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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)重信川から西林寺へ

 松山市小村町から西林寺に向かう遍路は、かつて重信川に橋がなかったころは浅瀬を歩いて渡っていた。円光寺の住職明月は、天明5年(1785年)に重信川を渡った様子を、「見るに人跡無し、茫然渡口を辨ぜず。僕之を按じて曰く、南北岸上に各一柳を樹す、斜めに望めば、是れ當に對を為す、必ず道標なり、果たして正路を得、諸人僕の智を嘆ず。<35>」と記しており、両岸の柳を目印にして川を横切っていたことがわかる。
 重信川の両岸の河原ではかつて多くの遍路が野宿をしていた。小村町で両親が「榮屋」の屋号で宿屋を営んでいたという**さん(大正12年生まれ)の話によると、昭和10年(1935年)ころには河原に多くの遍路が野宿して、周辺の農家を托(たく)鉢して回っていたという。昭和7年(1932年)に重信川を渡った宮尾しげをは、土手の松林から川の瀬を歩いて渡った際に、河原にいる遍路が土鍋で煮炊きしている様子を見て、「林開腹を温めてゐる圖だ。<36>」と表現している。
 このあたりの重信川の両岸には、遍路宿や接待所もあった。小村町から重信川を渡った南高井町で、祖父が遍路宿「門屋」を戦後まで営んでいたという**さん(大正14年生まれ)の話によると、南高井地区から対岸へは太平洋戦争直後までは橋がなく、遍路に限らず、地元の住民も対岸の大橋町や小村町に行く際には、川の水につかって渡っていたようで、祖父は、川を渡れない遍路を背負って渡し、宿に泊まってもらっていたという。なお、この「門屋」は接待所にもなっていて、現温泉郡重信町や川内町の若者連中は、ニナイ(桶)に餅(もち)や米を入れて接待していたようで、遍路から返礼としてもらった納札を、宿の軒先に張り渡した縄に挟み込んでおき、持ち帰って地区の魔除けにした<37>という。
 昭和46年(1971年)に完成した久谷大橋を渡ると、下流の堤防の下に茂兵衛道標㉕と西林寺を案内する道標㉖が立っている。ここから県道松山東部環状線(40号)と並行して約100m西側を走る遍路道を北に少し進むと、道端に9基の遍路墓(写真2-2-14)が並んでいる。
 この遍路墓の世話をしている**さん(大正12年生まれ)の話によると、行き倒れた遍路はお金を持ち合わせていれば、地元の人が銘を刻んで墓標を建てたが、大半の遍路はお金もなく、河原の自然石を墓石にして埋葬されていたという。昭和26年(1951年)から重信川の堰堤(えんてい)工事が始まると、この辺一帯の自然石の墓石は河原に埋められてしまい、戒名(かいみょう)のついた墓だけが現在の場所に移されたという。
 その後遍路道は、遍路墓から北に200mほど進んで県道40号を横切る。その地点にあるお堂のそばには茂兵衛道標㉗が立っている。この道標の手印に従い、県道40号の東側の遍路道を県道と並行して北へ進み、さらに県道193号を横切って、内川に架かる太鼓橋を渡ると西林寺の仁王門に至る。

写真2-2-14 重信川右岸の道端に並ぶ遍路墓

写真2-2-14 重信川右岸の道端に並ぶ遍路墓

松山市南高井町。平成13年11月撮影