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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 子どものころの楽しみ

 ア 子どもの遊び

 「小学生のころの遊びで私(Bさん)が憶えているのは、当時、おもちゃなどはなかったので、かくれんぼや缶蹴り、ビー玉遊びなどの昔からの遊びをしていたことです。小学生のころは、学校から帰ってくると、すぐにカバンを投げて、友達と遊んでいました。特に稲刈りが済むと、水田を広く使えるのでそこで友達とよく遊んでいて、泥だらけになって帰り、母によく叱られていました。そのころに私の家では、まだ洗濯機がなかったので、母が洗濯板とたらいで洗っていたことを憶えています。小学校の低学年のころには、まだ全ての家庭に冷蔵庫が普及していたわけではありませんでした。私の家でも冷蔵庫を購入したのは小学校の高学年のころでした。
 3月3日には海の節句、4日には山の節句があったことを憶えています。家で花見弁当みたいなものを作ってもらって、みんなで昼にそれを海で食べたり、山で食べたりする『弁当おつかい』に行くことが楽しみでした。私たちの世代は普段それほど美味しいものを食べていなかったので、お客ごと、結婚式などがあると、美味しい料理が出てきてうれしかったです。」
 「私(Aさん)は海へ泳ぎに行ったり、船を漕(こ)いだりしたことを憶えています。昔は気軽に船を貸してもらえていたので、櫓(ろ)を漕いで海に出ました。山を歩いて上がったり、つららを取りに野福峠まで上がったりしたことも良い思い出です。宇和と俵津をつなぐ道に俵津隧道というトンネルがあるのですが、そこには冬に大きなつららができるので、細い道を通って、歩いてみんなで取りに行っていました。法花津峠を越える旧道にも節句や花見の時期に行ったことを憶えています。みんなが50番と呼んでいた店がその時期にはにぎわっていました。電話番号が宇和の50番だったのでみんなが50番と呼んでいたのです。そこには食堂やバンガローもあり、子どものころには檻(おり)の中でサルを飼っていたことを憶えています。」

 イ 亥の子の思い出

 「私(Bさん)にとって、亥の子は一大イベントでした。この時期になると、お菓子をたくさんもらい、いろいろなものを食べさせてもらって、楽しかったことを憶えています。今は、子どもがいないので亥の子石を搗(つ)けないそうですが、私が子どものころは子どもが多かったので、小学1、2年生のときにはロープを持たせてもらえませんでした。それほど子どもが多かったのです。亥の子のときには、各家庭を回って、品物やお金を少しずつもらったものをみんなで分けて、そのお金でお菓子を買いに行くのが楽しみでした。」

 ウ 駄菓子屋さんの思い出

 「私(Bさん)が子どものころには、各地区に駄菓子屋さんが1、2軒はありました。ちょうど、玉津共選の2軒隣にも駄菓子屋さんがあったことを憶えています。そこへ、10円玉を1枚握りしめて駄菓子を買いに行くことが楽しみでした。当時、駄菓子は量り売りで、紙の袋に入れてもらったビスケットやボーロ、あられなどを大事に食べていました。チョコレートも売っていましたが、子どもには高価で、10円玉を1枚握りしめて行っても、チョコレートは20円から30円くらいだったので、買うことができませんでした。亥の子でお金をもらったり、お年玉を親戚の人たちにもらったりして、100円から200円くらいのまとまった金額を手に入れると、とてもお金持ちになったような気がしていました。そのようなときには、チョコレートなどめったに買わないものを買ったことを憶えています。
 当時はバナナも高級品でしたが、小学生のころに『大人になってお金を稼ぐようになったら、バナナを腹いっぱい食べたいなあ』と思ったことを憶えています。どこの地域にも裕福な家庭もあれば、裕福ではない家庭もありますが、私たちのような田舎では意外と和気あいあいとしたところがあったように思います。今考えると、当時は遊ぶものも美味しい食べ物もあまりありませんでしたが、楽しかったということを憶えています。」

