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伊予の遍路道(平成13年度)

第1節 窓坂から仙遊寺への道<注>

<1>澄禅『四国遍路日記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P48 1981)
<2>真念『四国邊路道指南』(伊予史談会編『四国遍路記集』P102 1981)
<3>中務茂兵衛著・鶴村松一編著『四国霊場略縁記 道中記大成』P44 1979
<4>愛媛新聞社『旧街道』P129~130 1973
<5>梅村武『へんろ道 五三番円明寺より五四番延命寺』P55 2001
<6>菊間小学校社会科研究グループ編『郷土のありさま』P186~189 1956
<7>愛媛県教育委員会文化財保護課編『愛媛県歴史の道調査報告書第一集 今治街道』P24 1995
<8>前出注<7>P26
<9>前出注<6>P178~179
<10>菊間町誌編さん委員会編『菊間町誌』P860 1979
<11>清水正史「近世伊予の交通」(景浦勉編『伊予近世社会の研究 下』P82 1997)
<12>前出注<7>P26
<13>梅村武『武田徳右衛門丁石』 P75・76 1998
   喜代古榮徳氏は、香川県長尾町玉泉寺にある道標も含めて徳右衛門道標の再利用は3基あると指摘している。(喜代吉榮
  徳『中務茂兵衛と真念法師のへんろ標石並に金倉寺中司文書』P54・55・78 1985)
<14>前出注<5>P63
<15>前出注<7>P26
<16>前出注<7>P26
<17>愛媛県文化振興財団編『えひめのふるさとこみち 東予編』P50 1983
<18>前出注<7>P27
<19>前出注<7>P27~29
<20>愛媛県教育委員会編『愛媛県の句碑・道標 句碑等実態調査報告書』P72 1991
<21>前出注<7>P30
<22>前出注<5>P87
<23>景浦直孝「圓明寺と四國遍路」(「伊豫史談 第三巻第二號』P586 1917)
<24>越智通敏『伊予の古刹・名刹』P113 1990
<25>前出注<5>P95
<26>野中彦兵衛『四國遍路中井摂待附萬覚帳』(喜代吉榮徳『四国遍路研究 第4号』P9 1994)
<27>九皋主人『四国遍礼名所図会』(『四国遍路記集』P274 1981)
<28>古川古松軒著・河野傅解読『四國道之記』P34 1998
<29>新井頼助『四国日記』(高知県編『高知県史・民俗資料編』P959 1977)
<30>前出注<11>P24
<31>宮尾しげを『画と文 四國遍路』P133 1943
<32>橋本徹馬『四國遍路記』P231 1950
<33>前出注<26>P7
<34>前出注<5>P105~106
<35>越智郡乃万村編『乃万村郷土誌』(今治郷土史編さん委員会編『今治地誌集 資料編 近・現代3』P438 1987)
<36>梅村武『へんろ道 五四番延命寺より五六番泰山寺』P59~60 2002
<37>今治市教育委員会編『今治の道しるべと句碑』P34 1992
<38>三好保治「今治市周辺近世石造遺文其弐 金吉屋・静道尚信 石造遺文研究」(『愛媛の文化 第15号』P63~78
  1975)
<39>前出注<38>P70~77
   喜代吉栄徳『へんろ人列伝』P224~235 1999
<40>昭和61年作成の『河川台帳図』今治地方局建設部管理課保管
   前出注<36>P27~28
<41>前出注<36>P28
<42>前出注<36>P14
<43>今治市教育委員会編『今治の歴史散歩』P43 1980
<44>前出注<1>P48
<45>前出注<2>P102
<46>平凡社地方資料センター編『愛媛県の地名』P276 1980
   前出注<43>P43
<47>前出注<38>P69
<48>前出注<38>P72
<49>愛媛県県史編さん委員会編『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』P293 1986
<50>安達忠一『同行二人 四國遍路たより』P130 1934
<51>前出注<7>P31
<52>前出注<36>P65
<53>前出注<37>P36 この2基の道標の移動については、前出注<36>のP68に図示されている。
<54>前出注<27>P276
<55>島浪男『札所と名所 四國遍路』P283 1930
<56>松浦武四郎『四國遍路道中雑誌』(吉田武三編『松浦武四郎紀行集(中)』P286 1975)
<57>真念『四国徧礼功徳記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P226 1981)
<58>前出注<27>P276
<59>前出注<1>P48
<60>玉川町誌編さん委員会編『玉川町誌』P917 1984
<61>前出注<46>P221
<62>前出注<27>P276
<63>西端さかえ『四国八十八札所遍路記』 P231 1964
<64>梅村武『へんろ道 五六番泰山寺より五八番仙遊寺』P25~26 2001
<65>前出注<37>P41
<66>この舟形地蔵2基の文字は摩耗して、このままでは読めないが、前出注<37>のP41・42に掲載された拓本の写真で読
  むことができる。
<67>半井梧菴『愛媛面影』(伊予史談会編P90 1980)
<68>前出注<64>P61
<69>山口崇「浄土は何処だ?内海源助懺悔旅」(山と渓谷社大阪支局編『四国八十八ヵ所を歩く』P136~137 2000)
<70>前出注<64>P68~69