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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 川や国道沿いのくらし

 ア 矢落川

 戦前、大規模な洪水に見舞われた矢落川は、昭和20年(1945年)に右岸の改修工事が始まり、昭和26年(1951年)に竣工(しゅんこう)した。その後、改修は途絶えていたが、昭和46年(1971年)から順次下流域に延伸していった。

 (ア) 改修前

 「私(Aさん)は、戦前にD先生のお母さんが当時としても珍しい丸髷(まげ)をして嫁入りしたときのことを鮮明に憶えています。そのときには、旧稲田橋へ行く途中で松木原と呼ばれていた松並木を通って嫁入りされていました。そのマツの枝にはふるつく(フクロウ)が止まっていて、昼間は目が見えないらしく、少々のことでは逃げませんでした。
 松木原から先へ進むと、矢落川に旧稲田橋が架かっていました。旧稲田橋はリヤカーが通れるくらいの幅の板橋で、リヤカーが通ると『ガタガタ』と音がしていました。」
 「私(Fさん)が小さいころは、庭の裏に石積があり、その下が矢落川でした。庭の裏にあった階段を下りると矢落川の近くまで下りることができました。矢落川が増水したときには庭の地面に水がしみ出てきて、もっと増水したときには庭くらいまでは浸水していましたが、床下まで浸水することはめったにありませんでした。」
 「矢落川の堤防がまだ建設されていなかったころは川の水がとてもきれいだったので、川で洗濯したり、畑で採れた野菜を洗ったりしていて、川の水をそのまま飲んだこともありました。
 築堤の工事が始まると、私(Bさん)は工事現場でよく遊んでいました。今のように重機やダンプがなかったため、作業員の方々はトロッコを引っ張って土砂を運んでいました。作業員の方々が帰った後、工事現場へ入り、線路の上にトロッコを載せ、それを押して遊んでいると、『ザアザア』と音がして、面白くて仕方がなかったことを憶えています。」

 (イ) 輪中

 「私(Dさん)が地元について調べていると、戦後の築堤によって町の様子が随分変わっていることに驚きました。戦前は新谷町と下新谷の境に堤防はありませんでしたが、戦後、矢落川の改修時に堤防が築かれ、陸門も建設されました。その堤防を境として五郎側が下新谷、陣屋側が新谷町となります。下新谷側では昔から浸水被害が多く、新谷の町中まで逆流するくらいでした。それを前提として家が建てられていたため、古くからある家は高い石垣の上に建てられています(写真1-1-2参照)。五郎側から矢落川の水が逆流して水があふれそうになったときには、陸門を閉め、いわゆる『輪中集落』のような形態をとって新谷町を守るようにしていました。昭和46年(1971年)から再開された矢落川下流域の堤防工事により、陸門は昭和50年代に撤去されましたが、堤防は現在も残っています。
 また、町より上流側を流れている惣谷川は、以前は谷から南へ真っすぐ流れて矢落川に合流していました。ところが、昭和26年(1951年)までの河川改修工事により、帝京第五高校の所で西向きに流路を変えて矢落川の旧河川に合流し、菖蒲(しょうぶ)園の所を流れるようになっています。」

 (ウ) 豊かな流れ

 「私(Fさん)が若いころ、大久保川に架かった橋が水に浸かることはありませんでした。最近は、少し水が出るとすぐに浸かるようになりましたが、大久保川と旧矢落川が合流する部分に砂が溜まって水が抜けないことが原因ではないかと思っています。今の矢落川の水位は、普段は膝くらいまでしかありませんが、当時は背が立たないくらい水量が豊かでした。当時、魚の頭を網に入れて新大橋(札の辻から現国道56号へ通じる橋)から投げ入れておくと、網の中に川ガニが3、4匹も入っていたので、それをダスカン(18ℓ缶)に入れていました。この辺りにはアユや川ガニなどを獲(と)っていた人がいたので、あらかじめ数量等を伝えて頼んでおくと獲ってくれていました。法事などの所用で久しぶりに東京の方から帰ってきた人や旅行者などには、アユや川ガニの料理はとても好評でした。ところが、地元の人にとってアユや川ガニは簡単に手に入る食材だったので、料理屋でお金を払ってまで食べるようなものではありませんでした。地元のお客さんにアユを提供したとき、『アユはこの間も食うたぞ。』と言われたこともありました。」