 エ 映画館とテレビ

 「昔は吉田に映画館が2館ありました。小学生や中学生のころは映画を観(み)に行くことが楽しみでした。私(Bさん)が最初に観た映画は、吉田東映で上映されたアニメの『猿飛佐助』で、小学3、4年生のころでしたが、今でも憶えています。
 高校生のころには吉田に映画館はなくなっていましたが、宇和島にはあったので、よく映画を観に行っていました。宇和島には映画館がその当時4、5館あったように記憶しています。土曜日には料金が100円から300円くらいだったと思いますが、オールナイトで映画を観ることができたうえに安かったので、よく観に行ったことを憶えています。そのころに、どうしても観たかった映画が上映されていたので、台風が近づく中を宇和島の映画館までバイクで行ったことがありました。その映画は石原裕次郎の『栄光への5000キロ』というサファリラリーの映画で、今でもよく憶えています。
 テレビは、昔の白黒テレビを小学校の低学年のころに初めて見ました。プロレスで力道山などを釘付けになって見ていました。最初は私たちのような一般の家庭にテレビはなくて、地区の裕福な家にしかテレビが入っていませんでした。私たちの地区にも1台か2台くらいしかなく、夕方になると、多くの人が集まって、見せてもらっていたことを憶えています。大相撲も人気がありました。昔は巡業も結構行われたようで、私も小学生のときに吉田小学校へ大相撲の巡業を見に行ったことがありました。そのときには奄美地方出身で、立派な胸毛の横綱朝潮を見た記憶があります。小学校の中学年のころから徐々に各家庭にテレビが入り始めましたが、小学6年生のときに東京オリンピック(昭和39年〔1964年〕開催)がありました。小学校でもオリンピック中継をよく見せてもらっていて、当時のテレビは、画面の前に扉の付いたものだったことを憶えています。もう一度東京オリンピックが開催されることになるとは思いませんでした。」

(2) 人々の生活

 ア 何でも手作り
 
 「祭りのときは美味しいものを食べさせてもらえたので、子どものころは祭りをとても楽しみにしていました。私(Bさん)が小学校の低学年のころ、家の御飯は白米に麦を混ぜて炊いたもので、美味しくなかったことを憶えています。いわゆる銀シャリは、祭りやお客ごとのときでないと食べることができませんでした。」
 「私(Aさん)の家でも、祭りや年末、正月のときなどには、『ちんちまんま』と呼んでいた、麦の入っていない白御飯を食べていました。昔は祭りもにぎやかでした。この地区は『暴れ牛鬼』だったので、与村井の方では、家の前に棒で垣根を作って家を壊されないようにしていました。駐在所もありましたが、担ぎ手の人たちが酒の入った状態だったためか、駐在所のガラスを牛鬼が割ってしまうことがあったことを憶えています。若い人たちが多かったので、活気があったのではないかと思います。
 昔は自分の家で、豆腐などいろいろなものを手作りしていました。父が茶を栽培し、母が茶葉にしていたことを憶えています。今は作ることはできませんが、味噌(みそ)も作っていました。昔の人は倹約して生活していたのではないかと思います。」
 「私(Bさん)の家では、何でも家で作っていたことを憶えています。こんにゃくや味噌、漬物、お茶、らっきょうなども全て自分の家で作っていて、ほぼ自給自足に近かったと思います。また、昔は竹なども使い、無駄なくいろいろなものを作っていて、買い物の必要はあまりありませんでした。家には丸籠もたくさんあり、梅干しにする梅を天日干しするときに使ったり、イモを切ったものを干したりするときにも使っていました。丸籠は使い勝手が良かったようで、お茶の葉を煎ったものを丸籠に並べていた記憶もあります。たくさんあった丸籠を、30年ほど前に家を建て替えた際に全部燃やしてしまい、両親に怒られてしまいました。『もう使わないだろう。』と私が言うと、『あれほど便利なものはない。』と妻にまで言われました。
 醬油(しょうゆ)は作っているところを見たことがなかったと思うので、醬油や塩、砂糖くらいは買いに行っていたのではないかと思います。たまにてんぷら(じゃこ天)のようなものを買うくらいで、あまり食べるものを買いに行くことがなかったように記憶しています。買い物ができる店も、農協ができるまでは地区に雑貨店しかなく、よくお使いに行かされていました。その際、お駄賃に5円玉、10円玉をもらって、お菓子を買って帰ったことを憶えています。」

