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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)石手寺から道後温泉へ

 ア 石手寺とその周辺

 県道松山東部環状線(40号)を行く遍路道は、石手川に架かる遍路橋を渡って北進する。突き当たりに石手寺がある。寺の門前約30m、道の左側に三界地蔵堂があってその脇(わき)に彫り深く重量感のある道標①がある。平成8年までは石手寺のすぐ手前にあったが、道路拡張で地蔵堂が新築移転された際にこの道標も移された。元の位置に当たる寺の門前の道向かい側には、道標①を模したものが「中組」の名で平成4年に新しく建てられている<1>。指差しは次の札所太山寺である。境内に入って、「此寺は境内の入口に幡居せる松の巨木及び、同所にある源頼義の供養塔が、既に参拝者をして尋常の寺にあらざる事を思はしめる。<2>」と昭和16年(1941年)に遍路した橋本徹馬は記しているが、この名物「亀の松」は枯れて今はなく、巨大な五輪塔も北側にある寺の駐車場に移されている。かつては巨松の下に立ち、今は参道中央にある武田徳右衛門の道標②が「是より太山寺迄弐里」を示している。
 五十一番石手寺は、寂本が『四国徧礼霊場記』で「此寺あたりにさらなき伽藍にて、宝甍珠殿、櫛のごとく比び<3>」と記し、また澄禅が『四国遍路日記』で「与州無双ノ大伽藍也<4>」と述べたように、四国霊場中屈指の大寺である。境内には、国宝の二王門をはじめ国の重要文化財級の堂塔が立ち並び、いちおう七堂伽藍(がらん)がそろっていて壮観である。また、境内裏の愛宕山には弘化2年(1845年)開創という「新四国」がある。
 この寺はもと安養寺と称していたが、後に石手寺と改称したという。その寺名の改称や四国遍路の起源を伝えるという「右衛門三郎(衛門三郎ともいう)発心譚」の伝説が広く知られている。この右衛門三郎発心譚は諸書に掲載されているが、最も古い記録が永禄10年(1567年)の石手寺由来記「刻板<5>」の板書である。この刻板は石手寺宝物記ともいえるもので、文中にこの話の主要な部分が書かれていて、遅くとも永禄年間から話し継がれてきたことが分かる。江戸時代に入って、承応2年(1653年)の『四国遍路日記』や元禄2年(1689年)の『四国徧礼霊場記』などをみると、この話にいろいろな展開があったことが分かる。
 寺は、松山地方にあっては「石手のお大師さん」として親しまれ、単に「お大師さん」と言えば石手寺を指すのが例である<6>。参拝者の多いことでも県下有数の寺である。これは遍路のほかに、道後温泉に近いことで一般観光客が繰り込むことによるようである。大きな香盤から立ち込める香煙は絶えることがない。また境内には、「俳句のまち松山」にふさわしく、句碑・歌碑が数多く建てられている。

 イ 道後温泉とその周辺

 石手寺の門前から寺井川(湯の川)に沿った遍路道は、県道六軒屋石手線(187号)を道後方面に向かう。約500m行くと、左手の下石手バス停留所前に中務茂兵衛の道標③がある。これより道は二手に分岐する。道標の指示で、直進は道後へ向かい、「左松山」とは道後には寄らず湯築(ゆづき)城跡を経て松山城下へ至る道を案内している。松山城下へ向かった場合、まもなく寺井川に架かる道後上市(かみいち)橋に至るが、その橋のたもとにはかつて茂兵衛道標⑮が立っていた。この道標はいろいろと移動したあと、現在は松山市堀之内にある愛媛県立歴史民俗資料館に保管されている。これを見ると、右は太山寺へ67丁余と刻して道後へ向かう道を指し、左は松山城下への道を示しているようである。なお、愛媛県立歴史民俗資料館には、このほかもう1基の道標⑯が保管されている。こちらはもと、松山市恵原町土用部池の堤防上にあったもので、昭和20年(1945年)ころ、地元の相原肇氏が砂岩を利用して自ら彫り建立したといわれている<7>。
 再び道後方面への県道187号を行く遍路道に戻る。道は、「おろくぶさま」として親しまれ、戦前まではホタルの名所で知られていた義安寺の前を通る。西参道口に立つ標石2基のうち、1基が遍路道標④である。文政4年(1821年)建立で仏像を浮き彫りにし、先祖や「おきよ」の菩提(ぼだい)を弔う供養塔の意味を持つようである。かつて道後に入った遍路道は、『伊予道後温泉略案内』によると、「へんろは湯月八まんぐう(伊佐爾波(いさには)神社)へちか道よりあがり 鳥居へおりてそれよりゆく一丁あまり也<8>」とある。これによると、江戸中期の遍路は伊佐爾波神社の裏側から上り、表参道の石段を下りてきて、温泉へ向かったものと思われる。その後、主な遍路道は伊佐爾波神社には上がっていない。
 県道を行く遍路道は、義安寺前から100m余進んだ所にある地蔵堂で右折し、神社石段下に至る。そこで道は分岐し、その一つは左折して参道の坂を西へ向かって下る遍路道で、右手冠山の湯神社前を通過し、御手洗橋を渡って右折し、道後温泉本館前に出る。なお、御手洗橋を渡って100mほど西進すると伊予鉄道市内電車の道後温泉駅に至る。もう一方が県道を行く遍路道で、神社石段下を横切って北進、右手に旧廓(くるわ)街の松ヶ枝町や突き当たり奥にある一遍上人生誕の地として知られる宝厳寺を見て、冠山の裾(すそ)を巡って坂を下り、神社石段下から約200mほどで道後温泉本館裏に至る。
 道後温泉は古くから世に知られた天下の名湯である。現在の道後温泉本館は、明治27年(1894年)完成の木造3階建て、入母屋(いりもや)造り、棧瓦葺(さんかわらぶ)きの建物で、国の重要文化財となっている。
 遍路にとって道後温泉は大きな楽しみであったと思われる。長く苦しい遍路の旅の途次、昔から遍路たちはここで旅の疲れを癒(いや)した。『玉の石』には、「四国辺路七ヶ所 三十三番じゅんれい同行幾人にても勝手次第一宿するなり<9>」とあり、四国遍路七ヶ所参り、松山西国巡礼の人々が当時、道後で自由に一宿できたことがうかがわれる。また、『伊予道後温泉略案内』の中に、「遍ん路三日まではゆせんいでず 一まはりにて二十四もんづヽならびニとうみやうせん十二もん出る也<10>」と記されていて、「三日」までは湯銭免除という遍路を優遇する慣行があったことが分かる。しかし、幕末にはこの慣行も変化し、安政2年(1855年)の定書によると、四国遍路や通り掛りの者は三日間に限って止宿湯治を許可、また遍路のほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許すことなどが慣行的に定められた<11>。さらに、温泉街における湯治宿と遍路宿との弁別も明確となり、遍路が道後で一般旅人の宿に宿泊することは困難になっていったらしい。
 明治・大正期には、それがよりはっきりしてきたようで、大正7年(1918年)に遍路した高群逸枝は、『娘巡礼記』の中に、「道後温泉町に着いたのは午後の五時頃であつたらう。或る旅人宿を訪ねたら。『お遍路さんはお断りして居りますから』と云ふ。仕方が無いので又復(またまた)汚い宿に追い込まれて了つた。<12>」と記している。