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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)紺原から延命寺へ

 国道と合流した遍路道は、品部川に架かる吉田橋を渡って今治市に入る。右手に蓮池を見ながら700mほど進むと三差路にかかる。右が現国道196号、左は旧国道196号である。旧国道を800mほど進むと延喜店(えんぎみせ)の交差点がある。ここからは県道今治波方(なみかた)港線(38号)が直角に曲がっていて、東方の今治市中心街と北方の波方港方向に伸びている。波方方面約0.7kmにある乗禅寺には11基の石塔があり、国の重要文化財に指定されている。
 その交差点を越え500mほど東へ直進すると左側に大きな石柱、「四國霊場五十四番延命寺参道」があり、これより左折して延命寺参道となる。この石柱から150m足らず手前の県道筋、歯科医院横の路地に入って北方へ進むと、突き当たりの三差路の山際に2基の道標⑱・⑲が台石の上に並んでいる。この道もまた延命寺への遍路道であったと思われる。その三差路を右に100m余進むと前述の参道と合流する。合流してすぐの所にある延命寺駐車場入口の左山際に茂兵衛道標⑳がある。刻字の「是迄打もどり大便利」とは、延命寺巡拝後に、荷物をここに預け、次の札所南光坊を参拝して、この地まで逆戻りして、ここから泰山寺へ向かうのが便利であるとの意である。
 仁王門の前には、「ぎゃく」の「ぎ」の一部が欠けて「さゃく 遍照院江三里十二丁」となった道標㉑ともう1基の道標㉒がある。また重藤久勝による明治35年(1902年)巡拝10度目供養の4mほどの石柱もある。
 この道標㉒は「延命寺」の部分だけが硯(すずり)の縁のような枠取りの中に彫り直されている。既述の安養寺の道標⑰(写真3-1-4)もそうであるが、今治市内には、このように「圓明寺」の部分だけを削り取って「延命寺」と彫り直したと思われる道標が何基かある。
 ところでこの延命寺がかつて「圓明寺」と記されていたことは、鎌倉時代末期の僧凝然がこの寺で書いた『八宗綱要』の跋文に「文永五年(1268年)戊辰正月二十九日於豫州圓明寺西谷記之(中略)凝然生年廿九<23>」と記していることや、境内に残る宝永元年(1704年)鋳造の梵鐘(ぼんしょう)に「圓明寺」の文字が刻まれていることなどからも明らかである。その「圓明寺」から今日の「延命寺」へ寺名を変更したことについては、「この寺はもと円明寺(えんみょうじ)と称し、(中略)明治初年になって、第五十三番札所円明寺と同字同音なのを区別するため延命寺になった。<24>」と記す書もある。あるいは「明治初期まで五十三、五十四番が同じ『円明寺』となっているものが多く、『延命寺』という寺名も存在していたが、遍路宛の郵便、その他の混乱を防ぐため明治初期に五十四番は「延命寺」に統一、これを機に道標も五十四番『円明寺』は、『延命寺』に改刻された<25>」ともいう。現在松山市馬木町には文久3年(1863年)銘の「是よりあかた圓明寺九里六丁」と五十四番札所を「圓明寺」と記した道標(第2章第3節(円明寺から粟井坂へ)の㊽)がある。一方波止浜(今治市)にある文政13年(1830年)銘のある道標㉓には「延命寺へ一里」、文化11年(1814年)に亡くなった武田徳右衛門が建てた、大西町にある道標⑭にも「延命寺工一里」とあるように、江戸時代後期に「延命寺」と刻まれた道標も残っており、いつ「延命寺」になったかについては明らかではない。

写真3-1-4 彫り直し道標 

写真3-1-4 彫り直し道標 

大西町紺原安養寺。平成13年4月撮影