 イ 法花津地区の町並み

 「子どものころは法花津地区にも店が至る所にありました。旅館もありましたし、ミカン景気の時期には料理屋さんも2軒ありました。私(Bさん)たちの親くらいの世代の人は、景気の良い時分には毎晩のようにどんちゃん騒ぎをしていたことを憶えています。さらに、宇和島の方へ地下足袋のまま行って、料亭で飲んでいたそうです。」

 ウ 小学校の給食について

 「小学校で給食が始まったのが、私(Aさん)が1年生のときかその前年だったので、昭和30年(1955年)ころでした。給食のおばちゃんとして、当番で近所の方が給食を作ってくれました。そのころは子どもたちが自分の家からイモや大根を持っていき、集まった材料で給食が作られていたことを憶えています。」
 「私(Bさん)は、『ジャガイモを持ってきなさい』などと黒板に書かれていたことを憶えています。学校は子どもたちに各家庭からその日の給食に必要な材料を持ってこさせていました。パン屋さんが近くにあったので、パンだけは出来立ての美味しいパンでした。飲み物は脱脂粉乳で、私はあまり美味しいとは思えず、脱脂粉乳の上に張る厚い膜が苦手でした。」

 エ 風呂と竈について

 「子どものころ、風呂は薪(まき)を焚(た)いて沸かしていました。風呂釜も五右衛門風呂で、鉄でできた大きな釜でした。風呂に入って、釜の鉄の部分に少しでも触れると熱かったことを私(Bさん)は憶えています。風呂から出ると、昔はエアコンがなかったので、夕涼みをしていました。現在ほど夏も暑くはなく、気温が30℃あると『今日はとても暑いなあ』と思ったことを憶えています。最近の夏は猛暑なので、エアコンがなかったら大変です。
 子どものころには薪を運ぶためにキンマ(木馬)を使っていた記憶があります。山で木を伐(き)り出す際にはキンマを使っていましたが、私の家ではミカン採りには使わなかったように思います。
 竈(かまど)は昔の家を取り壊すまではありました。最後の方はプロパンガスになって、ほとんど使いませんでしたが、母がそれでも少しは使っていました。小学校の低学年までは竈で炊いた御飯を食べていましたし、その後も、お茶の葉を煎ったり、ひな祭りのころには、水飴(あめ)を溶かしてひなあられを水飴で固めたものを作ったりしていました。
 昔の古い家には、イモ壺(つぼ)というイモを蓄える地下室のようなものが必ずありました。そこにいつもイモがあったので、竈の薪が熾(お)きになったころに家にあるイモを中にくべて、よく食べていました。古い家のときにはまだ囲炉裏もあり、冬は囲炉裏にあたって暖を取っていました。冬に寒くなると、布団の中に湯たんぽを入れて暖めますが、小学校の中学年ころになると、豆炭や練炭を入れたようなものも家にあったことを憶えています。電気こたつは各家庭にそれほど普及しておらず、中には掘りごたつの中に熾きを入れていた家もありました。
 昔の家は隙間風で冬は寒かったことを記憶しています。新しい家になったときに冬でも暖かいと思いました。しかし、夏は古い家の方が風通しが良く、涼しかった記憶があります。土の壁が良かったのかもしれません。」


参考文献
・ 吉田町『吉田町誌(下巻)』1976
・ 吉田町『合併三十周年記念写真集 なつかしの吉田』1984
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 宇和青果農業協同組合『宇和青果農協八十年のあゆみ』1996