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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)三角寺から川之江市平山へ

 六十五番三角寺へは門前の駐車場の中央から急な石段を上る。石段の途中に1基の丁石がある。山門をくぐると境内の南に本堂があり、大師堂はその後ろに位置している。澄禅の『四国徧遍路日記』に「前庭ノ紅葉無類ノ名木也<30>」、『四国礼霊場記』に「此所も本梅おほかりしによつて<31>」とあるほか、寛政7年(1795年)にここを訪れた小林一茶が「是でこそ登かひあり山桜」という一句を詠む<32>など、三角寺は、古くから周囲を森に囲まれて境内も緑豊かな寺だったようである。なお、三角寺の寺名の由来については、『四国遍礼名所図会』に「大師の三角の護摩壇有故に三角寺と号す。<33>」とあり、庫裏(くり)と本堂の間にある三角形の小さな池(写真3-4-16)がその名残だとされている<34>。
 境内には3基の道標(78)・(79)・(80)がある。すなわち、本堂建物の下に移設された徳右衛門道標(78)、本堂の向かい正面の茂兵衛道標(79)、境内南口の道標(80)であり、南口の道標と並んで奥之院(仙龍寺)まで五十八丁を示す地蔵丁石も立っている。また、本堂前の石段下にも1基の道標(81)が見られる。
 三角寺を出た遍路道は、六十六番雲辺寺をめざして徳島県境に向かう。雲辺寺は讃岐の札所に数えられるが、香川・徳島両県の県境をなす讃岐山脈稜線(りょうせん)のやや南に位置するため、その所在地は徳島県池田町である。
 まず、三角寺門前の商店(旧遍路宿)左脇の小道を下りた後、三角寺川の谷と並行して北に向かって下って行く。雨水の流路となっているようで道は深くえぐられ、山石が転がり小さな雑木が覆いかぶさって歩きにくい。谷道との交差地点に立つ道標(82)を行き過ぎた後、市道と合流して金田町西金川に入ると、そこの三差路にも小さな道標(83)がある。さらに三角寺川に沿って下り、三角寺ロバス停留所に至る。バス停留所のある三角寺橋のたもとは、かつては春の季節になるとさかんに団子や白米の接待が行われた場所である。遍路宿が1軒あったほか、弘法大師の命日には善根宿を行う家もあったという。
 バス停留所を過ぎてさらに三角寺川沿いの小道を下ると、東金川橋たもとの商店角に道標(84)があるが、江戸時代の遍路道はこの道標までは行かず、正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標(85)が立っている。土佐街道は、江戸時代から明治・大正にかけて宇摩地方と土佐を結ぶ主要な幹線道路であり、土佐藩主山内氏の参勤交代道としても使われた。遍路道はここからしばらく、土佐街道を進むことになる。
 東金川地区に入ると、東金川集会所西200mに道標(86)があり、さらに集会所すぐ西の三差路にも茂兵衛道標(87)が立っている。茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標(88)が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である。
 茂兵衛道標(87)の前を右折せずにまっすぐ通り過ぎた遍路道は、徐々に法皇山脈を上っていったん県道川之江大豊線と合流した後、すぐ県道と分岐して平山(写真3-4-17)に向かって上がる。この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた<35>。
 その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている。遍路道と土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上って水ヶ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する。この分岐点には、茂兵衛道標(89)と奥之院まで四十八丁を示した地蔵丁石が並んで立っている。
 この地蔵丁石は、土佐街道の平山と堀切峠の区間が、奥之院へ行き帰りする遍路にとって遍路道の役割を果たしていたことを示したものである。遍路の中には、三角寺参拝の後、法皇山脈を越えて新宮村馬立の奥之院(仙龍寺)に参拝し、再び山脈を越えて平山まで下ってくる人も多かったといわれる。そこで次に、奥之院経由の遍路道をたどってみる。

写真3-4-16 三角寺境内の三角形の池

写真3-4-16 三角寺境内の三角形の池

池の中央に弁財天を祀る。平成13年9月撮影

写真3-4-17 平山の集落

写真3-4-17 平山の集落

左の石碑の後ろが嶋屋の跡地。土佐街道は、右後方に見えるカーポートの後ろから上っていく。平成13年8月撮影