 イ 国道56号

 (ア) 町中の国道

 「矢落川左岸に現在の国道56号が建設されるまでは、私(Gさん)の店の前の道路が国道56号でした。国道沿いには多くの商店が立ち並び、町はにぎやかだったことを憶えています。当時はトラックやバスといった大きな車もその道路を通行していました。道幅が狭いため、大きな車同士が対向したときには、離合できる場所まで片方がバックするなど、譲り合わなければ離合することができませんでしたが、両方ともバックせず喧嘩(けんか)になっていたこともありました。また、道路の上を横断して設置されていた看板は、大きな車が通行するときの妨げになるという理由で撤去されてしまいました。
 国道56号が現在地に建設される計画が持ち上がると、私の父は、市議会議員から建設反対の署名を依頼され、商店街のみんなと一緒に建設反対運動を行っていたそうです。というのは、新しい国道56号が開通するとその道路沿いに商店が移転し、商店街は寂れてしまうと思ったからです。ところが、新しい国道56号が建設されたのは矢落川の堤防上で、道路の両側に多くの商店を建設することが難しかったため、新谷では商店街が残ったのではないかと思います。また、新しい国道56号が建設された昭和42年(1967年)には、車がそれほど普及しておらず、現在のような郊外型店舗などは考えられなかったためでもあるでしょう。それでも、亀岡モータースや愛媛刷子(ぶらし)工業所(現株式会社アイテック)、柴田木工所などのように、新しい国道56号沿いに移転した店もありました。」

 (イ) 亀岡モータース

 「亀岡モータースの前身は製材所の西側辺りにあった鍛冶屋さんでした(図表1-1-3の㋡参照)。鍛冶屋さんをする傍ら、これからは車社会だということで自転車の横にエンジンを取り付けた原動機付自転車を販売したところ、売れ行きが随分良かったため、現在地に移り自動車を販売するようになったのです。
 私(Aさん)の息子が小学4年生のころだったと思いますが、新しい国道56号が開通するとすぐに、移転したばかりの亀岡モータースで車を購入しました。すでに別の自動車販売店で中古車を購入していましたが、亀岡モータースでほかの車に買い替えたのです。車を買い替えた後、亀岡モータースと同様に新しい国道沿いに建設された農協へ自動車保険を支払いに行ったことを憶えています。」

 (ウ) 愛媛刷子工業所

 「アイテックの初代社長さんは、もともと机や椅子などを作っていた指物大工さんでした。私(Gさん)の家には、社長さんに作ってもらったちゃぶ台や勉強机が今でも残っていて、そこには製作された年月と製作費が書かれています(写真1-1-14参照)。また、社長さんには将棋盤も作ってもらったことがありました。昔の理容店では、順番待ちをしているお客さん同士が将棋を指すことがあり、私の店でもその将棋盤でお客さん同士が将棋を指していました。
 その後、社長さんは、業態を替えて竹の歯ブラシ製造を開始し、愛媛刷子工業所を設立しました(図表1-1-3の㋢参照)。そのころは家の裏側に出ると、工場から『ガッチャコン、ガッチャコン』と歯ブラシを製造する機械の大きな音が聞こえてきたことを憶えています。私の息子が小学生から中学生のころ、学校では愛媛刷子工業所の工場見学を行っていて、見学後には必ず歯ブラシをもらって帰っていました。後にアイテックは、中国にも工場を設立して歯ブラシ等を生産していた時期もありましたが、現在は撤退しています。」
 「アイテックの初代社長さんは、自社で製造したアメニティー製品が全国の多くのホテルや旅館で使用されていることを私(Dさん)に得意気に話してくれたことがありました。最近、私が工場見学を申し込むと、二代目の社長さんに、『パンフレットはいくらでも差し上げますが、工場内の見学は勘弁してほしい。』と断られました。現在のアイテックでは、ホテルなどのアメニティー製品として置いている歯ブラシはもとより、スリッパやタオル、化粧水など、浴槽に置くいろいろな製品を製造しています。それらは大手メーカーの名前で製造されているため、工場見学の際にはそのメーカーの許可が必要となるようです。現在は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、各地のホテルや旅館では宿泊予約のキャンセルが続出しています。そのため、ホテルなどからのアメニティー製品の受注が大きく減っているようです。」

(2) 祭り

 ア 夏祭り  

 (ア) 神社の由来

 「私(Dさん)が調べたところでは、新谷小学校の西側の山にある大有霊神社は、もとは正徳2年(1712年)に勧請(かんじょう)された二宮社という神社で、明治6年(1873年)に宇和島から和霊大神を勧請したときに大有霊神社と改めたそうです。大有霊神社は和霊大神をお祭りしていることから、私たちは『和霊さん』と呼ぶことが多く、和霊さんの夏祭りには、時代ごとにいろいろな出し物が行われていました。」

