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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)生木道①

 ア 東予市内の生木道

 大明神川を渡るとすぐに道は分岐点にさしかかり、そこに茂兵衛道標(53)がある(写真3-2-15)。茂兵衛道標の多くは、「中務」の名字を使っているが、ここの道標は「中司」の字を使っている。ここから南東の方向に直進すると、六十一番香園寺への香園寺道(東まわりの遍路道)、右に進むと生木(いきき)地蔵経由の横峰寺への生木道(西まわりの遍路道)となる。
 生木道は茂兵衛道標(53)より右の道である県道徳能(とくのう)伊予三芳停車場線(150号)を進む。高田・桑村の家並みを1kmほど行くと、**邸(国安855)前の分岐点に自然石の道標(54)がある。そこから左へゆるやかに曲る道を150mほど進み、県道今治丹原線(155号)を越えて、南西に進み東予市立西中学校を過ぎると、吉岡郵便局手前の**邸(新町277)のブロック塀前に道標(55)がある。手印通り南西にさらに約200m進んだ交差点の酒店(新町299)前に道標(56)がある。遍路道は、手印に従い左折して県道150号を約400m進んで右折し、しばらく緩やかに曲った道に沿って進むと、県道155号に出る。この県道150号と県道155号との間の三角地帯(東予市安用長縄手(やすもちながのて))の草むらに茂兵衛道標(57)がある(写真3-2-16)。ここから、県道150号を右にカーブして行くと、現在の西山興隆寺経由の遍路道(西山お四国さん道)を進むことになる。
 生本道の遍路道は、ここで左折して県道155号を進む。すぐ左側に和霊神社があり、同じ敷地内には通夜堂を兼ねた大師堂がある<24>。大師堂の前に「奉納 本尊四国八十八ヶ所霊場」と刻まれた大きな石碑がある。さらにお堂寄りには、「是より生木へ三十八丁」の道標(58)があり、その上には灯ろうが置かれている。この大師堂と2基の石造物は和霊神社隣接の**家の信仰心の厚い祖父が、遍路のために建立したものである。

 イ 丹原町内の生木道

 遍路道は、和霊神社より県道155号を南西に約1km進み、東予市から丹原町に入り、やがて新川の出合橋に至る。橋を越えると左に地蔵堂があり、その左に風化の激しい徳右衛門道標(59)と小さな道標(60)が立っている。昔はここに接待所もあったという。
 出合橋から150m南に進むと県道155号から左に細い道が分岐している。かつての遍路道は、この細い田んぼ道を通っていたようであり(写真3-2-17)、南にしばらく進むと、やや広い道と交差する。もとはこの角に道標(61)があったが、今は南西45mの県道155号沿いの**邸(池田613)の前に移動している。道標(61)の右には破損した石碑の上に地蔵が置かれている。さらに田んぼの中の遍路道を200mほど南東に進むと左側に道標(62)があり、その上に地蔵が座っている。その後の遍路道は田んぼや建物により通行不能になっているが、かつては整形外科病院の東を通り、丹原高等学校の農場・運動場を横切り、さらに丹原町商店街の**邸(丹原1689-2)の角に立つ「きゃく遍ん路ミち」の道標(63)のあるところまでつながっていたようである。遍路道は道標(63)で右折し商店街に入って南西へ進む。このほかに商店街南側の小川沿いにも遍路道があったようであるが、この遍路道には道標が無いためはっきりしたことは分からない。
 商店街東端のスポーツ店前には「小松町へ」の標石がある。商店街を南西に進むとやがて右手に丹原郵便局があり、その少し先の四つ角を右折すると丹原町役場に至る。ここには移動された道標(64)があり、「松山札辻より十里」の里程石も移設されている。郵便局前の交差点から商店街を南西に約500m行くと電気店前の四つ角に至る。四つ角右手に、手印に長い袖のついた道標(65)がある。さらに西に進むと、前方に小高い四尾山(しびやま)(通称おしぶの森)が見え、左手の丹原東中学校を通り過ぎ、少し行くと左側に福岡八幡神社入り口があり、そこで県道壬生川丹原線(48号)と合流する。県道を少し進むと南の道路沿いに道標(66)があり、道標の左奥に生木(いきき)地蔵(正善寺)がある。
 生木地蔵については、『四国邊路道指南』に、「たんばら町、西にあたり紫尾(しび)山八幡、ふもとに大師御作生木(いきゝ)の地蔵霊異あげて計(かぞえ)がたし。<25>」と記されている。また『愛媛面影』には、「今井村の田中に小山有り。四尾(しび)山と名(づ)く。その山上に立(た)せり。縁起不い詳。比(の)山の麓に楠の大樹あり。中朽(ち)て空虚なり。その中に地蔵の立像を彫(り)たり。生木(いきゝの)地蔵と名(づ)く。何人の所業なる事を知(ら)ず。俗に引法大師の作也と云(ひ)伝ふ。凡(そ)四国の習(ひ)にて、奇しき事は皆大師の作と称(ふ)るもの多し。固(より)信ずるに足らず。<26>」とある。この楠(くす)の大樹は、昭和29年(1954年)の洞爺丸(とうやまる)台風によって倒れてしまった。しかし、彫られた地蔵は倒れることなく残ったので、それ以後は本堂の中に祀(まつ)られている(写真3-2-18)。また、当時の楠の一部も境内に安置されている。ちなみに徳島県の十四番常楽寺の奥の院である慈眼寺にも生木地蔵がある。ただし、この地蔵は、ある遍路が弘法大師の夢告により彫り付けたものであるという。
 また『丹原町誌』には、「昔、お大師様が生木のお地蔵さんを彫った時、蚊にかまれましたが、お坊様ですから、殺さないで袋に取っておき、翌朝放してやりました。それで、その子孫がふえて、今でも丹原には蚊が多いという話です。<27>」という伝説が記されている。

写真3-2-15 生木道と香園寺道との分岐点と道標

写真3-2-15 生木道と香園寺道との分岐点と道標

左が香園寺道である。東予市高田。平成13年5月撮影

写真3-2-16 三角地帯の中の道標

写真3-2-16 三角地帯の中の道標

東予市安用長縄手。平成13年6月撮影

写真3-2-17 田んぼの中の旧遍路道

写真3-2-17 田んぼの中の旧遍路道

丹原町池田。平成13年6月撮影

写真3-2-18 生木のお地蔵さん 

写真3-2-18 生木のお地蔵さん 

丹原町今井の生木地蔵(生善寺)。平成13年6月撮影