データベース『えひめの記憶』
伊予の遍路道(平成13年度)
(2)奥之院仙龍寺経由の遍路道
ア 三角寺から奥之院へ
奥之院に向かう道の起点は三角寺境内である。境内の茂兵衛道標(79)に「奥の院是より五十八丁」、「参詣して御縁越結び現当二世の利益を受く遍し」といった言葉が彫り込まれているなど、三角寺には奥之院に関係した道標が多い。
新宮村にある仙龍寺は通称(三角寺の)奥の院と呼ばれ、古くから多くの遍路が参拝したようで、その名は江戸時代の遍路関係の書物にしばしば登場する。真念の『四国邊路道指南』(貞享4年〔1687年〕)や細田周英の『四国徧礼絵図』(宝暦13年〔1763年〕)などを見ると、三角寺から法皇山脈を越えて奥之院までの58丁の遍路道、及び、奥之院参拝後に平山まで戻って、三角寺から雲辺寺に直接向かうルートと合流するまでの48丁の遍路道が、すでにこの頃(ころ)から確立されていたことがわかる<36>。さらにこの遍路道上には、享保年間・宝暦年間に丁石及び地蔵丁石が数多く設置されたようである。そのうち地蔵丁石は、いずれも像の頭上または左右の肩上に何丁という距離が彫り込まれた舟形地蔵であり、施主などを示す刻字は摩滅して判読不能のものが多い。
奥之院道をたどるには、まず三角寺の南口を出て、寺叢(そう)を抜けて三角寺の集落に入る。集落を過ぎて一面に棚田が広がる大きな谷の入り口まで行くと、ここに道標(90)が立っている。南方に視界が大きく広がり、標高765mの地蔵峰(遍路道はこの峰下の地蔵峠を通る。)や標高825.6mの平石山など、法皇山脈の山並みが間近に見える。
遍路道は谷奥の四辻(よつつじ)に立つ茂兵衛道標(91)で左折し、地蔵峰をめざして東に向かって上がる。道の左側に谷を見ながら、杉林・檜(ひのき)林の中を進む細い山道である。流水が道を大きくえぐった箇所や、倒木が道を塞(ふさ)いでいる箇所がところどころにある。途中の幾つかの谷には少量ながら水が流れており、良い水場となっている。この間、地蔵峠手前までには、三角寺境内の58丁の地蔵をはじめとして57丁~55丁、49丁~47丁、42丁~35丁、33丁~29丁、27丁の地蔵丁石群、及び破損して距離判読不明の地蔵丁石3基が現存している。
「市民の森」キャンプ場東端の地蔵峠に至る(写真3-4-18)と、峠道の右側に4基の地蔵が並んで立っている。右から2番目は地蔵道標(92)、その左も仏海による地蔵道標(93)で、1番左は26丁の地蔵丁石である。仏海(1710年~1769年)は、道行く遍路のために土佐に接待庵(仏海庵)を建てたことなどで知られる木食(もくじき)僧で、2年ほど奥之院に滞在して千体地蔵を製作したと伝えられている<37>。道標に刻まれた寛保3年(1743年)は、彼の奥之院退山の年である。なお、これら地蔵群と道をはさんで反対側には、奥之院への案内を彫り込んだ道標(94)も立っている。
地蔵峠からは法皇山脈を南に下る。途中、「桜馬場」と呼ばれる高原状の緩い傾斜地があり、その名の由来ともなった樹高20mにおよぶ桜の大木が枝を広げている(写真3-4-19)。ここは戦前、遍路を相手にした無人の販売所があり、唐黍(とうきび)・かんころ芋・ふかした薩摩芋などが売られていたという。さらに杉林の中の急勾配を下って行くが、杉林が途切れると、ところどころにしきみ(花柴)の畑が広がる。この間の道筋には25丁~22丁、20丁~10丁の地蔵丁石がある。
