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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)粟井坂から北条本町へ

 ア 粟井坂を越えて

 粟井坂は、松山市堀江町と北条市小川の間(旧和気郡と旧風早(かざはや)郡との郡境)の海抜50mほどの急な坂で古くは旧街道を行く遍路道は上り下りしていたが、明治13年(1880)に海岸に切通しの新道が開通し楽に通行できるようになった<65>。その後古くからの街道であった粟井坂越えの道は消滅している。切通しの新道が現在は国道196号となり、旧街道粟井坂の下にはJR予讃線のトンネルが貫通している。今では往還の坂道ではないが粟井坂の名を地名にとどめている。
 北条市に入ると国道の山側に大師堂がある。坂への登り口は大師堂のすぐ南の山際にあって、細い山道を通って坂の頂上に達するようにはなっているが、整備された迂(う)回路が別にある。それは大師堂の北側にある細道を東に向かい、JR線路の下をくぐって右折し、山際の道を登りミカン畑で右折、コンクリート舗装の坂道を登り、小公園の脇を通り抜けて再びミカン畑の中を登ると峠に出る道である。途中道端に「へんろみち」と刻んだ自然石の道標が立っている。この道標は、小公園の中に設けられたミニ霊場の道標と思われる。
 峠の広場からは斎(いつき)灘が一望され、眼下にJR線路や国道が見える。また広場には、河野通清供養塔が塀に囲まれた堂宇の中にまつられている。その入口の石段登り口左脇に遍路道標(53)がある。さらに、風化した寛保元年(1741年)建立の郡境碑(写真2-3-4)のほか、関所跡の標石や記念碑などが建てられている<66>。
 再び粟井坂大師堂に戻る。大師堂はもと茶堂として坂の上の関所跡から少し下がった平地にあったようだが、文化6年(1809年)に大師堂となり、明治10年(1877年)ころに現在地に移されたという。「稚児大師」として案内されていたこともある<67>。境内には、粟井坂開通の記念碑や句碑などのほか、「こんぴら大門より三十四里」の金毘羅道標が国道に向かって建てられている。国道を挟んで向かいに屋根つきの井戸がある。ふつふつと泡が出るところから「粟乃井」と名づけられ、地名の由来となったという<68>。昔旅人はこの井戸でのどをうるおしたことであろう。
 これからの遍路道は、旧街道を北上し、北条市内の中心部を越えて立岩川左岸まで進む。この道は一部を除いて、現在、国道196号もしくは県道湯山北条線(179号、北条市鹿峰(かのみね)から同市下難波の間はかつての国道196号で、国道196号バイパスの整備に伴い県道に移管された)とほぼ同じ道筋となる。
 道は粟井坂から北に1.5kmほど行くと、和田のバス停留所近く、国道左手の住宅(和田377)の角に徳右衛門道標(54)「是より延命寺迄七里七丁」がある。さらに約400m行くと国道右側に交番があり、左側は河原の蓮福寺である。蓮福寺の外側北西角に太字、深彫りの道標(55)が立っている。刻文の「粟井坂高野山へ十三町」は粟井坂の大師堂を案内したものである。道標の指示が逆方向になっているのは、もともとこの道標は川向こうの反対側にあったもので、道路整備の時に現在地に移されたためだという<69>。粟井川橋を渡った鹿峰で道は分岐し、旧街道・県道湯山北条線を行く遍路道は北へ直進し、国道196号は右折する。右折した国道196号は粟井川右岸沿いに東進し、国道196号バイパスに合流する。
