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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)三坂峠から松山市窪野町桜へ

 上浮穴郡久万町の四十四番大宝寺と美川村の四十五番岩屋寺を打ち終えた遍路は、現在の三坂峠より北東約250mにあるかつての土佐街道(以下、旧街道と記す)の三(見)坂峠を越えて、松山市浄瑠璃町の四十六番浄瑠璃寺に向かう。この遍路道は明治20年(1887年)に三坂新道(現在の国道33号の前身)が開通するまでは松山と久万・土佐を結ぶ重要な街道であった。
 旧街道を行く遍路道は、久万町東明神にある三坂峠ドライブインの手前で国道33号を右折して進むと、すぐ切通しにさしかかり、右手高台の木立の中には苔(こけ)むした地蔵が立っている。この地蔵は、常光寺(松山市恵原町)の僧が文政9年(1826年)、四国・西国霊場巡拝記念に造立したものである<1>。切通しを過ぎてしばらく杉林の中を行くと、道幅は次第に狭くなり、つづら折りの急な坂道となる。この急坂をしばらく下ると右手に視界が開け、松山市街地から瀬戸内の島々までを遠望できる箇所に至る。この辺りからの遠望を、真念は『四国邊路道指南』で、「此峠より眺望すれバ、ちとせことぶく松山の城堂々とし、ねがひ八三津の浜浩々乎たり。碧浪渺洋、中にによ川と伊与の小富士駿河の山の(ご)とし。ごヽ島、しま山、山島、かすかずの出船つり船、やれやれ扠先たばこ一ぷく。<2>」と描写している。また、野沢象水も『予陽塵芥集』で、「此往来の道に御坂峠と云あり 登々たる山路の絶頂にて 遠見の眺望限なし<3>」と述べており、多くの旅人もここからの眺望を楽しみ、長旅の労苦をいやしていた様子がうかがえる。
 道は木立の中をぬって往時の面影を残す石畳の急な下りの坂道にさしかかる(写真2-2-1)。この急坂は、かつて行商の金物屋が商売用の鍋(なべ)を石畳に落として割ったことから、「鍋割坂」の名前がつけられたと伝えられ、そのいわれを記した石碑が立っている。
 その後しばらくなだらかな道を下り、ケヤキの大木があるあたりからまた急な坂道となり、竹やぶの中をくぐる。右側尾根からの沢に架けられた小さな橋を渡って、檜(ひのき)や杉の林の中を下ってゆくと、四十番札所(観自在寺)から六十五番札所(三角寺)を結ぶ伊予路のへんろ道は約340kmもあると記した案内板のある「四国のみち」の休憩施設に至る。木立の中の道をしばらく行くと、やがて左手に棚田が広がる窪野町桜の集落に入る。その少し手前の右側に元治2年(1865年)の遍路墓があり、その下手に「洗(あらい)の観音様」と呼ばれる観音を祀(まつ)る小さな堂がある。ここからしばらく行くと桜の集落に至り、県道三坂松山線(207号)に合流する。

写真2-2-1 鍋割坂の石畳

写真2-2-1 鍋割坂の石畳

松山市窪野町。平成13年11月撮影