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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 島のくらしの記憶

 九島は宇和島(うわじま)市の中心部から西に直線で約4㎞に位置し、地形は全般的に急傾斜で、河川が急勾配で短いため水不足は慢性的であった。飲料水は共同井戸と簡易水道に頼っていたが給水能力は低く、昭和48年(1973年)に宇和島市内の宮下浄水場の水が海底送水されて飲料水の不足は解消された。住民のほとんどは島の南岸に居住し、本九島、百之浦、蛤の3集落が形成されている。住民の生活は宇和海沿岸に特有の段畑耕作とイワシ網などの漁業に従事する半農半漁の生活であった。農業は段畑での夏作の甘藷(かんしょ)と冬作の麦の栽培を主としていたが、昭和40年(1965年)ころから多くが柑橘(かんきつ)園に転換され、柑橘栽培が盛んとなった。漁業は小型巻き網、一本釣りなどの漁船漁業が中心であったが、昭和30年代から養殖漁業にも取り組むようになった。当初は宇和島へ県外資本の大月真珠が進出したことに刺激され、真珠母貝養殖が盛んとなったが、昭和42年(1967年)の不況を契機に衰退し、代わってハマチ養殖が盛んとなった。現在はマダイ養殖が中心で養殖魚の種類は多様化している。
 宇和島市街地との唯一の交通手段は長らく定期船であった。定期船は昭和24年(1949年)に盛運汽船株式会社により運航が開始されたが、事業譲渡を受け、昭和27年(1952年)からは九島農業協同組合が運航を行い、昭和44年(1969年)にはフェリーが就航した。その後、農業協同組合組織の統合により、平成10年(1998年)からJAえひめ南の子会社である株式会社えひめ南汽船が運航を行ってきた。島民は定期船に頼る生活を送り、離島として多くの課題を抱えており、架橋は長年の悲願であった。昭和62年(1987年)に九島連合自治会が架橋を市に陳情し、平成3年(1991年)には九島架橋促進協議会が発足した。平成20年度から本格的な調査が開始され、平成22年度には架橋工事が国の補助事業として採択された。平成25年(2013年)に建設工事が始まり、平成28年(2016年)3月に九島大橋が完成、4月に開通した(写真2-2-1参照)。なお、九島大橋が開通した翌日に定期船航路は廃止された。
 本節では、九島のくらしについて、九島で生まれ育ち、生活されているAさん(昭和21年生まれ)、Bさん(昭和21年生まれ)御夫婦から話を聞いた。御夫婦は九島中学校卒業後、Aさんは九島農協で、Bさんは九島小学校で校務員として勤務し、愛媛県立宇和島南高等学校(現愛媛県立宇和島南中等教育学校)定時制を卒業した。Bさんはその後、短大の通信教育部にて幼稚園教諭免許状を取得し、九島幼稚園をはじめとして宇和島市立の幼稚園で勤務した。

写真2-2-1 九島大橋

写真2-2-1 九島大橋

令和2年8月撮影