 遍路道は鹿峰の家並みを抜け、450mほど北進すると右手に理髪店があり、その横に下部が折損している里程石「松山札辻より三里」がある。この理髪店の向かいの**邸(鹿峰218-1)北東角に菊間町遍照院への道を案内する徳右衛門道標(56)が立つ。遍照院は札所ではないが遍路道筋にあって、古くから遍路たちが札を打ってきた寺である。さらに北へ進んで高山川橋を渡り、1.2kmほどで柳原に至る。旧街道を行く遍路道は途中で県道を左にそれて、中須賀バス停留所(松の木)から柳原まで県道の西側(浜側)を通り、柳原バス停留所の手前で再び県道に合流する。かつての松山藩領内十三浦の一つ、柳原港はすぐ西にある。
 約200m行くと河野川である。河野川を渡ると左手に高浜虚子の句碑と胸像が見える。道の角には昭和48年(1973年)に枯れたという巨大な松の切り株が残っている。「遍路松」の名残である。横には二代目も植えられている。句碑の右側には大師堂がある。風早四国八十八ヶ所四十七番である。高浜虚子は8歳までをこの風早郡柳原村西(にし)ノ下(げ)(北条市柳原西の下)で過ごし、この地を故郷としてこよなく愛していた。大正6年(1917年)帰省の折、幼い時遊んだこの大師堂を訪ね、遍路松の下で詠んだ句が「この松の下にたたずめば露のわれ」である。昭和3年(1928年)、その句碑を建立、数ある虚子句碑のうち最初のものだという。その後、このほとりにあっていつの間にか失われた遍路の墓の哀れを「道の辺の阿波のへんろの墓あはれ」と詠い、句碑側面に併刻したという。現在大師堂前に後世の作である「阿波のへんろ之墓」と刻まれた墓石が古い石仏と並んで立っている<70>。ほかに句碑の西側には大きな石仏と「備中□阿智□本屋□女墓 文政十一年子七月六日」と刻まれた墓石が残っている<71>。
 虚子句碑の前を過ぎてなお北進する。北条市辻の新開バス停留所の手前、道の右手にある**邸(辻806-1)の内庭に、下部を折損した道標(57)が保存されている<72>。**さん(昭和18年生まれ)の話によると、もとは後述の北条市辻町の食堂前、明星川に架かる橋のたもとに立っていた道標で、今は亡き父親が親交のあった食堂経営者から頼まれて引き取ったと聞いており、当時3本に折れ油まみれの状態で家と家との間に転がっていたという。当初は道向かいにある屋敷内の池の傍らに置いていたが、昭和60年(1985年)ころに現在地に移したということである。
 旧街道を行く遍路道はこのあと新開で西側に県道をそれて150mほど進む。その途中、通称「赤地蔵さん」と呼ばれ親しまれている地蔵堂の前を通る。近年は赤く塗られた大師座像も合祀(ごうし)するところから「赤大師」とも呼ばれているようである。お堂の背後に、小型の中司茂兵衛88度目の道標(58)がある。昭和62年(1987年)、当地から東へ約500m、北条市辻の隅田川沿いの道と北条北中学校に通じる農道との交差地点にある水路に架けた石橋として発見され、現在地に移されたという<73>。文面で「國」の文字を欠くこと、村名を「椋之村」と刻むことや刻字の表現様式、石材の質などから考えると、当地方でみられる他の茂兵衛道標とは異質のもののようにも見える<74>。この道標について、会誌『風早』誌上に発見レポートを報告した**さん(大正15年生まれ)は、併せて古老の話を報告し、旧街道を通る遍路道とは別の、今まで報告されてない遍路道が存在し、その道筋にこの道標が建てられていたのではないかと推察している。**さんの話によるとその遍路道とは、北条市府中の西の下公園にある弥衛(エ)門地蔵堂から北へ進み、同市辻の黒岩を経て上辻の常夜灯前を過ぎて、辻北の地蔵堂(聖カタリナ女子大学の西側にあって、夜烏地蔵といわれる)を右に見て北進し、立岩川に至る。川を渡って(現在は大師橋がある)、下難波の田んぼ道を北上し、下池の西脇を通って山際の後述する鎌大師に至るという道であるという。
 道はスーパーの手前で再び県道と合流し、500mほど進むと鹿島前バス停留所である。バス停脇の住宅(辻1410)の角地に自然石の道標(59)があり、その前には近くの景勝地の鹿島を案内する道標も立っている。

