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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)「へんろわかれ」から三角寺へ

 「へんろわかれ」から直進した遍路道は、2基の小振りな道標㉟・㊱が立つ銀行支店手前の三差路で右折する。その先には、平成12年に新しく建て替えられた石床大師堂(通称ひよけ大師堂)がある。大師堂前庭に地蔵の台石の道標㊲と上部が欠落した徳右衛門道標㊳が、大師堂の東側角には茂兵衛道標㊴が、それぞれ移設されている。このすぐ東の下石床橋東の三差路にも道標㊵があったが、これは現在、川之江市に住む建立者の子孫の宅地内に移設されている。
 ここから先の遍路道沿いには遍路道標が多く、上秋則地区に至るまでに8基の道標㊶~㊽がある(うち道標㊻は近くの中曽根小学校敷地内に移設されている。)。上秋則地区で道は左右に分かれ、右が三角寺への遍路道、左が徳島県の箸蔵(はしくら)寺に向かう箸蔵道だが、近年の区画整理と宅地開発によって、この分岐点周辺は様変わりしてわかりにくくなった。コールタールがかかった痛々しい状態の茂兵衛道標㊾、並んで立つ3基の道標(50)・(51)・(52)、そのすぐ南の地蔵の台石の道標(53)など、このあたりの道標群はいずれも付近から移設されたものと考えられる。さらにここから中田井地区(写真3-4-13)にかけては、江戸時代後期に中曽根村(現伊予三島市中曽根町)の人々によって建立された5基の道標(54)~(58)が続く。横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標(59)が立っている。
 遍路道は山麓の墓地の間を抜けながらしだいに上って行き、茂兵衛道標(60)が立つ高台に至る。この辺りの展望について、昭和3年(1928年)秋に遍路した島浪男は、その遍路記に「三島の町の甍や、その右手に長く連なった松原の上に燧灘が擴つて、遥かの沖には點々と散ばった島々だ。本場の伊豫蜜柑はもう大方とられたらしいが、秋の午前の輝かしい陽射しを受けて、山隈には夏蜜柑の類が色をあげてゐる最中だ。<26>」と描写している。続いて、高台のもう1基の道標(61)前からまっすぐ下ると、下りきった三差路にも茂兵衛道標(62)が立っている。この三差路を右に行くとすぐに銅山川疎水公園(写真3-4-14)である。
 昭和28年(1953年)の柳瀬ダム・銅山川疎水の完成を記念して整備されたのが銅山川疎水公園、通称戸川公園である<27>。ここには疎水関係の記念碑のほかに、四国遍路など客死した旅人たちの慰霊のために文化5年(1808年)に建立された一字一石塔、四国西国坂東秩父廻国供養塔、「光明真言二百万遍」記念の道標(63)など、巡礼に関係した石造物が幾つも集められている。
 遍路道は公園を過ぎて再び上り、山上集会所に至る。集会所敷地内には2基の道標(64)・(65)が移設・保存されている。ここにはかつては観音堂があったといわれ、小林一茶が三角寺に詣(もう)でた際にここで休息したという「一茶の腰掛石」が残り、その傍らには一茶の句碑も建立されている<28>。集会所の角を右折すると鳶畑(とびはた)の集落を経由して三角寺に至る市道が通じており、現代の歩き遍路の多くはこの道を利用しているようだが、旧来の遍路道はここを曲がらずにまっすぐ行く。
 さらに、常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」や横尾に残る3基の道標(66)・(67)・(68)(かつてはもう1基(69)があったが、これは南方の山麓に移動している。)を過ぎ、鰻谷(うなぎたに)川上流の橋を渡って上柏町平木地区に入る。ここには偏平(へんぺい)な山石の道標(70)が立っており、そのすぐ近くにも折れた丁石らしきものがある。平木の南端からは、急傾斜の小さな谷川の中をまっすぐ上る道となる。普段は谷川の水量はほとんどないものの、山石が堆積(たいせき)し、周囲の竹が倒れて覆いかぶさり、ほとんど道の形状を留(とど)めていない。100mほど上った所でようやくセメントで固めた小道が現れ、小さな地蔵堂に至る。ここの地蔵には弘法大師の霊験譚(たん)に由来した「おかげの地蔵」という呼称があり、その傍らには数基の遍路墓が並んでいる。
 遍路道は、地蔵堂すぐ上の道標(71)を通過し、蜜柑(みかん)の段々畑の間をS字形に通じる農道と交差を繰り返した後に雑木林の中を進む山道(写真3-4-15)となり、やがて三角寺に向かう前述の市道と合流する。農道からこの山道への入り口部分は、灌木(かんぼく)が道を塞(ふさ)ぎ土砂も崩れて通行不能となっている。雑木林の中を通る間は、昔ながらの遍路道が荒れ果てた状態で残っている。山腹を東に向けて緩やかに上り谷を越えて行く道で、道上には落ち葉がうず高く積もり、左右から雑木が被(かぶ)さっているために昼でも薄暗い。
 この雑木林の道の途中には何基もの遍路墓が残っており、それらが集まって墓地をなしている所もある。墓は、宝暦13年(1763年)の備前の遍路や文政4年(1821年)の丹波の遍路のものなどであり、その戒名も「離國道休信士」・「遊風道照信士」など、いかにも遍路を連想させるものが多い。伊予一番の難所横峰寺をどうにか越えてきた遍路たちも、三角寺へのこの山道でついに力尽きたのだろう。またこの道中、5基の道標(72)~(76)が見受けられるが、そのうち「右 三角寺道」「左 村松大師道」と刻まれた三差路の道標(74)のあたりが、伊予三島市と川之江市の境界だと思われる。ちなみに、村松大師は伊予三島市下柏町村松にある大師堂であり、のどや腹に飲み込んだ異物を除去してくれる「のぎよけ大師」として知られている<29>。
 金田町三角寺地区に向かう市道と合流した遍路道は、尾根を回って道標(77)を通り過ぎ、緩やかな斜面上に広がる畑地を南に見ながら、やがて法皇山脈中腹の標高360mに位置する三角寺に至る。

写真3-4-13 六十五番三角寺のある法皇山脈の山並み

写真3-4-13 六十五番三角寺のある法皇山脈の山並み

中曽根町中田井の遍路道から見る。平成13年6月撮影

写真3-4-14 銅山川疎水公園と遍路道

写真3-4-14 銅山川疎水公園と遍路道

中央に道標が見える。平成13年5月撮影

写真3-4-15 山腹の雑木林の中を通る遍路道

写真3-4-15 山腹の雑木林の中を通る遍路道

右手前に道標が見える。平成13年5月撮影