。それが終わると樽の中の砂を出しますが、出し口が小さいため、スムーズに砂を出すためにはコツが必要で、慣れていないとなかなかうまく砂を出すことができませんでした。1斗樽はまだ軽い方だったので振って洗うことができましたが、4斗樽は重かったので底をうまく使って洗わなければならなかったことを憶えています。洗い終えた樽は店先に並べて乾燥させていました。
 樽を洗う作業が大変だったためか、しばらくするとどの醬油店でも、樽を挟んで持ち上げ、振り回して洗う機械を導入するようになりました。その機械が導入されてからは、機械を監視しているだけでよくなったので、随分楽になりました。機械を導入してからも、樽の中に砂を入れて洗っていましたが、私は底の方まできれいに洗うことは難しいのではないかと思っていました。というのは、瓶の場合は外から内部の汚れが見えますが、樽の場合は見えないからです。昭和34年(1959年)に鹿野川ダムが完成するころまでは樽が使用されていましたが、昭和40年代に入ると、1升瓶が使用される割合が半分以上に増えていました。樽に替わって1升瓶が使用されるようになると、瓶洗いを行うようになりました。1升瓶を手洗いしていたころは、『はんぎり』と呼ばれていた、1升瓶が200本くらい入る大きな桶いっぱいに水を張り、その中に半日くらい1升瓶を入れておき、翌日、朝から晩まで1本ずつブラシを使って洗っていました。その後、洗瓶機が導入されました。最初の機械はまだ粗末なものでしたが、それでも仕事が楽になったことを憶えています。」

 エ 薪割り

 「昭和36年(1961年)に今の国道56号が開通するまで、梶田商店の裏には段畑がありました。当時、店の裏に馬車で薪(まき)が定期的に配達されていて、都合の良いときにはその馬車で醬油も配達してもらっていました。その後、燃料に石炭を使うようになると薪割りをしなくてもよくなりましたが、私(Aさん)も就職してから2、3年は薪割りをしていたことを憶えています。そのころはマツの木を薪として使っていました。」

 オ 桶作り

 「当時、店には桶屋さんと左官さんと大工さんが常駐していて、桶屋さんは一つの6尺桶を半年かけて作っていました。桶を作る作業には最低でも3人は必要だったため、私(Aさん)も桶作りを手伝っていました。そのときには、胴突きという、取っ手が二つ付いた柱のような工具を使っていました。私は桶の上へ登り、桶屋さんの合図で胴突きをドーンと桶に突く役割を任されていました。その後、外交を行っていた先輩が辞めたり亡くなったりしたので、私が外交を行うようになりました。
 昭和42年(1967年)に現在の会長(Bさん)が帰ってくると、『新しい桶を導入して醬油を作る』と言って、主にFRP(繊維強化プラスチック)製やホーロー製の桶を使用して醬油を作ることになりました。私は今の会長と一緒に、九州の製造会社へ新しい桶を受け取りに行ったことを憶えています。新しい桶を使用するようになってからは何をしても楽になりました。」

(2) 醬油の販売と配達

 ア 自転車で外交 

 「私(Aさん)が梶田商店に就職した当時は、肱川橋もまだ古い橋でした。就職した当初は自転車に乗ることができませんでしたが、すぐに乗ることができるようになりました。自転車に乗り始めたころは、梶田商店から肱川橋へ向かう坂を自転車で通行するのがきつく、『しんどいなあ』と思ったことを憶えています。仕事の方は、慣れてくるとそれほどつらいとは思わなくなりました。
 私のような若い従業員よりも先輩の方が苦労していました。外交に出ていた2名の先輩は、運転免許を取得していなかったため、全て自転車で注文を取りに行っていました。1名は自転車で城川(しろかわ)(現西予市)、河辺(かわべ)(現大洲市)、惣川(そうがわ)(現西予市)の方まで出掛けていて、店には出発の5日後に帰ってきていました。初日は鹿野川(かのがわ)(現大洲市)のお得意さんを回って集金と注文取りを行い、その日は鹿野川で1泊します。2日目は城川へ行って集金と注文取りを行い、城川で1泊します。3日目は惣川に上がって宿泊し、4日目に惣川から一旦下りた後、河辺に上がって宿泊し、5日目に店に戻ってきていました。もう1名は自転車で小田(おだ)(現内子町)の方へ行っていました。」

