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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)道後温泉から太山寺へ

 ア 城北の遍路道

 道後温泉から、久松松平氏15万石の名残を示す松山城を左方向に見ながら、松山市山越に至る城北の遍路道をたどる。
 温泉を後にした遍路道は、西へ向かい土産物屋街を約100m行って、椿湯横の四つ辻(つじ)を左折、60mほど進んで右折し、清水川沿いの小道を西に向かう。このほかに、椿湯前の道標⑤(現在は、椿湯の内庭に保管)に従って直進することもできたようである。ただし、この道について『伊予道後温泉略案内』には、「へんろ道西町 うてんにはよろしからず<13>」とある裏道で、県道松山北条線(20号)に当たる道が開通する前にはあぜ道程度の狭い曲折道であったようである。なお、椿湯の西約40mのところにかつて木賃宿「筑前屋」があり、その前に1本の道標が昭和47年(1972年)まで立っていたという。これには「(手印)太山寺道/(梵字(ぼんじ))為三界萬霊」と刻字され、筑前屋の前を西に進み太山寺へ向かうよう指示していたという<14>。道は筑前屋の右脇を北に進んで左折、大川沿いの遍路道に向かっていた。この道が大川端に出る所は、前述の清水川沿いの遍路道が出てくる天神橋付近よりもやや上手であったようである。
 清水川に沿った遍路道に戻る。小道は西へ約800m進んで道後樋又(ひまた)の三界地蔵堂に至る。堂の脇に自然石の道標⑨が転がっている。これはもともとこの付近にあったもので、明治28年(1895年)ころ道後駅から、城北に向かい走っていた軌道車の線路沿いの遍路道に建立されていたようで、同じ樋又の護国神社鳥居前に立つ茂兵衛道標⑩につながり、そのあと南海放送会館前から大川沿いの本道に出る、いわゆる脇道にあった道標だと地元では解釈されているという<15>。道後温泉に立ち寄らない遍路が利用していたといい、『松山の道しるべ』ではこの線路沿いの道を主な遍路道の一つに位置付けている。
 清水川に沿った遍路道の北側に並行する県道20号沿いの道後北代で、松山市立湯築小学校南入口に道標⑥・⑦が並んで立っている。道標⑥は文化13年(1816年)の記年銘があるもので、先述の裏道で湯築小学校の校庭の中を通っていた遍路道沿いにあったが、道路拡張のため現在地に移したという<16>。城北経由で「太山寺迄六十七丁」との距離を示すが、先述した愛媛県立歴史民俗資料館保管の茂兵衛道標⑮も道後上市橋たもとにおいて「太山寺道 是より六十七丁余」とあり、同じような距離を示していて興味深い。もう一つの道標⑦は道後湯之町の遍路道沿いに立っていたものを移したという。
