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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 戦争の記憶

 ア 米軍機の記憶

 「私(Aさん)が小学6年生のとき、下級生を引率して登校していると、双発の輸送機が米軍機に追撃されているのが見えました。私たちは一目散に桑畑へ逃げ込みましたが、輸送機はその近くに墜落し、大きな煙が上がっていたことを憶えています。墜落した輸送機の周りには大勢の人が集まっていて、私たちはすぐに家に帰るように言われ帰宅しました。当時、五郎駅は内子線の分岐駅で貨物列車も比較的多かったためか米軍機に攻撃されたことがあり、子どもと馬車引きの馬、列車の機関士が亡くなりました。
 そのころは桑の皮の供出割り当てがありました。私の家は養蚕農家だったので、桑畑で木を削(そ)いで家に持ち帰り、皮を剥いで乾燥させたものを父が役場へ供出に行っていました。あるとき、近くの桃の木の下で桑の皮を剥いでいると、はるか上空をB29の編隊が飛行しているのが見えました。すると松山の方角からB29の編隊に向けて高射砲が撃たれましたが届くことはなく、その後もB29の編隊は悠々と飛行しているように見えました。そのとき父が、梅津寺の方に設置されていた高射砲台から撃ったものではないかと話していたことを憶えています。」

 イ 防空壕

 「昭和20年(1945年)の太平洋戦争の最末期ころ、家の近くの山手には地域の人たちが避難するための防空壕(ごう)が造られていました。そのとき、私(Bさん)は3歳くらいだったと思いますが、米軍の飛行機が2、3機飛び出してくると、私たちは近くの小屋に逃げ込んだり、最悪の場合は防空壕に入ったりしていました。近所に少し体を弱くして、家で養生しているお年寄りがいたので、元気な方が家まで迎えに行き、防空壕へ連れて行っていました。防空壕は藪(やぶ)の中にありましたが、お年寄りが入り口の簾(すだれ)を上げて飛行機の様子を見ていました。防空壕の中にいた人たちの異常なまでの恐怖感が私の一番古い記憶です。」

(2) 肱川とともにあったくらし

 ア 渡し舟

 「多田地区はかつて多田、峠、岩黒の三つの地区から成っており、それぞれの地区に渡しがありました。かつて川向こうに楯の城(立野城)という山城があり、多田の渡しは、多田地区から対岸の楯の城の下までの間を渡し舟が行き来していて、舟を渡していた場所は渡し場と呼ばれていました。多田地区の人たちは、川向こうに出作していた耕地がかなりあったため、渡しは重要な交通手段となっていたのです。なお、岩黒地区は、肱川、矢落川締め切り工事に伴う肱川の川幅拡張と築堤工事のあおりを受け、慶雲寺山に造成された新団地へ集団で移転しました。
 それぞれの地区が渡し守さんと年間契約を結び、賃金を支払っていました。渡し守さんを確保できなかった場合には、地区の人が輪番を組んで船頭を務めることになっていました。私(Aさん)が小学生のころ、父が畑仕事で忙しかったときには、私と父が時間を決めて交代で船頭を務めていて、隣の家でも子どもが親の代わりに船頭の当番を務めていたことがありました。私が船頭を務めていたとき、急な川の流れに流されてしまい、対岸の渡し場(楯の城の下)よりも下(しも)の方へたどり着いたことがありました。そのときは、渡し舟の乗客の方たちに手伝ってもらって何とか帰り着くことができたことを憶えています。昭和40年代に始まった肱川の河川改修工事により楯の城が消滅するまでは、楯の城の下に渡し守さんの住宅がありました。多田の渡しは、渡しの運営に対する市からの補助が出なくなったことなどの理由で、峠地区に永久橋が架かる少し前になくなったと思います。多田の渡しがなくなるころには渡し守さんも当番を務める船頭もいなかったため、川を渡る人が楯の城の下までワイヤーを渡しておき、舟の上に立ってそれを手繰りながら渡っていました。」