法皇山脈南山腹の新宮村大窪の集落を横切る村道を渡ると、奥之院不動堂の入り口である。ここには茂兵衛道標(95)ともう1基の道標(96)が立っている。茂兵衛道標(95)の後ろには戦前までは茶店を兼ねた遍路宿があって、ここが雲辺寺に向かう遍路道との分岐点であった。したがって、奥之院を参拝した遍路はいったんここまで打ち戻ってから平山に向かったのである。『四国邊路道指南』には、「大久保(大窪)二三軒有、荷物をきてよし。但おくの院一しゆくの時は荷物持行。(中略)おくの院より荷物置たる所へもどり、雲辺寺へ行。<38>」とある。なお、不動堂の参道右側には3基の地蔵が並んでいて、そのうち右側の頭部のない地蔵は雲辺寺への道標(97)、他の2基はいずれも9丁の地蔵丁石である。三角寺からの一連の地蔵丁石は、この9丁のものをもって終わる。
不動堂前まで進むと、不動堂の向かって左には、茂兵衛道標(98)と享保14年(1729年)に建立された8丁の丁石がある。不動堂から奥之院伽藍までの間を八丁坂と呼び、この間は地蔵丁石に代わって8丁から1丁までの丁石(2丁の丁石は所在不明)が立っている。ここから先は雑木林の中を下る急傾斜の道である。道の左右とも切り立った崖(がけ)となっている箇所、道が土砂崩れで狭くなった箇所など歩きにくい所が多く、途中の「後藤玄哲坂」は特に勾配のきつい九十九(つづら)折りの道である。なお後藤玄哲とは、毎月奥之院参拝を行っていたという江戸時代前期の川之江の住人(寛文元年〔1661年〕没)で、広く参詣人の便宜を図るためにこの坂の道を切り開いた<39>と伝えられる。
4丁の丁石の地点で道は左右に分かれ、右に行くと清滝を経由して奥之院に至る道、左は奥之院に直接向かう遍路道である。この分岐点にはもう1基、奥之院の新四国霊場を示す標石が傾きながら立っている。奥之院の新四国霊場は、大正3年(1914年)に中務茂兵衛が発起人となり、奥之院境内~清滝~この分岐点~奥之院境内と一周するコースで開設された<40>。この分岐点で左に道をとり、新四国霊場の石仏群を通り過ぎて奥之院伽藍(がらん)に向かう。「大師修行之護摩岩窟」の傍らを過ぎてしばらく行くと、眼下の大きな谷の間に奥之院の建物の屋根が見えてくる。
三角寺から奥之院への山道は、「路程五十八丁、山中岩端をとり、崎嘔を歴て至る<41>」(『四国徧礼霊場記』)というような難所である。したがって、古くから多くの遍路記の中に道中の苦労が記述されている。例えば澄禅は『四国遍路日記』の中で、地蔵峠への上り道について「誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。<42>」と記し、峠からの下り道についても「深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景ニ於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事廿余町シテ谷底二至ル。<43>」としている。さらに八丁坂については、『四国遍礼名所図会』に「樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。<44>」という記述が見える。
奥之院境内に下り立つ。境内には幾つかの伽藍が配置されているが、その中心をなすのは、谷間の屹立(きつりつ)する岩壁に寄り添うように建てられた楼閣状の長大な通夜堂である。本堂は通夜堂の4階にある。『四国遍礼名所図会』を見ても、江戸時代からおおむね今日と同様の造りだったようである。文政2年(1819年)の遍路行でここを訪ねた新井頼助は、まずこの通夜堂を見て驚き、「寺ハ山岩壁ノことくなる所二建て、人界ノ及ぶ所二あらす。よくも建シものなり。<45>」と書き記している。続いて建物の中に入り、「寺の縁より谷ヲ見れは、けんうんノ心地する。此屋根ハ何人ノ葺しそと問ヘハ、一面二谷ヨリ組上ケ、足場として如此と云。目ヲ驚す計り異なる所可恐々々。<46>」と再び驚嘆している。通夜堂の正面左の滝からは、大きな音をたてて水が絶え間なく蟹淵(かにぶち)に流れ込み、そこからさらに谷川を流れ下っている。現在、通夜堂前はコンクリートで固めた前庭となっているが、それ以前は屋根つきの木橋が架かるのみで、下の蟹淵や谷川がよく見えていたという。