 道後樋又の三界地蔵堂に戻る。清水川はここで西と北へと二手に分かれる。西の流れはいわゆる文教地区を抜けて宮前川となり、三津浜港へ向かう。遍路道は北の流れに沿って200mほど進み、護国神社東の天神橋の付近で、御幸寺山を巡って流れる大川に突き当たる。大川端の天神橋西には「すぐへんろミち」と刻む道標⑧が立っている。刻字にある「すぐ」とは、「直」すなわちまっすぐの意であるという<17>。道後からの遍路道は城下へ向かう道を除き、おおむねこのように大川端へ出て来て、ここからはしばらく、大川沿いに西もしくは西北西へ向かって行くことになる。
 遍路道は護国神社の前を通り抜ける。神社の西には山頭火ゆかりの一草庵が復元され、道端に「俳人種田山頭火の一草庵みち」の碑が立つ。この地で昭和15年(1940年)に放浪の俳人山頭火は生涯を閉じた。道は龍泰寺前に至るが、大川に架かる太鼓橋を渡った所に「此方五百らかんあり」の標石が立つ。続いて千秋寺前に至る。往時をしのぼせる中国風の立派な山門に通じる御和橋東のたもとに、太山寺への道を示す道標⑪と⑫がある。⑪は茂兵衛道標、その道向かい側に立つ道標⑫は、厄除け延命地蔵尊不退寺への丁石を兼ねたものである。また、刻文「太山寺ちかみち」という指示は遠回りに対する近道という意味ではなく、「近いのです」という意であるという<18>。
 遍路道は大川南岸を西に進むが、やがて大川の北側に、松田池を昭和59年(1984年)に埋め立て造成した松山大学グラウンドが広がる。この西方・北方一帯は多くの寺々が集中する寺町地区である。その一つである来迎寺には、松山城下建設の功労者足立重信や蘭学者青地林宗の墓、日露戦争の時のロシア人兵士の墓地などがある。また、少し離れた桜谷には龍穏寺があり、十六日桜の伝説で知られる。
 大川南岸を西進してきた遍路道は、松山城下北の出入口として栄えてきた(松山市)木屋町の北詰めで、松山「札の辻」を起点に松山城堀の北西角から北進してきた今治街道(以下「旧街道」と記す)に合流する。左折する旧街道の角は商店で、向かいには御幸橋があるが、その商店の前脇に松山市内最大の遍路道標⑬が立っている。40cm角の石柱の上に笠を乗せ、地上部でも2mに達する大型のもので、西面には「へんろみち」、南面には「南城下道」と深彫りしている。
 ここからしばらく遍路道は旧街道を行くことになる。大川は次第に西北に向きを変え、やがて北へ向きを転じるが、道はその左岸に沿って行き、道標⑬から100m余で国道196号に出る。川端の山越信号機の東に自然石の道標⑭がある。「元禄十二年」とある記年銘は松山市内では二番目に古い。破損した当初の標石を逆さまにして利用し、裏側に従来の文言を彫り加え再建したものと考えられている<19>。

