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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)三津港・高浜港から太山寺へ

 ア 三津港からの遍路道

 藩政時代、三津の港は藩直営で軍事色が濃く、上陸する庶民は少数であったといわれる<35>。明治に入ると、港は商港かつ愛媛県都松山の外港として、物資の出入はもちろん、中国地方や九州、瀬戸内海西部の島々からの人々の上陸港として繁栄期を迎える。当時の港には岸壁がなく、汽船は沖合いに停泊し、浜から汽船までははしけで貨客を運んでいた。のちには現在の魚市場や高速艇の乗り場があるあたりに船着場が設けられた。各方面からきた遍路は、ここに四国の第一歩をしるして太山寺から札を打ち始め、四国八十八ヶ所を回り、石手寺で打ち終わると、松山城下を経て上陸地の三津港へ戻る道順をとったと思われる。中務茂兵衛は、「九州より渡海する人は、予州三津浜より上り太山寺を札始(め)とし<36>」と案内している。
 上陸した遍路は、船着場から東進、住吉二丁目の角で左折北進し、堀川を渡って辰巳町、松ノ木、地蔵坂を越えて太山寺一の門前に出て行った。この住吉の北端から辰巳町までの道は、昭和5年(1930年)から戦後にかけての堀川付け替えなど内港の改修・浚渫(しゅんせつ)によって船の泊地となり、今では消滅している。それから後の遍路は、港から南に下がって左折、東進してアーケードの商店街を通り抜ける。宮前川に架かる住吉橋を渡って県道松山港線(19号)に入り左折、伊予鉄道の線路を越えて北進し、辰巳町の交差点で右折して県道辰巳伊予和気停車場線(183号)に入り、松ノ木・地蔵坂を経て太山寺へ向かった。
 なお、辰巳町の交差点で右折せず、伊予鉄道高浜線の線路沿いに県道19号をしばらく進むと、線路の西側は港山町の観月山公園となり、その山際に中西智氏所有の観月山石雲寺境内が広がっている。その内庭の中に道標㊷と㊸とが保存されている<37>。道標㊷はもと前述した会津町千本地蔵堂脇に建立されていたもので、道路拡張時に取り除かれ、この内庭の登山道脇に移されたものである。銘文には「左古みつ村」とある。また庭の小道に立つ道標㊸には、「すが王さん 百八丁」の銘文が刻まれている。「すが王さん」とは久万町の四十四番菅生山大宝寺のこと、そこへ「百八丁」ということで、菅生山手前約12kmの小田町臼杵あたりに建立されていたものであろうという。
 ところで明治21年(1888年)の松山-三津間さらには同28年の一番町-道後-三津口間の鉄道開通は、道後あるいは松山からの太山寺参りの道中に変化をもたらした。伊予鉄道高浜線の三津駅で下車して、地蔵坂を越える方式がよく利用されるようになっていく。また昭和2年(1927年)、鉄道省線讃予線(のち予讃線)が伊予北条から松山まで延伸開業すると、三津浜駅の利用が新たに加わった<38>。この場合は、県道三津浜停車場線で高浜街道のちの県道19号に出るか、近道の会津町千本地蔵堂を経て松ノ木・地蔵坂に向かったと思われる。また、のちの昭和9年(1934年)刊行の『同行二人 四國遍路たより』によると、鉄道はもとより各方面への乗合自動車も案内されるようになっている。

 イ 高浜港からの遍路道

 繁栄を誇った三津港はやがて転機を迎える。明治17年(1884年)に大暴風で港が大被害を受けて以来、三津は近代港湾としての発展には制約が多いということから、新たにその北方にある高浜港が期待され始めた。明治25年(1892年)、伊予鉄道は高浜まで延長され、同28年に高浜港が開港した。しばらくはまだ三津浜港の繁栄が続いていたが、高浜港に南桟橋が架設され、同36年から大阪商船の宇品線の高浜寄港が始まった。日露戦争前後には高浜港の整備・利用が高まり、伊予鉄道の松山-高浜間全面開通や北桟橋の架設などもあって、明治39年からは大型汽船の寄港地が三津浜から全面的に高浜へと切り替えられた<39>。こうして松山の玄関口が三津浜から高浜へ移ったのである。明治40年(1907年)に逆打ち遍路をした小林雨峯(正盛)は、延命寺を打った後、今治から汽船で高浜に着き、そこから汽車に乗り久米駅で下車、寄留先の繁多寺に戻った。同年、帰京に当たっては、久米駅で乗車、松山駅(のちの松山市駅)で連絡切符を求めて高浜から宇品行きの汽船に乗っている<40>。
 高浜港利用の遍路が増えてくると、上陸地から太山寺へ行くのに、いったん海岸沿いに三津浜に出てそこから地蔵坂へ行くのは距離的に遠いので、新たに新苅屋(高浜)から木谷越えの山道をたどって峠を越え、太山寺本堂の裏に直接出て表参道に合流する道が作られた。まず、現高浜一丁目の小ヶ谷川沿いに上り、標高200m余の経ヶ森の山腹を巡って、道標㊵のある峠に至る山道<41>が開かれた。この道筋には弘化5年(1848年)に開かれたという「当山(太山寺)西国三十三所霊場」の舟形石仏が順路を示している。さらに、高浜五丁目の旧県道脇の道標㊶から坂道を上って経ヶ森の北に出て、前出の道標㊵で峠を越える短縮ルート<42>が作られた。道標㊵が示す「しんかりやたかはま」は高浜五丁目を、同じく「たかはまゑき近道」は高浜一丁目の伊予鉄道高浜駅をそれぞれ指示している。
 その後、この高浜港も手狭となり、昭和42年(1967年)、同港の北1km足らずの地に松山観光港が開設され、今日四国の海の玄関として大いに賑(にぎ)わっている。