データベース『えひめの記憶』
伊予の遍路道(平成13年度)
(1)小松町大頭を経て横峰寺・香園寺へ①
ア 大頭から湯浪へ
西日本の最高峰石鎚山(標高1982m)は、古くから霊峰といわれ、昭和30年(1955年)に国定公園に指定された。横峰寺は、この石鎚山の北側中腹の標高740mの地にあり、六十六番雲辺寺、十二番焼山寺についで四国霊場中3番目の高さにあって、古来、蔵王権現を祀(まつ)る石鎚山の別当寺の一つとして、六十四番前神寺とともに石鎚修験道(しゅげんどう)の中核であった寺である<1>。
かつて丹原町今井の生木(いきき)地蔵からの遍路道は、丹原町田野上方福田付近の現在の石鎚橋より100mほど上流の地点で中山川を渡り、小松町に入ったと思われる。中山川上手から幅約2mの農道を南東に500mほど進み、大井出川に架かる橋を渡った右手に、地蔵・橋供養塔など4基の石造物がある。道はこの中大頭(なかおおと)の集落から200mほど南東に進んで、国道11号に合流する。この辺りの大頭とその東の妙口(ようぐち)地区は、藩政時代から金毘羅街道の宿場として栄え、4軒の旅館兼茶店などがあった<2>という。国道を約300m北東に進み大頭交差点で右折し、県道石鎚丹原線(147号)を妙之谷川(みょうのたにがわ)沿いに南へ400mほど進むと、道路右脇に石土(いしづち)神社の石の鳥居(写真3-3-1)が立っている。古来、石鎚山の西登山口であるこの地には、後述の妙雲寺とその鎮守である石土神社があり、神仏混淆(こんこう)で蔵王権現を祀ってきた。石上神社は明治維新の神仏分離を受け、のち村社となった<3>。
石鎚山の夏季大祭は、毎年7月1日から10日まで行われ、各地からの信者が、水垢離(みずごり)をとり白装束に金剛杖をもち、先達(せんだつ)の引率で石鎚山に登る。備前・備中(ともに岡山県)などの中国地方から船で参詣する人々は、氷見(ひみ)新兵衛埠頭(ふとう)(西条市)に船を横づけし、小松の町中から登山道を岡村-おこや-横峰寺(古坊)-黒川-成就(じょうじゅ)-石鎚山へと登った。松山周辺の人々は、讃岐街道(金毘羅街道)を歩き大頭-湯浪-横峰寺を経て石鎚山に登った。いずれも千足山村(せんぞくやまむら)(小松町石鎚)を経ての登拝であった<4>という。この大頭から横峰寺を経由して石鎚山に登る道は、「お山道」と呼ばれ親しまれてきた<5>。
石土神社の前には、樹齢200年以上といわれるエノキがあったが、平成12年に枯れ、高さ4mほどの幹だけが残っている。往時ここは桜の馬場といわれ、参道は桜並木で、遍路や石鎚登山者の休憩所としてにぎわった<6>といわれている。
石土神社の南隣に、妙雲寺がある。この寺は、『四国遍礼名所図会』には、「明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る<7>」と記されていて、六十番横峰寺の前札所及び石鎚登山行者の礼拝所と定められ<8>、遍路の参詣も多く見られた。
門前には、左右に2基ずつ石柱が立っている。向かって右には、「六十番前札」の石柱と生木地蔵への逆遍路道を示す道標①が立っている。左には、千足山村在郷軍人建立の道標②と横峰寺までの距離を示した武田徳右衛門の道標③がある。道標②に刻まれている千足山村とは、かつて石鎚山の北西に位置した山村で、石鎚頂上社、成就社、横峰寺などを村域に含んでいた。
妙雲寺から横峰寺への遍路道は、途中の馬返(うまがえし)付近まではほとんどが県道147号である。妙之谷川沿いを南に進み、松山自動車道高架橋を過ぎて旧大郷(おおご)村(小松町大郷)に入り、県道から分岐した右の山際の道を400mほど進み、県道と合流する。右手の河内八幡神社前を通り、さらに800mほど進み、梅ヶ瀬橋を渡る。350mほど南に進むと三差路があり、直進すると山ノ神橋を渡って大郷字森原に至る。遍路道は左折するが、この三差路右手に、アスファルトに埋まって上部しか見えない自然石の道標④がある。