 イ 木橋のころの峠橋

 「昭和14年(1939年)に峠地区の人たちの間で橋を架ける計画が浮上し、翌15年(1940年)に峠橋が完成しました。当時、多田地区にも協力を持ち掛けたようですが、橋の位置や構造のことなどで折り合いがつかなかったため、多田地区は渡しを続けることになり、峠地区だけで橋を架けることになりました。私(Aさん)は小学4、5年生のころ、峠地区の方々に引け目を感じながら峠橋を渡っていたことを憶えています。
 当時の峠橋は、川の流れに対して直角に橋脚を造っていました。橋脚の上に橋桁をかけ、橋桁に橋板を並べ、その両端にロープを通し、増水しても流れないように半分ずつ両端の橋脚に括(くく)り付け、橋板の中央部を棕櫚(しゅろ)縄で結んでいました。川が増水して水位が橋桁の高さを超えると、橋板が浮いてロープにつながったまま両岸に流れていました。川の水が引くと、流された橋板を引き戻し橋桁にかけていました。当時の峠橋は大水で年に何回も橋板が流されていたほか、冬には橋板が強風に吹き上げられてガタガタになっていたため、橋の修復には大変な労力が必要でした。橋の管理は峠地区の方々が中心になって行っていました。1軒の家が橋の管理のために10日間くらい出ていました。モク(流下物)よけが傷んだり、流された木柱やピーヤ(橋の杭(くい))を打ち込んだりするときには多くの人手が必要となったので、多田地区の人たちも応援に行っていました。
 木橋だったころの峠橋は両側にガードレールなどが設置されていなかったので、自転車で通行していた人が誤って川へ転落することがあり、私も一度転落したことがありました。三善地区の親戚の家から自転車で帰宅していたときのことですが、その自転車は今のようなハンドブレーキではなく、ペダルを後ろに回転させるとブレーキが掛かる仕組みになっていました。峠橋の手前の下り坂から橋に差し掛かったとき、スピードを落とそうと思いペダルを後ろに回転させたときにブレーキが効きすぎて、川へ転落してしまいました。そのとき肱川は川原が水に浸かる程度に増水していましたが、向こう岸(多田地区側)へ泳ぎ着くことができました。それは新制中学3年生の2月のことだったので、昭和23、24年(1948、49年)ころの話です。当時は川の増水が何日も続くと川止めとなり、多田、峠地区の児童は休校せざるを得ませんでした。
 昭和39年(1964年)に峠橋がコンクリート造りの永久橋に架け替えられたとき、橋の両側に転落を防止する柵が設置されました。新しい峠橋は、大水のときに橋が水中に沈んだり、多くのモクが掛かったりするモグリ橋(沈下橋)でしたが、木橋のころのように橋板が流されることはありませんでした。」
 その後、昭和56年(1981年)に峠橋の架け替え工事が始まり、昭和60年(1985年)に新たな橋が完成した。この橋は旧来の橋と同様に峠橋と名付けられ、現在も地域の生活に不可欠なものとなっている。

 ウ 洪水の記憶

 肱川がたびたび引き起こした洪水について、次の方々が話してくれた。
 「昭和18年(1943年)と20年(1945年)の洪水のときは、峠橋が流されただけでなく、近くの堤防も流され、堤防の外側にあった私(Aさん)の家の畑も何町歩か流されていました。そのとき、私の家は流されこそしませんでしたが、天井近くまで浸水し、家財道具から位牌や写真まで全て水に浸かってしまったことを憶えています。洪水のたびに浸水の被害を受けることがやり切れなかったので、昭和22年(1947年)に、少しでも高い場所に家を建て替えることにしました。当時はまだ物資が不足していた時代で、家を建てるのに必要な釘(くぎ)が手に入らなかったので、鍛冶屋さんでもらった番線を鏨(たがね)で切断し、釘の代わりにしていました。また、瓦も手に入らなかったので、スギの皮で屋根を葺(ふ)き、昭和24、25年(1949、50年)ころに瓦屋根に葺き替えました。
 私が養蚕を行っていたころには、峠地区付近の堤防が流されて浸水被害を受けることが何度もありました。そのときには籠を担いで肱川に入り、桑畑で水に浸かっていない葉を採って籠に入れた後、胸くらいまで水に浸かりながら、再び川を渡って家まで戻ってきたこともありました。川に浸かった桑の葉は泥まみれになっていました。泥の付いた葉を食べると蚕は病気になってしまうので、川で泥を洗い落とさなければなりませんでした。」
 「私(Bさん)は、昭和18年(1943年)の洪水のとき、家の中は鴨居(かもい)くらいまで浸水し、倉庫が流されてしまったという話を聞いたことがあります。また、一昨年(平成30年〔2018年〕)の7月には、家屋と蚕室が浸水の被害を受けました。その日の朝、私がいつものように給桑を行っていると、娘がやって来て、早く家に戻るようにと伝えてくれました。それまでは多少水が出ても少し時間が経過すれば水は引いていましたが、その日は一向に水が引く気配がありませんでした。私は急いで家に戻り必死になって畳を上げましたが、1階部分が浸水したため2階に避難しました。そのときはもう少し家の地盤を高くしておけばよかったと後悔しました。今年(令和2年〔2020年〕)の7月に大雨が降ったときも蚕室の傍の道路が水没し、あと1m近く水位が上昇すると蚕室が浸水するという状況になりました。私は『一昨年の悪夢の再来か』と心配していましたが、その後、水位が下がり始め、警報が解除されて安心したことを憶えています。」

