データベース『えひめの記憶』
伊予の遍路道(平成13年度)
(1)浄瑠璃寺から八坂寺へ
四十六番浄瑠璃寺は、境内の正面奥に本堂、その右手に大師堂がある。境内に入る石段横には、正岡子規が詠んだ「永き日や衛門三郎浄るり寺」の句碑が建っている。
境内には3基の道標がある。1基は石段を上がってすぐ右側にある武田徳右衛門の道標⑦で、もとは石段左側の土塀のそばに立っていたが、平成13年の芸予地震で周辺が崩れたため現在地に移設されたという。2基目は、荏原城主平岡遠江守通倚の墓のそばに立つ「是より八坂寺へ五丁」と刻まれた小さな道標⑧であり、これは近くの遍路道から移設されたものと思われる。この道標は地蔵の浮き彫りがあるので供養塔として祀(まつ)られたのかもしれない<17>。さらに、もう1基が境内北側の出口にある簡素な自然石の道標⑨で、手印は約1km先の四十七番八坂寺を案内している。
境内出口から西に100mほど進むと、**邸(浄瑠璃町403)の南西角に細長い道標⑩がある。以前、半分ぐらい埋もれていたものを、平成元年ころの道路拡張の際に建て直した<18>という。道標⑩から曲がりくねった遍路道を北に進んで路地を通り抜け、さらに田んぼの中の道を北にしばらく進むと、道の右側に「右へんろ道」と記した道標⑪がある。現状では逆打ち巡拝の指示になることから、もとは筋向かいの角に立って<19>八坂寺を案内していたものであろう。この道標からさらに北に進むとやがて八坂寺の参道に出合い、そこを左折すると山門に至る。
この八坂寺の参道には、かつて真念の道標⑫があったといわれるが、その道標と思われるものが**邸(砥部町高尾田63)の庭にある。この道標が八坂寺の参道にあったものと推定した喜代吉榮徳氏は、その刻字から元の設置場所を割り出すことができたきわめて特徴のある標石である<20>としている。また『松山の道しるべ』は、「銘文『正(しょう)めんちん志(じゅ)』『左(ひだり)ふ多志(だし)よ』『右遍ん路(ろ)(みち)』は、高野山宝光院寂本(じゃくほん)の手による『四国徧礼霊場記』(元禄2年〔1689年〕)の『八坂寺図』と一致する。貞享(1684年~1688年)の頃、僧真念により八坂寺参道に建立されていたものである。<21>」と記している。