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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)浄土寺から繁多寺へ

 四十九番浄土寺の仁王門をくぐると正面に本堂、右に大師堂がある。浄土寺の本堂には、国の重要文化財に指定されている木造空也上人立像があり、境内には、空也は死んでもその教えは今も生きているという意味合い<44>の、「霜月(しもつき)の空也は骨に生きにける」の正岡子規の句碑が立っている。
 また、本堂に安置されている厨子(ずし)の壁面には、遍路のおこりを知る手掛かりともなる大永の年号が入った「遍路」の文字などの楽書(らくしょ)(落書)が残されている。この落書について近藤喜博氏は、「この厨子は大永2年(1522年)4月の製作であったが、ここに必要なのは厨子に加えられた遍路たちの墨書にして、大永5年・同7年・同8年・享禄4年(1531年)・寛永17年(1640年)などの楽書が知られている。<45>」と記している。
 浄土寺の裏山には多数の遍路墓(写真2-2-17)がある。この遍路墓について新城常三氏は、「浄土寺でまとめた行倒れ名簿『無縁精霊』には、江戸時代の76人の行倒れが記入されており、その大半が遍路と解される<46>(以下略)」と記している。このような遍路の史料は『小野村史』にも残されており、それによると安政7年(1860年)の久米郡苅屋村(松山市平井町)庄屋日記に、5名の行き倒れた遍路の名が記されており<47>、当時は遍路することが大変であったことがうかがえる。
 浄土寺の門前には道標㊱が立ち、そこから西に遍路道を少し進んだ**邸(鷹子町913)の塀のそばに徳右衛門道標㊲があり、「是より者んた寺迄十八丁」と五十番繁多寺を案内している。
 この道標㊲から150mほど西に進むと、遍路道は日尾八幡神社前の県道40号との交差点(写真2-2-18)に至り、南東角に道標㊳がある。この交差点からの眺めを、宮尾しげをは、「松山の町が近づいた證據に、次の繁多寺へ行く道の八幡宮の所を曲るところから、城山の上に松山城の甍が光って見える。<48>」と記している。この道標㊳に従って入り組んだ交差点を右に曲がって、遍路道は県道40号を北に600mほど進むと三差路に道標㊴が立っている。この道標の向かい側の**邸(北久米町32)の角には、宮尾しげをが「『左御城下道、右へん口道』の大きな標石は相當古さう。<49>」と記した道標もあったが、今は行方不明になっている。現在、そこには古い道標を模した昭和48年(1973年)設置の道標が立っている。
 この道標から県道を右にそれた遍路道は北にしばらく進み、やがて久米霊園にさしかかる。霊園の西側を北に600mほど進んでさらに畑寺浄水場前の坂道を登りきると、繁多寺の山門に至る。

写真2-2-17 浄土寺の裏山にある遍路墓

写真2-2-17 浄土寺の裏山にある遍路墓

平成13年6月撮影

写真2-2-18 鷹子町の日尾八幡神社前交差点

写真2-2-18 鷹子町の日尾八幡神社前交差点

平成13年11月撮影