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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)立岩川から窓坂へ

 ア 鴻之坂を越えて

 立岩川両岸の土手には木橋の架橋跡が今なお残っている。土手道を行き県道の立岩橋へ回って対岸の道へとつなぐ。遍路道は対岸から旧街道を約600m行き国道196号に合流する。その手前、立岩橋の北約100mの三差路で県道湯山北条線は国道196号に合流している。この交差点には東から国道196号松山北条バイパスが入って右折し、その国道は海岸線に出て行って北条市浅海(あさなみ)に至る。一方、旧街道を行く遍路道は国道とJR踏切を横切って、腰折山の西側の坂を越え浅海へ向かう。この坂道を行くことを「鴻之坂(こうのさか)越え」と呼んでいる。海岸沿いの国道(当時は県道)のうち、北条市下難波(しもなんば)石風呂から浅海までの間が開通したのは昭和15年(1940年)のことで、それまでは人馬とも鴻之坂を越えて浅海に通じていた。
 旧街道を行く遍路道は国道との合流地点近くで国道とJR線路を横断する。少し行くと右手に石風呂公民館があり、その向かいの**邸(下難波1389)の敷地内に自然石の道標(64)と地蔵堂がある。そこで右折し、緩やかに曲がった道を50mほど進むと道は分岐する。左は山際の新道で右の旧道は小川沿いの狭い道である。旧道と新道に挟まれた三角地帯に「左新道」と刻んだ茂兵衛道標(65)がある。刻まれた句の中の「法(のり)の道」とは遍路道、大師の導きと道しるべをかけた言葉であろうか、茂兵衛道標にはこの種の句が多く刻まれているようである<76>。左の新道とは明治44年(1911年)開通の県道<77>のことで、山の中腹の少し高い所を曲がりくねっている道だが登り易い。
 旧道を約600m進み左折すると右手に大師堂がある。この大師堂の本尊は弘法大師が鎌で刻んだと伝えられるところから「鎌大師」といわれる。このあたりは北条市下難波の地で旧道を歩いていくと、かつては腰折山を背景に1本の大きな黒松が見えていた。鎌大師堂の境内にそびえる「大師松」であった。樹高25m、根回り6m、目通り5mといい、県指定の天然記念物、日本の名松百選の一つにもなっていた。道の要所にあったところから遍路はもとより旅人の目印となり長らく親しまれてきたこの大師松も、平成6年、松くい虫のため枯れてしまった。境内に「御自作弘法大師」「延命寺江五里二十丁」などと刻む自然石の道標(66)がある。もとは50mほど西の旧道鴻之坂沿いにあったという。このほか、芭蕉塚や十八人塚などもある。
 鎌大師を出て小集落を抜け、北へ腰折山を仰ぎながら坂道を登る。これが鴻之坂越えの旧道である。この一帯はエヒメアヤメの自生南限地帯で国の天然記念物に指定されている。700mほど登った鴻之坂の峠近くに新道との合流点がある。社会福祉施設北条育成園の下である。道角の畑の中に茂兵衛道標(67)が立っている。ここからは右左とカーブの続く下り坂となり、600mほどで道は分かれる。その分岐点に茂兵衛道標(68)がある。刻字をよく見ると、「圓明寺」が「延明寺」になっている。下りにも新道と旧道があり、旧道は傾斜の緩やかな新道と分かれて、左の急坂「河野坂」を浅海の町を見ながら一気に下っている。途中、人家と池の間を抜けると新道に合流する。この間約400m。味栗の集落を北進すると、右側一段高いところに阿弥陀堂がある。さらに約800m進んでJR踏切を越え、国道を斜めに横切って浅海原の町中へ入る。
 国道と旧街道に挟まれた三角地帯が松山藩の浅海原の原番所跡で、今は地蔵堂境内になっている。原番所は村方番所で簡易な見張り所であったというが詳細は明らかでない<78>。地蔵堂境内には菊間町遍照院への案内をした徳右衛門道標(69)と文化4年(1807年)銘の常夜灯がある。

 イ 浅海原から窓坂へ

 旧街道を行く遍路道は、原の地蔵堂の北側を通って国道に合流し、国道を北へ500mほど進んで、国道から左の海側にそれる。約400m進むと道は緩やかに右に曲がって再び国道に交差するが、その西南角に浅海本谷の小竹の地蔵堂があり、その左横に道標が2基並んでいる。1基は茂兵衛道標(70)、もう1基は上部が破損した道標(71)である。
 旧街道を行く遍路道は、国道とJR踏切を越えて県道別府浅海線に入る。東へ250mほど進むと石垣の上に倉庫がある。そこで道は県道と分かれ、左折して農道に入る。ほぼ東の方に向かって約500m進むと山裾(やますそ)に窓坂池がある。池堤の上り口に、「従是(これより)南風早郡 郡境 従是北野間郡」と刻した郡境碑が立っている(写真2-3-7)。この石碑は、本来在った窓坂峠の郡境地点(現在地より北方約1kmの峠の頂上)から昭和53年(1978年)にここへ移設されたものである<79>。窓坂が交差する尾根筋はかつての旧風早郡と旧野間郡、現在の北条市と越智郡菊間町、すなわち中予地方と東予地方との境界である。
 旧街道を行く遍路道はこの窓坂池の堤の脇を上っていき、いわゆる窓坂を越えて菊間町田之尻に至っていた。しかし現在、その峠の前後にわたっての道筋は確認することが困難となっている。
 昭和54年(1979年)から同64年までの四国全体の遍路道の様子を丹念に記録報告している梅村武氏は、「現在窓坂池から峠への旧道は残っていない。(中略)今ある道はミカン畑の道だけで菊間側には通じていない。<80>」と述べている。また、平成6年における『今治街道』の調査結果では、「(窓坂)池の堤を通ってミカン畑の道を進むと、畑が終わるところで道が左右に分かれる。右が街道である。頭上を樹木に覆われてしだいに通りにくくなる。峠は堀切(切通し)になっており、菊間町側は峠までミカン畑になっており、軽四自動車が通行できる道が峠まで通っている。<81>」と報告書本文で、窓坂には一部旧街道が今も残ると報告しているが、報告書付図では窓坂を通る旧街道の大部分を「推定又は消滅した部分」と記している。
 浅海本谷小竹の地蔵堂の先で、旧街道を行く遍路道は国道196号を横切って窓坂へ向かったが、国道それ自体は海岸線に沿って曲折し菊間町に至る。この海岸線の道が開通したのが明治43年(1910年)である。それ以後、遍路も平坦で起伏のないこの海岸線の道を行くようになった。窓坂越えの道は、長年の旧街道・県道あるいは遍路道としての役割を終え、荒廃していくのである。

写真2-3-7 郡境碑

写真2-3-7 郡境碑

窓坂池提に立つ旧風早郡・旧野間郡の郡境碑。平成13年6月撮影