 イ 北条辻町と本町周辺

 遍路道は引き続き旧街道・県道を行く。鹿島前バス停留所から70mほど行くと辻の交差点があり、右折はJR伊予北条駅へ、左折は北条港へ向かうことになる。直進して辻町商店街を北へ向かうと、約350mで道はクランク(曲軸)状になっている。地方銀行支店前を直角に左折西進し、少し行って右折北進する。右折したところで道の左側に道標が3基立っている。ここは明星川に架け渡した台の上である。台の左端に2基並んで立ち、1基は「松山札辻より四里」の里程石、他の1基は「左へんろみち 金毘羅へ三十二里」と刻まれた道標(60)でその裏面に、「花へんろの町」と刻まれている(写真2-3-5)。台の右端にある1基は小型で下部が折損した徳右衛門道標(61)である。
 このクランク状の道には明星川が東西に流れており、現在この付近の川は覆われて道路となっているが、かつては辻町筋から行くと、道は川に突き当たり、その左岸を西進し、橋を渡って北条本町筋に入った。道が突き当たるところに里程石と道標(60)、そして橋のたもとには道標(57)があったというわけである。
 辻町と本町付近の道標について、明星川沿い本町筋の北東角で店を営む、**さん(昭和10年生まれ)から次のような話を聞いた。
 まず、前述した**さんが保管する道標(57)は、現在明星川の左岸沿いにある菓子店舗前の道路上に東町浦児童公園の位置を示す標識があるが、その下辺りに確かに立っていた。砂利道をアスファルト舗装にする工事の時だと思うが、折れ損じたその道標が一時放置されていたと思う。次に、地方銀行支店北の水門前にあった里程石と道標(60)については、辻町商店街の下水道工事の時だと思うが、道標を掘り返して倒したまま10年間ほど近くに放置していた。当時お遍路さんも来ないし、こんな標石に関心を示す人はなかったと思う。ところが早坂暁さんのテレビドラマ「花へんろ」の放送がきっかけで遍路や標石が再認識されるようになった。そこで本町商店街の有志が中心となり、町おこしの一環として、これらの標石を今あるように明星川に架け渡した台の上に建て直して置いた。そのとき、金毘羅道標は正面を向かせると指示する方向が違うことになるのでその向きを変えて裏面にし、もとの裏面には「花へんろの町」と新しく刻んでこれを正面とした。その後、本町筋の三穂神社向かいの角、タバコ屋前にあった徳右衛門道標(61)が交通の邪魔で困ると言うので掘り起こして、「松山札辻より四里」石の横へ今のように並べた。以上が**さんの話の概要である。
 明星川から南が辻町である。辻町は江戸時代から明治・大正にかけて、風早地方の商業・交通の中心地として賑(にぎ)わっていた。明星川から北は北条本町である。本町筋を北へ200mほど進むと西側にタクシー会社があり、向かいの角地には三穂神社や常夜灯がある。タクシー会社の北東角にはかつて前述の徳右衛門道標(61)が道を示していた。そこで左折すると約100m先に享保15年(1730年)の銘がある地蔵が見えてくる。この地蔵の手前20mほどで右折すると、比較的新しく建立されたと思われる短い道標(62)が電柱の脇に立っている。ここから浜町通りを200mほど進むと「杖大師」の名で親しまれている青面山養護院がある。杖大師を過ぎ、紡績工場の塀沿いを行くと立岩川左岸の土手に出るが橋はない。昔はここから対岸へ木橋が架かっていたが、昭和31年(1956年)に木橋から上流約100mの所に鉄筋コンクリード製の立岩橋が完成し、木橋は姿を消した<75>。
 この道のほか、タクシー会社の角を曲がらないで本町筋の県道を北進し、120mほど進んで西側に左折、北北西に入り込んで先の杖大師へつながる脇道がある。脇道の右側に道標(63)が立っている。

写真2-3-4 郡境碑

写真2-3-4 郡境碑

粟井坂上に立つ旧和気郡・旧風早郡の郡境碑(前方が寛保元年〔1741年〕建立。後方は昭和46年〔1971年〕建立)。平成13年4月撮影

写真2-3-5 明星川に架け渡した台上の道標

写真2-3-5 明星川に架け渡した台上の道標

四里の里程石と裏面に「花へんろの町」と刻まれた遍路・金毘羅道標。平成13年4月撮影