データベース『えひめの記憶』
伊予の遍路道(平成13年度)
(2)小松町岡村を経て横峰寺へ
ア 中山川から清楽寺へ
横峰寺は、神仏分離にあたり明治4年(1871年)に石鎚神社西遥拝所横峰社となって廃寺となり、六十番札所は、小松町新宮にある清楽寺に移された。しかし明治10年(1877年)に檀家総代から横峰寺の再建願いが出され、翌年愛媛県令から再興を認められると、明治13年(1880年)に「大峰寺」という名称で復活し、その後の清楽寺との協定(明治18年〔1885年〕の和解)によって清楽寺は前札所となり、再び六十番札所となった。そして明治41年(1908年)に至り、ようやく横峰寺の旧称に復帰することになった<21>。この間、遍路は五十九番国分寺より清楽寺を経て香園寺へと巡拝していたと考えられる。
中山川から清楽寺への遍路道は、東予市石田を過ぎてJR予讃線の中山川鉄橋あたりで中山川を渡り<22>、田んぼのあぜ道を400mほど南東方向に進む。このあぜ道が北西から進んできた丹原町に至る道と交差する地点に、清楽寺・香園寺・大峰寺への道を示した道標⑲が立っている。道標の指示に従い田園の中を南東方向に進み、JR新宮踏切手前約100mの四つ角を左折東進して300mほど進んだのち、右折して南に進むと清楽寺に至る。
清楽寺境内には、明治前半期の横峰寺との関係をしのばせる「横峯遥拝石」(写真3-3-8)と「四國六十番札所大峰寺道 四國六十番前札清楽寺道 仝(どう)寺ヨリ六十一番ヱ四丁 仝寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカ二六十番前札ナシ」と刻まれた円柱道標⑳がある。清楽寺住職の**さん(昭和14年生まれ)の話によると、この道標は30年ほど前までは、国道11号大頭交差点に立っていたようで、「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものであるとのことである。
清楽寺西方のJR予讃線新宮踏切北側には、正面に「左へんろ道」、右に「南無大師遍照金剛」と刻まれた小さな道標㉑がある。この道標は、このあたりの農道が主な清楽寺への道であったことを示しているが、ルートの確定は困難である。
イ 清楽寺から香園寺へ
遍路道は、清楽寺からJR予讃線の線路をくぐって南東に200mほど進み、三嶋神社前の国道11号との交差点に至る。交差点北側に円柱の道標㉒があり、清楽寺への道を示している。国道を渡って三嶋神社前の三差路に至ると、利平の円柱道標㉓、茂兵衛の角柱道標㉔が立っている。三嶋神社入口右の灯ろう前に立つ利平道標㉓は、ここが讃岐街道・今治街道・遍路道の結節点であることを示している。神社前の道路東側に立つ茂兵衛道標㉔には、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」という句が刻まれている。この辺りの遍路道は、『同行二人 四國遍路たより』によると、清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいた<23>ようであるが、現在その道は残っていない。
三嶋神社前から南西に250mほど進むと、香園寺参道入口に至る。参道入口前道路左手に、清楽寺への道を示した利平道標㉕、「右へんろ」と刻まれた小さな道標㉖、香園寺・宝寿寺・横峰寺への道を示した道標㉗が並んで立っている。
ウ 香園寺から岡村を経ておこやへ
前出の**さんの話によると、香園寺からおこやへの遍路道は、香園寺境内と同寺駐車場の間の道を南東に60mほど直進して左折し、200mほど東に進む道であったという。かつてこのあたりに「左へんろみ□」と刻まれた自然石の道標㉘があったが、現在は300mほど東南にある墓地の中に移設されている。この後、左折して30mほど進むと、**邸(新屋敷川原谷2263)西の植え込みの中に、宝寿寺・香園寺・大峰寺への道を示した茂兵衛道標㉙がある。「地主 岡田和平」と刻まれたこの道標は、建立以来移動していないと考えられる。道標が指し示す方向には、あぜ道が続いている。
あぜ道を約100m東進し、松山自動車道のサービスエリア「石鎚山ハイウェイオアシス」に至る道を横切ると、幅2mほどの舗装された道が東に延びている。そこから200mほど進み、小松高等学校への通学路を横切って住宅の裏側を100mほど行くと、小松川の西岸に出る。そこを左折して少し北上し、小松橋を渡る。東に50mほど進むと、道路右手に大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標㉚が立っている。道標の指示に従い、西町・旧藩の住宅地の細道を400mほど南東に進むと、小松藩主の菩提寺であった仏心寺前の四つ角に出る。
仏心寺を西に見ながら直進し、約200m進んで三差路を左折するとすぐ、南柯(なんか)公民館西の三差路に至り、三差路東の民家のブロック塀に隣接して、大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標㉛がある。このあたりが岡村の北端である。そこから住宅地の中の道を南に400mほど進むと、道路左手に地蔵堂があり、少し進んで小松川支流に架かる橋を渡ると三差路に至る。
三差路の分岐点に、ほとんどアスファルトに埋もれた状態で正面に手印、右側に「文政四」(1821年)と刻まれた道標㉜がある。道標の指示に従い左の道を50mほど進み、田んぼ道を南に進んでいくと、道はやや広い砂利道となり、さらに進むと、砕石場に至る舗装された2車線の道と合流する。そこから遍路道は、松山自動車道小松川橋をくぐって500mほど南西に進み、四つ角に出る。まっすぐ進む道は、「石鎚山ハイウェイオアシス」に至る道である。右に曲がると、700mほどで前述の道標㉜が立つ三差路に至る。この付近には道標もなく、高速自動車道路工事により新道ができており、遍路道の特定は困難である。