 エ 肱川の風景

 「私(Aさん)がまだ小さかったころ、兄に連れられて、よく肱川で投げ網をして遊んでいました。投げ網は今のようにテグスではなく、繭からとった糸で作ったものでした。また、川岸の岩の渕にカワウソがたくさんいるという噂を聞いたことがありましたが、私は見たことがありませんでした。タヌキやキツネは今でもよく見掛けますが、小学校に通っていたころ、楯の城の方にはキツネの巣穴があり、朝、登校する時分に川原にキツネが何匹も巣穴から出てきていて、それを猟師さんが鉄砲で撃っていたことを憶えています。そのころの肱川は水質がとてもきれいで、船頭の当番を務めていたときには、川の中にウナギやカニ、エビがたくさんいたことを憶えていますが、そのような風景は失われてしまいました。」

(3) 多田のくらし

 ア 昔の婚礼

 「昔の婚礼は自宅で行うのが一般的で、私(Aさん)も自宅で婚礼を行いました。その当時は、花嫁さんが嫁ぎ先の家まで舟や徒歩で移動することが当たり前のように行われていた時代でした。まだ多田の渡しがあったころ、多田地区は交通の便が悪い地域でした。当時、今の県道長浜中村線はリヤカー1台が通れるくらいの狭い道で、対岸へ渡るには、肱川沿いの危険な道を通って峠橋に出るよりも、渡し舟を利用した方が近道でした。対岸まで渡れば自動車が通行できる道路が付いていたので、当時、多田地区の花嫁さんは渡し舟を利用して対岸まで渡り、そこからは自動車に乗り換えて嫁入りされていたことを憶えています。」

 イ 物々交換

 「戦後の学制改革により、私(Aさん)が新制中学校の2年生に編入されたときのことです。当時は生活に必要な物資を手に入れるために、物々交換がよく行われていました。そのころ、八幡浜からこちらへよく来ていた担ぎ屋さんがいて、いつもさまざまな品物を持ってきていました。
 ある日、その担ぎ屋さんが帆木綿(舟の帆に使用していた木綿)で縫った白いズボンを持ってきていました。父は『買うてやるけん、仕事せいよ。』と私に言って、担ぎ屋さんに大豆を渡してズボンと交換してもらうと、そのズボンを私に渡してくれました。ごわごわした肌触りでしたが、とてもうれしかったことを今でもよく憶えています。」

 ウ 地域での交流の移り変わり

 「昔は地区の人たちが集まって忘年会や花見、海水浴などを行っていましたが、今はそのようなことはほとんど行われなくなりました。また、以前はどの地域でも青年団活動が盛んに行われていて、公民館で青年団主催のダンスパーティーが開かれたこともありました。三善地区では青年団の人たちが小学校(三善小学校)区の運動会を盛んに行っていたため、私(Bさん)もスポーツには関心があり、喜多郡の陸上大会などで三善地区の出身者が長距離走で優勝することもあったことを憶えています。そのように、以前は地域の若者が交流する機会が多かったので、そこで出会った若い男女が結婚するということが多かったように思います。今は地域でも若い人が少なくなり、青年団活動のような若い世代が交流する場が失われているように思います。」

 エ 地域の祭り

 かつて多田地区は多田、峠、岩黒の三つの集落から成っていました。多田地区の氏神様は一渕神社で、秋祭りのときには一渕神社で宮出しが行われた後、地区内の各戸を獅子舞が回り、子どもたちも太鼓を叩(たた)きながら獅子舞に付いて回っています。峠地区は小さな集落なので、神輿(みこし)を持っておらず獅子舞だけを行っています。秋祭りは地区の人たちにとって楽しみの一つで、獅子舞が回ってくると、『あれは誰ぞ。』とみんなで話していたことを私(Bさん)は憶えています。現在も多田地区の秋祭りは続けられており、市内のほかの地域と同様に11月3日に行われています。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 常盤井忠伽『三善生活誌第一輯 肱川とむら』1986
・ 常盤井忠伽『三善生活誌第三輯 むらのくらし』1987
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 建設省大洲工事事務所『大洲工事五十年史』1994
・ 大洲市『増補改訂 大洲市誌(上巻、下巻)』1996
・ 「愛媛蚕糸業の歩み」発行委員会『愛媛蚕糸業の歩み』2000