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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)窪野町桜から浄瑠璃寺へ①

 窪野町桜は、三坂峠から浄瑠璃寺に向かう遍路道のほぼ中間にあり、険しい山道を上り下りする遍路が一息入れる場所になっていた。『四国邊路道指南』には、「くだり坂半過、桜休場の茶屋。<4>」と記されているように、ここにはいくつかの茶屋や宿屋があった。現在、終戦直後まで茶屋と宿屋を兼営していたという2軒の大きな建物(写真2-2-2)が残っている。天明5年(1785年)に円光寺(松山市)の住職名月は岩屋寺参詣(けい)の途次、ここからの眺めを、「櫻花息場」と題して「断崖三十戸、秋老白雲栖、後傍千重険、前臨百仭谿、鹿鳴紅葉際、猿叫翠岩西、驟雨瑶林外、還聞貸馬嘶<5>」と詠時ている。
 この地で農業を営む**さん(昭和5年生まれ)は、馬方で生計を立てていた父親から子供のころ聞いた話として、春の季節には遍路が1日300人も通っていたと語っている。
 この桜集落には、力尽きて倒れた遍路に関する史料が残っている。旧窪野村が所有していた文書には、享保8年(1723年)に窪野村まで来た備後国(広島県)の安兵衛という70歳くらいの病気の遍路が、次の久谷村へ送り届けられようとしている記述があり<6>、「遍路送り」の様子をうかがい知ることができる。
 この安兵衛は結局窪野村で死亡しているが、その史料には、遍路の所持品は往来手形のほか、杖1本・菅笠一つ・荷台一つ・木櫛二つ・木綿袋二つ・紙袋二つ・渋紙一つ・めご一つ・天目一つ・小刀1本などと、銭を15文持ち、単物(ひとえ)を着て木綿帯を締めていたとあり、当時の遍路装束を推測することができる。
 桜を抜ける道の中ほどに常夜灯があり、そのかたわらに天保13年(1842年)に建てられた自然石の遍路墓がある。さらに昔の面影が残る急な坂道を下っていくと、右上の溜(ため)池の堤の草むらにも遍路墓と思われる5基の無縁墓がある。
 この溜池から県道207号を北に1kmほど下り、御坂(みさか)川に架かる桜橋を渡ってしばらく進むと銅釜橋に至る。ここで県道から分岐した遍路道は、しばらく左手の旧街道を行く。右手が県道207号である。遍路道を500mばかり行くと、榎集落の名前のいわれとなった榎(えのき)の大木があり、その横には昭和6年(1931年)に建てられた大師堂がある。この大師堂の横には、鯨の頭に似た大きな石が横たわっている。この石は、表面に無数の網目状の筋がついているところから「弘法大師の網掛け石」(写真2-2-4)と言われている。石の前を通る遍路は、石の割れ目に納札を挟み込んだり、賽銭(さいせん)をあげて通過する習わしがあり、今でも、三坂峠からこの旧街道を下ってくる遍路は網掛け石や大師堂に立ち寄って浄瑠璃寺に向かっているようである。
 松山市教育委員会編さんの『おへんろさん』には、網掛け石の伝承を、「むかし、弘法大師が大きな石を網に入れてオウク(担(にな)い棒)で担ってきたが、榎まで来たところでオウクが折れてしまった。その拍子に、折れたオウクが山に飛んで行った。落ちた所をオオクボ(松山市久谷町大久保)というようになった。また、石の一つは下の御坂川に落ち、もう一つは今に残る網掛け石である。<7>」と記している。
 この網掛け石のそばには、浄瑠璃寺を案内する道標①が立っており、網掛け石に寄り添うように、「弘法だいしあみかけい志、かたに(片荷)ハ川にあり、明治四十四年四月建之 日向国南那河郡中吋高橋満吉 仝村目井津神恵曽平」と刻んだ自然石の石碑も立っている。
 戦前まで父親が遍路宿と小間物の商いをしていたという**さん(昭和9年生まれ)は、この大師堂の世話をしていて、お堂にまつわる話を次のように語っている。「春のお彼岸のころ、遍路宿には20名しか泊まれない三つの部屋に2倍以上の遍路に譲り合って泊まってもらったこともあった。宿泊代を持ち合わせていない者は大師堂で夜露をしのぎ、自炊をしていたようである。しかし、戦後、巡拝者がめっきり減り、大師堂も荒らされて、堂内の納経帳に押す版木や貴重品が紛失した。最近、歩き遍路の参拝者が増えてきたので、平成6年に新しい大師堂を独力で建て、堂内に喜多郡内子町大瀬の辰本八衛が大正10年(1921年)に奉納した弘法大師の石像やその他の貴重品を安置している。」
 網掛け石と道を隔てた榎集落の共有地の草むらの中には、天保9年(1838年)、嘉永6年(1853年)など江戸時代の遍路墓と並んで、昭和33年(1958年)の新しい遍路墓もある。
 網掛け石から浄瑠璃寺に向けて遍路道をしばらく下る。すると、道の右側に、弘化3年(1846年)に造られた馬頭観音(写真2-2-5)が祀(まつ)られており、かつてこの道を数多くの馬が物資を輸送する主要な足として使役されていた名残を留(とど)めている。
 その馬頭観音から200mほど下手にある榎橋を渡ると、遍路道は、再び県道207号と合流し、窪野橋を渡って丹波集落に入り、バス停「丹波口」に至る。ここには、茶屋が5軒もあって遍路や一般の旅人で昼夜にぎわったという<8>が、今は空地となっている。
 このバス停の向かい側には窪寺旧跡があって、「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」の碑が立っている。ここには正岡子規の「草履単衣竹杖斑 孤村七月聴綿蠻 青々稲長恵原里 淡々雲懸三阪山<9>」の漢詩と「旅人のうた登り行く若葉かな」の俳句を刻んだ石碑が立っている。なお、窪寺跡については、このほかに窪野橋の東方約2kmの北谷にも石碑が建てられていて、一遍上人の修行の場「窪寺」については諸説があるようである<10>。

写真2-2-2 窪野町桜に残る茶屋跡

写真2-2-2 窪野町桜に残る茶屋跡

平成13年6月撮影

写真2-2-4 綱掛け石

写真2-2-4 綱掛け石

松山市久谷町榎。平成13年6月撮影

写真2-2-5 道端に立つ馬頭観音

写真2-2-5 道端に立つ馬頭観音

松山市久谷町榎。平成13年6月撮影