 (イ) 作り物

 「和霊さんの夏祭りのときには、各商店が自分の店の材料で『作り物』を作っていて、この作り物が夏祭りの大きな特徴となっていました。例えば、私(Fさん)の店(田子屋)にはお皿がたくさんあったので、それを利用して五重塔などの作り物を作り、店の前に飾っていました。お客さんも『今年は、この店では何ができとるんじゃろか。』と言って、町中を端から端まで見て回ってくれていました。
 作り物の題材は、そのときどきの世相に応じたものが多く、オリンピックが開催された年であれば、オリンピックに関係するものを作ったり、大三島橋が開通した年であれば橋の模型を作ったりしていたことを憶えています。どの店でも、祭りの1週間から10日くらい前になると、自分の店で商売をしながら作り物を作っていました。」
 「私(Dさん)が『良くできているな』といつも感心していたのが、滝田屋金物店の作り物です(図表1-1-3の㋣、写真1-1-15参照)。金物店のため作り物の材料が豊富にあり、毎年、都(松ケ花から山際の方の字名)から職人さんが来て作っていたとも聞きましたが、何よりその店の御主人が熱心に取り組んでいました。毎年、きれいなクジャクなど祭りの後に壊すのがもったいないような、立派な作り物を作っていたことを憶えています。滝田屋金物店のほかに長田雑貨店、青野自転車店なども良い作り物を作っていました(図表1-1-3の㋤、㋥参照)。作り物は、人物そのものを題材とした作品は少なく、自然造形を題材とした作品が比較的多かったようです。」
 「私(Bさん)が商工会の会長をしていたとき、最も力を入れていた活動が夏祭りや秋祭りでした。今の人に話すと嘘(うそ)だろうと笑われますが、祭りのときには、山の方や遠方から多くのお客さんが新谷の町を訪れ、通りを満足に歩くことができないくらいでした。花火や作り物もいろいろと趣向を凝らしていました。夏祭りのときの作り物は、自分の店の商売道具や売り物で制作していて、菓子店であれば、お菓子の材料で作っていました。店の前に飾ってある作り物を審査員が一つずつ見て回り、1等賞、2等賞、優秀賞などの賞を決めていたので、どの店もより一層作り物の制作に力が入り、遠方からも『作り物を見なければ。』と言って、大勢の人が来ていました。私が会長を辞める前後に、作り物をやめて仮装行列が行われるようになりました。」

 (ウ) 仮装行列

 「私(Dさん)の記憶では、仮装行列が始まったのは瀬戸大橋が全線開通した昭和63年(1988年)からで、そのときには地元の商工会主催でお祭りが行われていたと思います。仮装行列は和霊さんの夏祭りの前日に行われるようになりました。」
 「私(Gさん)が参加していた『22会』は、仮装行列が行われた24、25回のうち20回くらい優勝していました。そのため、22会は、仮装行列に参加していた恋木地区の若葉会や喜多山地区の松の木会、中学校の運動部、スポーツ少年団などのチームから一目置かれていました。22会は当初、新谷自治会の行政区名である『町2番区』の2代目(青年部)の集まりという意味でしたが、後に他の地区の人も加わったため、『新谷(にいや)』の2代目という意味になりました。メンバーは、祭りの1か月以上前から毎晩のように集まって仮装行列の山車(だし)や衣装を作り、作業を終えた後の飲み会も大きな楽しみでした。
 仮装行列の山車は、昔話やそのときどきで話題になっていたものを題材にして作っていました。例えば、『桃太郎』や『西遊記』、映画の『ジョーズ』などの骨組みを竹で作り、その周りに新聞紙を張り付けて色付けをしていました。それをリヤカーや台車に載せ、骨組みの中に組み込んだスピーカーなどの音響機器で音楽を流しながら運行していました。また、女性の方々は、端切れや古着を利用して山車に似つかわしい衣装を作っていました。中にはかなり凝っていて、端切れなどで作ったとは思えないようなものもあったことを憶えています。そのように一生懸命作って優勝しても賞金は5万円だったので、優勝祝賀会どころか制作材料代にも遠く及びませんでした。」

