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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)窪野町桜から浄瑠璃寺へ②

 丹波を抜けて県道207号を行く遍路道は、1.5kmばかり進むと関屋集落の出口(いでぐち)橋(写真2-2-6)に達し、橋のたもとには、昭和33年(1958年)の出口橋改修の際に下半分が折れて上部だけが残っている道標②がある。
 伊藤義一の『埋もれた土佐道』によると、昭和の初めころまでこの出口橋あたりに、三坂峠を下って来た旅人のため客馬車が1台待っていて、汽車の出る森松駅までを日に何回か往復していた<11>ようで、明治36年(1903年)測図の地形図<12>を見ると、出口橋から森松にかけての道は整備されており、荷馬車の行き交う当時の様子をうかがうことができる。
 この出口橋の手前右側の高台には、圓福(えんぷく)寺がある。長い石段を登って境内に入ると左側の墓地には、女遍路の墓が無縁仏の墓石群の中に1基立っている。
 遍路道は県道207号を左にそれて出口橋を渡り、県道久谷森松停車場線(県道194号)に合流して進み、松山市役所久谷支所出口出張所に至る。その高台には、フェンスに挟まれた道標③が立っている。この道標は、道路拡張の際に南東数メートルの三差路から現在地に移されたものという。久谷支所出口出張所から県道194号を700mほど行くと、遍路道は国道33号の塩ケ森から農業用の溜池を経て下ってくる農道と出合う十字路に至り、そこには浄瑠璃寺を案内する自然石の道標④がある。この道標に従い、北に少し進むと三差路があり、県道からそれた右側の遍路道をしばらく行くと浄瑠璃寺前の小川に架かる小さな橋に達する。その橋の北西のたもとには、袖(そで)がついた手印の道標⑤がある。この小川について、寂本は、『四国徧礼霊場記』に「門さきに川横はる。水昼夜を捨ず、さればむかしの水なく、世も苒々(ぜんぜん)として、人あらたなり。むかしの事のしれざる所以なり。<13>」と記している。

写真2-2-6 窪野町の出口橋

写真2-2-6 窪野町の出口橋

橋を渡って浄瑠璃寺に向かう。平成13年6月撮影