妙之谷川沿いに東進すると、左手に小堂があり、地蔵と「六十丁」と彫られた舟形地蔵丁石が並んで祀られている。左右に柿畑が広がる道を南進すると、県道は左に大きくカーブする。その手前で遍路道は分岐し、柿畑の中の道に入っていく。少し登ると、左手に「四十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。さらに登ると、柿畑から杉林への道となる。この遍路道は、県道から50mほど高い所を、県道に沿うように約1km続いている。小松町石鎚湯浪在住の**さん(昭和12年生まれ)と**さん(昭和15年生まれ)の話によると、この道は昭和20年代末ころまで生活道路として使用されていたとのことである。杉林の中を進むと、「四十四丁」「四十三丁」「四十丁」の地蔵丁石が立っている。しばらく行くと三差路(写真3-3-2)に、大江(大郷)村が建てた地蔵道標⑤と「横峯迄五十丁」と刻まれた徳右衛門道標⑥が立っている。このあたりには馬返(うまがえし)という字名(あざめい)が残っているが、杉林の中の隘路(あいろ)は名前の由来が実感できるほど険しい山道である。道標⑥の左の道を進むと、「三十九丁」「三十八丁」「三十七丁」の地蔵丁石と明治34年(1901年)に建てられた供養塔らしい石造物がある。そこから100mほど進むと杉林は終わり視界が開けてくる。しきみ(花柴)畑の右を通過して30mほど下ると、県道147号と再び合流する。
前出の**さんの話によると、合流地点の南には、戦前まで木橋が架けられており、遍路道は妙之谷川の左岸へと続いていた。幅1mほどの道を川沿いに30mほど進み、左にある「三十四丁」の地蔵丁石を過ぎると、切通しの道を下って川を渡り、左にカーブしたのち再度川の左岸へと進んだという。民家の裏を通り右に曲がると、小堂や六地蔵、「三十六丁」の地蔵丁石がある(写真3-3-3)。小堂から50mほど進むと、遍路道は、昭和59年(1984年)に県道が整備された際に削り取られ、消失している。
現在の遍路道は、再び県道に戻り、湯浪橋を渡って尾崎八幡神社前を進む。ここには、「横峰寺入口」のブリキの看板、戦後建てられた「横峰寺右」と刻まれた道標と、「四国のみち」の標識、上部が欠けた「三十一丁」の地蔵丁石が並んで立っている。尾崎八幡神社前を右折し、妙之谷川を左に見ながら県道を南東に50mほど進むと、道路右のコンクリート擁壁(ようへき)の中に、手印のみの道標⑦がある。この道標の上付近で、前述の遍路道は消失している。さらに進むと、「三十丁」の地蔵丁石と「御来迎所文化十四年」の年号や「横峰寺御来光出現」と刻まれた2基の石碑と地蔵がコンクリート擁壁の中にある。昭和初期に出版された『同行二人 四國遍路たより』によると、「三十一丁」の地蔵丁石辺りで飛石伝いに川を渡り、滝の音を耳にしながら登っていった<9>ようであるが、昭和59年(1984年)の県道147号の整備以降、かつての遍路道は県道に吸収され消失している。現在の遍路道は、ここから横峰寺への登り口までの約1.3kmを登っていくが、この間に多少移動させられたと思われる8基の地蔵丁石が立っている。うち6基(「二十八丁」「二十七丁」「二十五丁」「二十四丁」「二十三丁」「二十一丁」)はこれまでと同形態のものである。コンクリート製の小堂で覆われた1基の地蔵丁石は、二つに割れた跡があり、刻字は読めない。また、「二十四丁」の地蔵丁石の反対側にあるもう1基の小さな地蔵丁石も刻字は読めない。1kmまど進むと、正面に砂防ダムが見えてくる。ここで県道は大きく右に曲がり、150mほど進むと、県道の未着工地点に至り終点となる。
写真3-3-1 石土神社の石の鳥居 小松町妙口。平成13年5月撮影 |
写真3-3-2 徳右衛門道標が立つ三差路 大郷馬返付近。平成13年6月撮影 |
写真3-3-3 石鎚湯浪付近の遍路道 平成13年5月撮影 |