 イ 醬油を配達する

 「醬油は主に4斗樽や1斗樽に入れて運んでいました(写真2-2-4参照)。先輩たちが注文を取ってくると、車で行くことができる所へは車で配達していました。当時はオート三輪に乗って配達していました。車で行くことのできない海岸沿いの場所へは、長浜(ながはま)(現大洲市)まで車で運び、長浜からはいろは丸という船で磯崎(いさき)(現八幡浜市)の方まで運んでいました。当時、梶田商店には車が1台しかなかったため、配達に車を使用しているときに注文が入るとリヤカーを引いて配達していました。リヤカーで最も遠くまで配達したのは、南久米辺りに行ったときでした。南久米や徳森、平野には大きな醬油の販売店があり、そこまでリヤカーで運んでいました。醬油を専門に販売する店と比べると、雑貨店のようにいろいろな商品を販売する店では、それほど多くの醬油は売れなかったと思います。当時は醬油を専門に販売する店が結構あり、そのような店に4斗樽でトラック1台分、週に1回くらい配達していました。八幡浜へ配達に行ったときには、1週間で全て売れていたことを私(Aさん)は憶えています。4斗樽を1人で持ち運ぶことはできなかったので、どこへ行くときも必ず2人で行っていました。行った先では4斗樽を抱えて店へ運び入れなければなりませんでした。リヤカーで南久米へ配達に行ったときには半日で戻っていたため、弁当を持参して出掛けたことはありませんでした。4斗樽の醬油を販売するときには、3斗8升(約68.4ℓ)の値段で計算して販売していました。なぜかというと、店で小売りするときに2升分(約3.6ℓ)をこぼすことがあるため、その分を割り引いて計算していたのです。
 4斗樽の醬油を自転車で運ぶことはできませんでしたが、1斗樽の醬油は自転車に積んで配達していました。各家庭への配達を始めたのは昭和40年(1965年)ころからで、それまでは小売店を主体に販売を行っていました。ところが、社長の方針で、時代の変化に合わせて、小売店に販売を全て任せるのではなく、梶田商店から直接各家庭へ配達することになりました。そのころ1升瓶はまだあまり使用されておらず、ほとんどが樽と陶器の壺(つぼ)に入れて販売されていました。酢は樽に入れることができないので、20ℓの壺に入れて販売されていて、ワインと同じようにコルクで栓をしていました。
 各家庭では醬油を1斗樽で注文していました。昔は家族が多かったこともありますが、1斗樽で2か月もたない家庭があったことを憶えています。当時、おかずがなかったときには御飯に醬油をかけて食べていたくらいなので、どの家庭でも多くの醬油を使っていたのです。」

 ウ 運転免許を取得する

 「私(Aさん)が梶田商店に入社したのが昭和28年(1953年)です。そのころの大洲では、公的機関と運送会社以外で車を所有していたのは梶田商店と中村にあった銭湯だけで、それぞれ車を1台ずつ所有していました。銭湯ではダイハツのオート三輪で薪を運んでいて、ハンドルが角型だったことを憶えています。梶田商店はマツダのオート三輪を所有していました。最初、梶田商店には車を運転できる人がいなかったので、車で配達する必要があるときには、銭湯の経営者の方に運転をお願いしていたそうです。その後、私と同時期に入社した人が運転免許を持っていて、専属の運転手となったため、銭湯の経営者の方に運転を頼まなくてもよくなりました。
 そのうち私も運転免許を取得したいと思うようになりましたが、社長の命令がなければ取得することができませんでした。幸いなことに、その後、社長から『運転免許を取得して運転手をしなさい。』と言ってもらい、昭和33年(1958年)に運転免許を取得することになりました。当時は大洲に自動車学校がなかったので、松山(まつやま)の運転免許試験場へ行って運転免許を取得しました。当時の試験場は石手川の近くにあり、4回目の試験で合格しました。1回目の試験では、技術試験のとき、オート三輪に乗ってスタートしてしばらくすると、『その車、スタート位置に帰りなさい。』と言われてしまいました。『どうしてかな』と思っていると、クランクを回る所で少し隙間ができていたという理由で不合格となりました。3回目の試験では、技術試験には合格したものの学科試験で不合格となり、4回目の試験で合格して、ようやく運転免許を取得することができたことを憶えています。当時は、一度試験に落ちると1か月くらいは受験することができなかったので、オート三輪の運転免許を取得するのに半年以上かかりました。
 その当時、大洲の殿町や常磐町の店主の人たちは、神戸(こうべ)(兵庫県)の自動車学校で運転免許を取得していて、私たちはそれを『神戸免』と呼んでいました。神戸の自動車学校で1週間から10日間くらい学校内のコースを走行したり、学科試験向けの勉強も教えてもらったりした後、試験に合格して帰ってきていました。そのため、お金と時間に余裕のあった店主の人たちは皆『神戸免』の免許を持っていました。私は住み込みで働いていたためそのようなことはできず、運転免許を取得するのに大変な思いをしました。当時、南予地方では宇和島に自動車教習所がありました。宇和島の教習所に通っていた人は団体で試験を受けていました。試験の要領が分かっていたためだと思いますが、その人たちは合格も早かったことを憶えています。」