 イ 山越から安城寺経由の遍路道

 遍路道であり、旧街道でもあった道は、後世拡幅改良されて国道196号となっている。この道は大川沿いに、(松山市)山越・姫原・東長戸と進む。途中、姫原に入って角田池のあたりは度々の改修で旧街道としての昔の面影はない。このあたりは「七曲り」と呼ばれていた所で、道路を隔てて「七曲り跡」の碑が立っている。松山城を築いた加藤嘉明が北方からの敵の侵攻を遅らせ、高所から敵の兵力を数えるために設けたという<20>。姫原から北西に進んだ大川は、鴨川1丁目で再び川沿いに出てきた旧街道を行く遍路道とともに北に転じて直進する。一方、国道196号は旧街道と分かれ、大きく西に迂回している。やがて大川は東から流れてきた藤川と直交し、これを合わせ入れて西へと流れを変え、川口の和気浜港へと向かう。
 この川の合流点で遍路道は旧街道から分岐する。旧街道は大川に架かる鴨川橋を渡って松山市立潮見小学校西側を直進し北へ向かい、遍路道は左折して大川の南岸を西へと進む。この辻の西南角、歩道橋の下に石仏をまつる小堂と茂兵衛道標⑰が立っている。道標には「世の中に神も仏もなきものをまれにしんずる人にこそあれ」(釈陶庵俊因作)の歌が添えられている。なお、旧街道を300mほど進むと右手に木立の茂った小山があり、そこに蓮華寺がある。『四国邊路道指南』に、「たに村、此所にむろおかやまとてよこ堂、本尊薬師、諸辺路札打也<21>」とあって、この谷村(松山市谷町)の室岡山蓮華寺へ札打ちした遍路も多かったと思われる。
 西進する大川沿いの遍路道は県道松山東部環状線(40号)を行く。道は国道を横切り、松山市立鴨川中学校前に至る。このあたりで大川は緩やかに流れを西から北へと変える。遍路道は県道から離れて川堤の上へ出て、西(左)岸の土手道となり、流れに沿って北進する(今は右岸も通行できるようになっている。)。大川の東側に志津川池と称する大きな溜(ため)池がある。その池の北西端あたりになる大川の対岸で土手下に降りると、馬頭観音をまつる小堂があり、その脇に道標⑱が立つ。また、その小堂の中にも舟形地蔵道標⑲が納められている。道標⑱はもと、安祥寺近くの田道の三差路に南向きに建てられていたというが、移された現状では手差しの方向が合わない。道標⑲は銘文「是より太山寺 二十七丁」からみると、もともとこの付近にあったものをこの小堂に入れたと思われる<22>。
 志津川町の大川土手下からの遍路道は、馬頭観音小堂で右折、墓地横の細道を北西に進み、志津川町中心部から西進し志津川橋を渡ってきた道と合流する。その地点から高木町バス停留所に至るまでに遍路道は数本あるようである<23>。第1が西進して、若宮神社前の辻を直進し、次の交差点で県道和気衣山線(184号)に出て右折、北進する<24>。第2が、西進して、若宮神社前の辻で右折、集落の中の細道を北進して庚申(こうしん)堂前を過ぎ、さらに北へ進み、やがて緩やかに西北へ曲がって県道へ合流する。第3は、北進して田地の中の道を通り、途中で左折西進して安祥寺参道に出る。参道脇に道標⑳が立っている。すぐ近くには地蔵堂があり、脇には享保大飢饉供養のための供養塔が林立している。道は西へ進み、角に庚申堂がある辻を右折すると、あとは上記第2のルートと同じとなる。なお、このほか『おへんろさん』には、「安城寺町本村を通り、高木町へと至る小径」と解説があり、「旧へんろ」道が図示されている<25>。これによると、昭和52年(1977年)から同54年ころまでの調査と思われるが、志津川町大川土手下から高木町バス停留所までは、北西方向に幾度も折れ曲がる田畑の中を通る1本の遍路道が表されている。現況と比べると、その後の圃場(ほじょう)整備事業等により、古い遍路道はごく一部を残してその姿を消しているようである。
 以上述べてきた大川土手下からのルートのほかに、もう一つ遍路道があったようである。それは前記のように県道をそれて大川沿いに行かず、県道40号自体を西進し、安城寺町を南北に走る県道184号との交差点で右折、県道184号を北進して高木町に至る遍路道である。交差点の北西角に3基の石造物が並び立ち、その中央に茂兵衛道標㉑がある。指示が実状に合わないのは付近にあったものを移したためであろう。「明治の頃になると、安祥寺回りの古い遍路道より、(中略)この道標で右折して北進するほうが、道も真っすぐで歩きやすかったのだろう<26>」と説明されている。
