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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)石浦から突合へ

 石浦からの遍路道は小田川沿いに国道を進むが、かつてはこの石浦から直線的に国道を横切り小田川を渡って長前(ながさき)に入り、長前大師堂の手前を左折し畑道を通り、湾曲して流れる小田川を再度渡った後、国道を横切り山中を抜けていたという。かつての遍路道は、このように川に面した急傾斜地では、見通しがきく安全な山の中腹や尾根道を通っていたが、国道開通とともに遍路道は次第に川沿いの道に移り、以前の遍路道は消滅して山林や草道の中に昔の面影を残すだけとなっている。なお、この辺りは標高100mから200m前後の山並みが小田川の両岸を覆うように連なっており、一般に大瀬谷と呼ばれていた。古川古松軒は『四国道之記』に、「うちの子の町より逢瀬谷といふにかかる、此谷は六里半の谷道にて、谷川数度渡る事なり。左右は山のみにて淋しき道なり<9>」と書きとめている。
 石浦を出た遍路道は、小田川沿いに国道を進み、長岡山トンネル西口手前から国道を右側にそれて川沿いの旧国道(以下、旧道と記す)を進む。この旧道沿いのあちこちには、ミニ霊場の舟形石仏や馬頭観音、地蔵などが祀(まつ)られている。トンネルの東口で再び国道に合流するが、その地点の左側のバス停田代口の隣には、幅3間、奥行き2間ほどの資材置き場らしい建物があり、入口には「お遍路無料宿」の看板が掲げられている。中には畳2畳が敷かれ、夜具も用意されている。道をさらに進み、和田トンネルの手前で再び国道を南にそれて川沿いの旧道を行き、中和田の阿弥陀堂を過ぎてトンネル東口で国道と合流してさらに東に進む。掛木で国道バイパスは小田川を渡って南岸を行くが、遍路道はそのまま北岸を進む。大瀬の中心地に入る辺りで、国道バイパスに通じる新成屋橋のたもとの道路右脇(わき)に菅生山まで7里を示す徳右衛門道標⑫が立っている。ここ大瀬本町(成屋)の家並みは山と川に挟まれて、通りは昔ながらの道の面影を残している。
 遍路道は河口の集落で小田川を横切ってきたバイパスと合流して河口橋まで進む。その河口橋付近にわずかに残る旧道にある橋の干前に「(手印)へんろみち 大瀬村中塚イシノ立テル」の道標があったというが、今は所在不明である。
 河口橋を渡ってさらに東へ進むと乙成に至る。ここには「曽我十郎の首塚」と伝えられる塚が道から800mほど坂道を上った所にある。この曽我兄弟仇(あだ)討ち後の首塚の伝承は、『大洲随筆』『大洲旧記』などにも残されている<10>。この乙成で、宮尾しげをは、「『各国御宿』だの『四国巡拝木賃御宿年中休みなし』と看板を出した宿屋が目につく。<11>」と書いているが、その面影は今も残る。さらに進んで石積のバス停今岡口を過ぎると、50mほど先の左側の小高い畑の端に菅生山まで6里を示す徳右衛門道標⑬がある。さらに道を進み川登の集落に至ると、遍路千人宿泊を記念して昭和5年(1930年)に建て替えたという「千人宿記念大師堂」(善根宿)がある<12>。川が大きく屈曲する路木(ろぎ)には、弘法大師が水を飲んで楽になったという「楽水(らくみず)大師堂」がある<13>。さらに進んで梅津の集落の左手やや高台に梅津大師堂がある。ここを過ぎると小田町に入り、小田川とその支流田渡川の合流する吉野川橋に至る。石浦を出てほぼ12kmほどである。この間遍路道はほぼ一筋のためか、道標は徳右衛門道標2基のみである。ただ、道の左側の山肌には多くの石仏等が見られ、昔ながらの遍路道の名残をうかがわせる。また、この間の道は谷あいの道で、明石寺から大宝寺までの長い道程では、行きなずむ遍路も多かったに違いない。そのためか、道に沿って遍路が宿泊したり、接待を受けたりしたという大師堂などの堂宇や遍路宿やその跡が目立つ。実際新谷を過ぎると、かつては多くの遍路がこの山深い谷あいの地で宿をとっている。
 古川古松軒は、この大瀬谷の地で遍路同士が虱(しらみ)狩りをして寄せ集めたところ1合(約180cc)ほどになったと当時の厳しい遍路行の一端を書きとめている<14>。小林雨峯は、「渓流(けいりう)に沿(そ)ふて登(のぼ)り、また渓流(けいりう)に沿(そ)ふて降(くだ)る。眼(め)は飽(あ)くことを知らざれども、脚(あし)は疲(つか)れてヘトヘト」となったところで善根宿の誘いを受け、「食前佛前(しょくぜんぶつぜん)に讀經(とくきやう)し、一家(か)の衆(しう)と膳(ぜん)に就(つ)く、食後近隣(しょくごきんりん)の小児老幼(せうじろうえう)を集(あつ)めて談話(だんわ)す<15>」と、大瀬谷一帯における善根宿の様子の一端を記している。また、新谷で一宿後、臼杵村(現小田町臼杵)に宿をとった升屋徳兵衛は「九里はかり歩(あゆ)ミ、八里が間谷底中央谷河山道左右(たにそこちうおうたにかわやまみちさゆう)に離れ離れ山田人家ありといへども甚悪(はなハたあし)き人家、宿(やと)頼むといへどもかし呉(くれ)られす、甚々めいわく致し、すなハチ臼杵(うすき)村幾右衛門方へ宿す。<16>」と、この地を通過する際の困惑した状況を書き留めている。
 ちなみに、明石寺を参拝後、大宝寺・岩屋寺を経て松山に至る間の遍路の宿泊地を江戸時代から明治期までの遍路記で拾い整理すると、図表2-1-3のようで、4泊5日前後の日程を要していることが分かる。

図表2-1-3 明石寺を出てから松山に至る遍路道での遍路の宿泊地

図表2-1-3 明石寺を出てから松山に至る遍路道での遍路の宿泊地

A~Kの参考文献は文末注<17>。