 エ 店頭での醬油の販売

 「醬油は店頭での販売も行っていました。昭和40年(1965年)ころまでは量り売りをしていたことを憶えています。店先に台があり、その上に壺を8個置いていました。醬油の入ったため桶をそこまで運び、壺の中に醬油を入れて販売していました。1升の醬油を売るときには1合(約0.18ℓ)升で10杯くらい入れ、さらに1合の半分くらいおまけしていました。
 私(Aさん)が昭和28年(1953年)に就職した当時、1斗樽の醬油の値段は800円くらいでした。そのころ、醬油には樋(ひ)の口、松、竹、梅、桜の5種類の等級があり、等級によって値段が違っていました。松竹梅の1等級ごとに1升で10円くらいの開きがあったように思います。1斗樽でいうと100円になります。最も良い等級の樋の口は、一番搾りの生揚(きあげ)の醬油で、値段が飛び抜けて良かったことを憶えています。樋の口の醬油は店頭の地下に埋めていた大甕(おおがめ)に入っており、そこから壺に醬油を入れて販売していました(写真2-2-5参照)。
 梶田商店に勤めているうちに、物価がだんだん上昇していきました。春、秋と年に2回くらい値段が上がった年もありました。人件費や材料費が増加すると醬油も値上がりしました。その地方の醬油組合が話し合い、何月から価格をいくら上げるということを決定していました。その代わりにほとんどの人の給料も上がっていたと思います。私たちの給料も社長の思いやりで上げてくれたりしていたので、たまには良いときもありました。」

 オ お得意さん

 「私(Aさん)は昭和37年(1962年)2月まで梶田商店に住み込みで働いていました。そのころ流行した『13,800円』という歌謡曲の歌詞には、月収が13,800円あればどうにかなる、結婚して生活できるという一節があり、それで『結婚しても大丈夫かな』と思い、家庭を持つことにしました。社長は非常に社員思いで、私が個人で行った披露宴とは別に梶田商店だけで結婚のお祝いをしてくれました。また、毎日ではありませんでしたが、午後3時には従業員におやつを出してくれていました。当時、そのような会社は聞いたことがありませんでしたが、梶田商店にはそのくらい経済的な余裕があったのだと思います。昔から梶田商店には、『中村の梶田』と言って醬油を買い求めに来ていたお得意さんが多かったそうで、そのため、私たちが入社したとき従業員の待遇が良かったのではないかと思います。梶田商店にお得意さんが多かった理由として、質の良い水で醬油を製造しているということもあるのではないかと思います。打ち抜きの井戸から湧き出る地下水は飲んでも美味(おい)しく、醸造に大変適しています。
 また、戦時中や配給が行われていたころ、梶田商店が随分無理をして助けていた方がいたと聞いたことがあります。そのときの恩義を忘れずに、わざわざ遠方から瓶を持参し、店まで定期的に醬油を買いに来る方がいました。私が『配達しますよ。』と言っても、その方はいつも店まで買いに来てくれていました。私はそのとき、『昔の人は助けてもらった恩義を忘れないものだな』と感じていました。」

 カ 住み込みのころの楽しみ

 「私(Aさん)が働き始めたころ、休日は月に1日だけでした。それが何年か経(た)つと月に2回になり、また、何年かすると月に4回になって、それから週1回になったように思います。今とは違い、当時はそれが当たり前のことだと思っていたので、負担には思いませんでした。その当時は常磐町商店街のどの商店にも1人か2人は店員さんがいました。
 今はなくなっていますが、当時は店の前に水路がありました。夏になると、水田へ水を引くために水路には水がたくさん流れていて、道路へ水を打つときにはその水を使わせてもらっていました。水路に水が流れていたときは本当に涼しく感じていたことを憶えています。また、お客さんがいないときには、夕涼みがてら店の前に縁台を置いて座っていることがありました。すると、他の店の店員さんが集まってきて、将棋を指したり雑談をしたりして楽しい時間を過ごしていました。
 近くには映画館もあり、休みの日にはよく映画を観(み)に行っていました。そのころは娯楽の乏しい時代だったので、映画を観ることが一番の楽しみでした。当時の映画は2本立てで、1週間か10日くらいで上映される映画が替わっていました。阪東妻三郎や片岡千恵蔵などが出演していた映画をよく観ていたことを憶えています。」

写真2-2-2 ため桶

写真2-2-2 ため桶

写真のため桶は1斗2升より小さい容量のもの。  令和2年8月撮影

写真2-2-3 樽を砂で洗う

写真2-2-3 樽を砂で洗う

令和2年8月撮影

写真2-2-4 4斗樽

写真2-2-4 4斗樽

令和2年8月撮影

写真2-2-5 樋の口を入れていた甕

写真2-2-5 樋の口を入れていた甕

令和2年8月撮影