 以上のようにいずれの道をとっても、西方に太山寺山塊を望みながら進み、途中で分岐したそれぞれの遍路道は順次県道184号に合流し、やがて高木町バス停留所前に至る。そこには茂兵衛道標㉒が立っていて、太山寺を指している。遍路道はここで左折、少し行くと久万川に架かる井関橋があり、その東たもとに「太山寺へ十七丁」の道標㉓がコンクリート囲いの中に立つ。十数年前の記録『へんろ道』には、近くの草むらに半ば埋まった状態であったと記されている<27>。おそらく、河川等の工事で仮置きの状態であったのであろう。それ以前の二十数年前の記録である『おへんろさん』には、井関橋のたもとに在ると明記している<28>。道は橋を渡り、JR予讃線の線路を越えてさらに西進し、太山寺町大淵地区に至る。
 大淵を通る遍路道は二通りある。一つは松山市立北中学校の東北角で右折して大淵集落に向かい、集落の東側の三差路で左折して西進する。この三差路に立っていたという道標㉔が和気公民館大淵分館内庭に保管されている。大淵集落が建立した、太山寺へ十五丁とある丁石で折れ損じている<29>。また、集落の西はずれの水路沿いには、字形・字配り・彫りの深さ・浮き彫りの造りなど優品の道標㉕が立つ。嘉永5年(1852年)の建立、尾道の石工川崎友八作とある。道標の指示通りに田道を約500m西進すると、**邸(太山寺町1187)の前を通る。邸の入口付近の植え込みに自然石の道標㉖があり、さらに同邸の生け垣の南西角で太山寺道と円明寺道との岐路には、道標㉗と㉘が並んで立っている(写真2-3-2)。道標㉖は手差しが逆打ちで現状に合わない、もと片廻地区の三差路にあったという。道標㉗は太山寺へ十二丁になっているが、これも反対の方向を指差し、もとは数十メートル太山寺に寄った三差路にあったという。また、道標㉘は円明寺への道標で、指示に従い左折すると円明寺に向かう。この道標㉘は、道標㉖や㉗のように付近から移されてきたものではなく、設置当初から現在地にあったものであるという<30>。
 遍路道は西進し、県道辰巳和気停車場線(183号)を越え、60mほどで太山寺山塊の縁を南から北へ流れる太山寺川の川岸に出る。そこで左折、川に沿って南進すると50mで県道の片廻橋東たもとに出るが、橋を渡らずに県道を越えて川沿いに150mほど行く。左にある片廻公民館の南側に出てきた道で三差路となる。後述する大淵の山の手の遍路道が出てきた合流地点である。この北西角の**邸(太山寺町1492)の脇に、順打ちと逆打ちの両方の遍路道を示す嘉永6年(1853年)建立の彫り深い立派な道標㉙が立っている。「逆遍路道」とは、山の手を通り石手寺に向かう逆打ちの遍路道のことである。右面と裏面はコンクリート壁に接しているため銘文の一部を読むことができない。
 一方、大淵のもう一つの遍路道は、中途右折し集落を通過した前述の道と違って、井関橋から西へ直進して山の麓を巡る道に突き当たる。その三差路左手に自然石の道標㉚がある。もとは三差路の突き当たりに東向きに立っていたが、道路拡張に伴い、現在地に移されたという<31>。ここで右折した遍路道は、大淵の山の手を行く遍路道となる。大将軍神社境内や小公園の縁を行き、北側の山麓の一段高い所を曲がりくねって上下する山道を行く。途中、溜池の堤を通って集落に入り、前記した順打ちと逆打ちの両方の遍路道を指示した道標㉙のある三差路で太山寺川の川端に出る。そこで二つの遍路道は合流することになる。
 太山寺川の上流に向かい、右岸に沿う遍路道は緩やかに右に曲がり、西へ向かう。道は太山寺橋西詰めで県道183号に合流し、さらに西進する。正面に見えてくるのが太山寺一の門である。この一の門の左脇に道標㉛・㉜が立っている。道標㉛は自然石の道標で、指示に従い右に進めば、門をくぐって「八丁」で二の門を経て太山寺本堂に至り、左に進めば地蔵坂を越えて「十八丁」で三津浜へ出る。もう一つの道標㉜は、「第五十二番霊場」と太山寺の札所番号を示した道標で、巡拝100度目の茂兵衛の建立したものである。右面には次の札所である円明寺を案内している。