 イ 祭りのもてなしや楽しみ

 「私(Cさん)の家では、和霊様の夏祭りのほかに、8月24日に新谷小学校で行われる盆踊りも大きな楽しみでした。新谷小学校までの通り沿いにはいろいろな出店が出ていてとてもにぎやかだったので、子どもたちはとても喜んでいたことを憶えています。また、盆踊りを見に行った帰りには、松葉屋さんでかき氷を食べることが我が家の恒例となっていました。秋祭りのときは、親戚同士でお互いの家を行き来していました。」
 「私(Hさん)が嫁いできたころ、お祭りのときなどにはもろ蓋に料理皿を並べ、お客さんに出していたことを憶えています。そのころ使用していたもろ蓋が今でも残っていて、そこには『昭和44年12月新調』と書かれています(写真1-1-17参照)。義父は5人兄弟の長男だったので、お祭りのときなどには親戚が集まっていました。刺身や酢の物などを決められた皿に盛り付け、それらの皿をもろ蓋に並べて準備していました。また、年末の餅つきのときには、できた餅をもろ蓋に並べていました。今は大勢の人が集まることもなくなったため、もろ蓋を使用する機会がなくなりました。
 お祭りになると道路沿いに出店も出ていました。前日から、皿や茶碗を売る陶器店や竹籠を売る店、鮮魚店に至っては3軒くらいが出店していて、それらを目当てに大勢の人が来ていたので、とてもにぎやかでした。」
 「新谷の秋祭りには、新谷の町中からだけでなく、周辺の徳森の方からも見物に来ていました。秋祭りなどのときには、私(Fさん)の店(田子屋)に仕出し料理の注文がたくさん入り、それぞれの家へ配達していたため、とても忙しかったことを憶えています。昔は、お祭りのときには親戚や知人が集まって一緒に楽しんでいたため、賄い料理も大皿で、誰でも何人でも来られるようになっていました。そのため、子どものころは、お祭りなどで親戚の家へ行くことを楽しみにしていましたが、今はそのようなことはほとんどなくなりました。」

 ウ 牛市

 「耕耘(こううん)機などの農業機械がまだなかったころは、牛を使って田んぼを耕していたため、どの農家でも牛を飼育していました。そのため、当時は、飼育している牛をより良い牛と交換したり、肥育用の牛を仕入れたりするための牛市が開かれていました。新谷では毎月10日に牛市が開かれていました。現在、神南酒造の裏は倉庫になっていますが、かつてはそこで牛市が開かれていました(図表1-1-3の㋦参照)。牛市が開かれる日には、私(Bさん)の食堂にも随分多くのお客さんが来ていて、朝食や昼食を食べる暇がないほど忙しいときもあったことを憶えています。新谷にも博労さんが2、3人いましたが、他所の博労さんが何十人も来ており、私の店にはとても入り切らないほどでした。博労さんたちは、店の表で順番を待っている間も牛の商いをしていました。伴蔵さん(牛の売買の世話をする人)も加わり、食堂の隣の郵便局の前で10人くらいが輪になって、みんなが手を叩(たた)きながら『何ぼじゃ、かんぼじゃ』と値段を決めて商売をしていました。その後、私の店で飲んだお酒の代金は、商いになった人が伴蔵さんにおごることになっていたようでした。昭和30年代に入り、牛市の場所は神南酒造の裏から石材店の裏、菖蒲園の東側に替わりました。昭和30年(1955年)を少し過ぎたころから耕耘機が出回るようになり、昭和33年(1958年)には岡山県からメーカーの店員さんが耕耘機を売り込みに来ました。私は『そのようなものがあるなら、青年団として見学に行かねばならん。』と言って、岡山県へ視察に行きました。耕耘機を用いると、牛で耕すよりも想像以上に速く耕すことができたので驚いたことを憶えています。その後、新谷の人たちの中には、岡山県へ行って耕耘機の性能を確かめてから注文したり、その人の話を聞いて注文したりした人もたくさんいました。昭和40年代に入り耕耘機が普及すると、牛市が開かれることはなくなりました。」