横峰寺への遍路道は左に続いている。舗装された道を南西に進むと、砕石場手前の道路左手に2基の標石が並んで立っている。右は「世話人西條寿し駒事日野駒吉」と刻まれた板状の道標㉝であり、左は「六十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石である。
前出の**さん・**さんの話によると、湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。「寿し駒」本名日野駒吉(1873年~1951年)(写真3-3-9)は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916年)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。その右には、大正15年(1926年)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている<24>。
「寿し駒」の道標の右を通り、本谷林道を500mほど進み、舗装された道を南へ小松川に沿って約1kmほど進むと、南東へ伸びる道との分岐点に至る。本谷林道からそれた南東の幅2mほどの小道が横峰寺への遍路道である。250mほど進むと、道は曲折した登りとなる。最初の曲がり角の所に「四十二丁」の舟形地蔵丁石があり、杉林の中を縫うように登っていくと、「三十九丁」「三十八丁」「三十七丁」「三十五丁」「三十三丁」などの地蔵丁石がつづく。
本谷林道との分岐点から距離にして約900m、高さ200mほど登った所が、地元の人々がおこやと呼んでいる地点(写真3-3-10)である。前出の**さん・**さんの話によると、おこやには昭和20年代ころまでは茶店があり、あめや団子を売っていたという。現在は、「四国のみち」の標識が立ち、ベンチの休憩所がある。かつて茶店があった場所には、5本の桜の木が植えられている。ここに「香園寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺へ一里二十丁」と刻まれた道標㉞が立っている。
工 おこやから横峰寺へ
遍路道はおこやから南東に100mほど進むと、右手には植林された檜(ひのき)林が続く尾根道となる。上り下りを繰り返しながら進むと、「三十二丁」から「十七丁」まで(「二十七丁」と「二十丁」は欠けている。)の14基の舟形地蔵丁石が立っている。そのほとんどに「新屋敷村地蔵講中」の刻字があり、ふもとの旧新屋敷村(小松町新屋敷)の人々が建てたものと思われる。また、「二十八丁」の地蔵丁石の向かい側には、横峰寺と香園寺への道を示し「御大典記念」と刻字された道標㉟が立っているが、下部は埋まっていて読めない。標高470mから600mの間の約1.7kmの山道(写真3-3-11)を、上り下りを繰り返しながら進んでいくと、やがて視界が開けてくる。
道が平らになった地点にある「四国のみち」休憩所の左の熊笹(くまざさ)の中に、「峯より十丁」と刻まれた地蔵道標㊱がある。そこから50mほど進むと山側に「十六丁」の地蔵丁石があり、さらに100mほど進むと「小松より」と彫られた舟形地蔵がある。遍路道はこの地点で、南東の道と南へ下る小道に分岐する。
南東への道を進むと、トンネル状の雑木林が300mほど続き、最後に20段ほどの階段を登ると、西条市大保木平野から伸びてきた平野林道と合流する。合流地点に最近建てられた香園寺・横峰寺までの距離を示した道標が立っている。ここから、舗装された林道を900mほど登ると、右手に横峰寺と横峰寺駐車場への道を示す最近建てられた道標があり、左手の山際には「從峯二丁」の道標㊲と地蔵が並んで立っている。さらに100mほど登ると、道路右手に古い地蔵、左手には「從峯一丁」と刻まれた元文3年(1738)建立の道標㊳がある。さらに100mほど進むと、横峰寺境内の歓喜天堂横に至る。
分岐点の「小松より」と刻んだ舟形地蔵から南に下る小道は、前述した大頭・湯浪経由横峰寺への登り「五丁」の地蔵丁石や道標⑭・⑮があった地点(古坊)にまでつながる約1kmの遍路道である。この道を、南に進んでいくと、「十三丁」「十二丁」「十丁」「八丁」「七丁」「六丁」の地蔵丁石がある(写真3-3-12)。この間の道は、杉が生長している所では下草も生えずきれいに残っているが、谷あいの所は崩れて通行できない状態であり、ここにあったと思われる地蔵丁石も見当たらない。前出の**さん・**さんの話によると、この道は古坊に人が住んでいた昭和50年ころまでは小松の町中に通ずる生活道路として使われていたという。この間のおこやから古坊までのことを『同行二人 四國遍路たより』には、次のように記している。ただし、古坊からおこやへと巡っているので、道順は逆になっている。「古坊(こぼう)に打戻(うちもど)って右(みぎ)へ一町半(ちゃうはん)も行(ゆ)くと右側(みぎがは)に落武者(おちむしゃ)とかの塚(つか)があり、小供(こども)の熱病(ねつびゃう)に御利益(ごりやく)があるとて玩具(ぐわんぐ)の太刀(たち)が澤山上(たくさんあが)つて居(を)ります。山(やま)を下(くだ)って暫(しば)し山(やま)の背(せ)を歩(ある)いて又山(またやま)へ上(のぼ)りますと三十三町(ちゃう)のところに茶店(ちゃみせ)が一軒(けん)あり、そこから二町参(ちゃうまい)りますと燧灘(ひうちなだ)の眺(なが)めがよろしいです。<25>」古坊から横峰寺までの道は前述した通りである。
写真3-3-8 清楽寺境内に立つ横峯遥拝石 平成13年9月撮影 |
写真3-3-9 前神寺参道の右に立つ「寿し駒」の石像 昭和11年(1936年)蓮華講員が建てたもの。もとは銅像であったが戦中の銅供出により戦後石像で再建。平成13年6月撮影 |
写真3-3-10 新屋敷本谷おこや付近 平成13年9月撮影 |
写真3-3-11 おこやから横峰寺への遍路道 平成13年9月撮影 |
写真3-3-12 古坊(石鎚横峰)付近の遍路道 中央に六丁の地蔵丁石が見える。平成13年7月撮影 |