 ウ 城下から古三津経由の遍路道

 既述したように、石手寺を出て道後方面へ向かう県道を行く遍路道の途中、下石手バス停留所前の分岐点に茂兵衛道標③があり、これが道後と松山城下との分岐点の案内であった。「左松山」の指示に従うと西南西方向に城下の町中に向かう。当然のこととして、道後から松山城下を抜けて行く遍路も昔から多かったはずである。この場合、前項に記した城北経由の遍路道には戻らず、松山城下町から三津(みつ)(以下旧三津浜を指す場合、三津という。明治22年〔1889年〕の町村制実施で三津浜町となり、昭和15年〔1940年〕には松山市へ編入合併)を経て太山寺へ向かったようである。『四国邊路道指南』にも、「松山城下へこれよりひだりへ行。少まわりなれども、諸事自由なるが故に出てよし。それより三津のはまへ一里、なミき。湊町にて賑し。舟屋多し。太山寺ヘハ古三津よりすぐ道も有、すぎ小坂有<32>」と案内し、このあと「但松山によらぬときは」として城北の遍路道を案内している。真念の「これよりひだりへ行(く)」とあるのが、前記茂兵衛の道標の立つ地点と思われる。
 松山城下から三津への道は「三津街道」といわれ、藩政時代には参勤交代の藩主は「札の辻」を出て三津から乗船したという重要な街道で、早くから整備されていた<33>。三津街道は現在では、札の辻から木屋町に出て木屋町二丁目の終わりで左折して西進、国道196号を横断し、藩政時代に公儀番所のあった三津口(萱町(かやまち))を過ぎてさらに西へ進み、六軒屋町で県道松山港線(19号)を横断し、衣山・山西町を経て宮前川に至り、三本柳から川の右岸沿いに北上、須賀橋を渡って神田町の厳島神社に至る往還であった。
 三津への遍路道は途中まではこの三津街道を行く。しかし、宮前川河岸までは行かず、その手前の山西町で右折する。北進して伊予鉄道高浜線の線路を山西駅の西で越え、古(ふる)三津をさらに北へ進む。儀光寺前を通過して約200m、四つ辻の北西角に道標㊴が立っている。大正5年(1916年)の建立で、右に太山寺道、左に三津浜道、裏面には右に松山道と三方を示している。
 太山寺への道は、この道標㊴の指示に従ってさらに古三津を北進する。そして東西に走る県道三津浜停車場線(186号)を横断する。この付近は近年の開発のため、古い道筋をたどることはもはや不可能であるという。少し進んで会津公園南の道へ右折すると、公園の道向かいに道を背にして千本地蔵堂がある。地蔵堂の横、道に面して遍路道標㊲と㊳が並んで立っている。2基の道標ともその示す方向は実際の目的地と違っている。この地蔵堂と道標は、以前はここから西50m余りの古三津から太山寺へ越える遍路道と久万ノ台から三津へ通じる道路が交差する地点にあって、昭和42年(1967年)に道路改修のため現在地に移されたという<34>。この地蔵は千本地蔵と呼ばれ、松山城を中心に東西南北に建てられた「四方固め」の一つであると伝えられている。堂の周辺には、「大乗妙典六十六部日本廻国」の碑やその他の石造物も残る。
 道標㊲は「右まつやまみち」と「ほり江ミち」を指す。また、自然石の道標㊳は再建されたもので「右へんろみち」と「左みつ者ま」とあり、初代道標は松山市港山町の観月山内庭に現存する遍路道標㊷である。昭和3年測図2万5千分の1地形図を見ると、このあたりからは幾筋かの道が松ノ木の地蔵坂登り口まで続いていたようである。先述の真念がいう「太山寺へは古三津よりすぐ道も有(り)」とはこのなかの道のことであろうか。現状で確認できる主なものとしては以下のような2本の道があるが、その2本の道の中間にあった水路沿いの遍路道は区画整理など開発のために一部消えているようである。まず1本目は、松山市中須賀と高山町、春美町の開発された住宅地の中を縫って西北の松ノ木に向かい、やがて地蔵坂越えの道、県道辰巳伊予和気停車場線(183号)に出る。出た地点の県道の西側に「南無阿弥陀仏法界 元禄七戌二月」と刻んだ大きな自然石碑が立っている。もう1本は北の山裾(すそ)をめぐる遍路道である。北山町と高山町・春美町、松ノ木1丁目と2丁目の山際の水路沿いを通って西進し、上記の石碑から北方太山寺寄り約150mの地点で県道に合流する。このほかに千本地蔵から西北に進み、中須賀から春美町の中を幾度か曲折して松ノ木に至る道もあるようである。
 県道183号を行く遍路道は北上して行くと次第に上りとなり、地蔵坂にかかる。左側に脇道があって下りると溜池の縁に出る。傍らに小さな地蔵堂がある。また、地蔵坂の峠近くには県道から左に分岐して遍路道が少し残っている。この遍路道は細い山道で少し登ると峠となり、峠を少し下ると右手に地蔵と墓石群がある。そのうちの1基は明らかに遍路墓である。さらに下がると再び県道に合流する。太山寺一の門はその100mほど先にある。

写真2-3-2 太山寺町片廻の遍路道

写真2-3-2 太山寺町片廻の遍路道

手前が太山寺への道、三差路から左が円明寺への道、角に道標が二つある。平成13年5月撮影