(3) 子どものころの思い出

 ア 戦前の子ども

 (ア) お手伝い

 「町の東の方に住んでいる私(Aさん)が、なぜ子どものころから西端の稲田橋の方まで知っているかというと、小学校に上がる前後から、父や兄が行っていた魚の行商を手伝っていたからです。父は天秤(てんびん)棒に荷物を下げ、私はくずし(蒲鉾(かまぼこ)などの練り製品)や魚を籠に入れて運んでいました。小学生のころは、今とは違い、何か家の手伝いをしてからでなければ登校させてもらえませんでした。そのため、毎朝、店の仕事をしてから登校していたので、先生からは級友たちの前でよく褒められていました。当時は青果店にもくずしを卸していて、私は小学校へ上がる前からその売り上げを計算していました。小学校で習う算数の足し算とは感覚が違いましたが、店の仕事を手伝っていたおかげで、速く計算できるようになっていました。
 私の妻は河辺村の出身ですが、手伝いについては私と同じような経験をしていました。友人が『一緒に登校しよう。』と誘いに来ても、掃除をしてからでなければ登校することができなかったそうです。私たちが子どものころは、何もお手伝いをしないで登校することはありませんでした。山の方に住む人であれば牛の飼料の草刈りをしたり、町中の人であれば家の前を掃除したりしてから登校していました。」

 (イ) 戦時中の小学校生活

 「私(Bさん)が小学5年生のとき(昭和19年〔1944年〕)だったと思いますが、運動場の隅にあった鉄棒の横に、防空壕がいくつも掘られていたことを憶えています。また、運動場はイモ(サツマイモ)畑となっていて、正門前の、現在は駐車場になっている場所も耕してイモ畑にしていました。そのため、運動会が行われることはありませんでした。さらに、数㎞離れた有木の下の森林組合の山にもイモが植えられていました。戦時中は食糧難であったため、収穫したイモを持ち帰っても蒸したものを1個ずつしか食べさせてもらうことができませんでした。
 戦時中は学校へ行っても勤労奉仕ばかりで、勉強をしていると反対に叱られることもありました。私が先生に褒めてもらおうと思い、帳面に書き取りをしていると、『帳面などは配給制で不足しているのに、何でこんな書き取りをするんぞ。それより仕事をせい。』と言われたことを憶えています。また、授業中に竹槍(やり)の訓練も行われていました。あらかじめ学校で藁人形を作っておき、各自で作った竹槍を持って、『ヤー』という掛け声とともに突いていたことを憶えています。」

 イ おやつ  

 「私(Dさん)が子どものころ、冨岡さんの鮮魚店(後の新谷センター)で販売されていたアイスキャンデーのことはとても鮮明に憶えています。中学生のころ、学校の行き帰りには店の前で、アイスキャンデーを作っている様子をいつも見ていて、できたばかりのアイスキャンデーを型枠から出してもらい、買っていました。」
 「私(Gさん)が子どものころのことなので昭和30年代だったと思いますが、新谷センターではアイスキャンデーが1本5円で販売されていました。当時、子どもたちはアイスキャンデーを買うことをとても楽しみにしていました。また、新谷中学校の前にあった山中商店には、多くの中学生が、持ってくるのを忘れた学用品を買いに来たり、腹が減るとおやつとしてパンや牛乳を買いに来たりして繁盛していました。店にはビスケットやチューインガムなどのお菓子も販売されていたので、私もときどき買いに行っていたことを憶えています。」
 「今の井筒屋さんは和菓子の製造・販売のみを行っていますが、私(Fさん)が子どものころは、店で焼いたパンも販売していました(図表1-1-3の㋧参照)。井筒屋さんは私の家の2軒向こうだったのですが、パンを焼く良い匂いが漂ってきていました。そこで、親にねだってもらった10円を持ってパンを買いに行くと、おじさんがあんパンに余分にあんを入れてくれました。そのあんパンは焼き立てでまだ温かく、とても美味しかったことを憶えています。ただし、その10円を親からもらうことがなかなかできませんでした。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 建設省大洲工事事務所『大洲工事五十年史』1994
・ 大洲市『増補改訂 大洲市誌(上巻、下巻)』1996
・ 愛媛県生涯学習センター『伊予の遍路道』2002
・ 松本零士「昆虫国漂流記」(『君たちは夢をどうかなえるか』PHP研究所 2018)
・ 愛媛大学社会共創学部文化資源マネージメントコース
『2019年度「プロジェクト基礎・実践演習」(大洲市新谷地区巡検)報告』2020

写真1-1-14 手作りのちゃぶ台

写真1-1-14 手作りのちゃぶ台

製作年月、製作費、購入者が墨で書かれている。※一部修整  令和2年9月撮影

写真1-1-15 滝田屋金物店

写真1-1-15 滝田屋金物店

令和2年7月撮影

写真1-1-17 当時使用したもろ蓋

写真1-1-17 当時使用したもろ蓋

令和2年9月撮影