明治40年(1907年)の遍路行で奥之院に宿泊した小林雨峯は、ここで偶然中務茂兵衛と出会っている。彼は茂兵衛について、「見(み)るからに温和(さんわ)な風采(ふうい)の人(ひと)にて、到(いた)る處(ところ)に道(みち)しるべの石(いし)を建(た)てつゝあるく人(ひと)で、四國(こく)ではこの人(ひと)を知(し)らぬ人(ひと)はない程(ほど)の篤信者(とくしんじゃ)なり<47>」と、その遍路記に書き記している。当時、奥之院は茂兵衛にとって定宿のような存在であったようである。
イ 奥之院から平山へ
奥之院を参拝した遍路は、続いて六十六番雲辺寺に向かった。そのためにまず八丁坂入り口の不動堂まで打ち戻り、そこから新宮村の市仲(いっちゅう)を経て堀切峠を下り川之江市金田町平山に出た。平山で、三角寺から直接雲辺寺に向かう遍路道と合流する。不動堂-平山間は48丁とされ、その間の9丁から48丁についても1丁ごとに地蔵丁石が建立されたようである。
まず、9丁の地蔵丁石が立つ不動堂入り口の遍路宿跡まで戻り、そこの石垣に沿って東に向かう。不動堂から市仲への道は、もはや歩く人がないため一面雑草や雑木に覆われ、途中の谷では10m近くにわたって道が崩落している。このあたりは昔から難渋する道だったのだろう、『四国遍路日記』に「件ノ坂(八丁坂)ヲ山ノ半腹ヨリ東二向キテ恐シキ山ノカケヲ伝ヒ往ク。<48>」という記述が見える。やがて遍路道は市仲の集落に入り、かつての新土佐街道と合流して堀切峠に向かう。この合流点あたりに真念道標(99)が立ち、さらにその先の左崖上にも2基の道標(100)・(101)がある。享保14年(1729年)建立の道標(102)を過ぎたあたりから道幅は狭まり、道の左斜面は雑木林、右側は檜が植林された谷となる。不動堂を出て堀切峠に至るまでの間に10丁~15丁、17丁、18丁、24丁、28丁~30丁の地蔵丁石、及び破損するなどして刻字が判読できない地蔵丁石も5基見出すことができる。
遍路道はこの後、標高490mの堀切峠で県道川之江大豊線と交差する。県道崖上の急斜面に、雑草に覆われた茂兵衛道標(103)を望むことができ、県道沿いにも1基の道標(104)がある。道はここから平山に向かって平山坂を北に下るが、かつては、そのまま東の呉石(くれいし)高原に向かい峰伝いに讃岐山脈に入って雲辺寺をめざす遍路もいたようである<49>。
よく手入れされた檜の展示林の中を下って行くと、新宮村からやって来た土佐街道の本道と合流する。合流点の三差路には、かなり手のこんだつくりの道標(105)がある。岩石をくだいて道を通したという「せりわり」の痕跡を見ながら、雑草が生い茂る九十九(つづら)折りの平山坂をさらに下る。流水のため、道がV字形に周囲から2m以上えぐられた箇所もある(写真3-4-20)。茂兵衛道標(106)を過ぎたあたりで北方に視界が開け、高知・徳島に向かう高速道路をはじめ川之江市の東部地域一帯を望むことができる。遍路道はさらに急斜面を下って嶋屋跡に至るが、堀切峠-平山間には46丁・47丁の地蔵丁石と、その様式や寸法から判断して地蔵丁石の残骸(ざんがい)と推測されるものが3基確認できる。
奥之院からの遍路道はこの嶋屋跡の地点で、三角寺から雲辺寺に直接向かう遍路道と合流して終わる。合流点には茂兵衛道標(89)と並んで、48丁の地蔵丁石が立っている。
写真3-4-18 地蔵峠上の地蔵峰付近からの遠望 北方に川之江市の市街地が広がる。平成13年5月撮影 |
写真3-4-19 「桜馬場」の桜と18丁の丁石地蔵 平成13年5月撮影 |
写真3-4-20 平山坂 流水にえぐられて周囲から大きく落ち込んだ遍路道。平成13年5月撮影 |