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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)鳥坂番所跡から十夜ヶ橋へ①

 鳥坂番所は、大洲藩の番所である。当初は鳥坂峠に設けられていたが、天保年間(1830年~44年)に現在地に移され、明治初めまでの約30年間、番所としての機能を果たしていた<41>。この番所の跡は、過去の歴史的経緯から大洲市の所有となっていたが、昭和33年(1958年)に宇和町に編入された。現在、ここにはかつての建物が残っており、屋根が茅葺(かやぶ)きから瓦葺(かわらぶ)きに改められはしているものの、本屋は比較的原形をとどめており、間取り、玄関などは創設当時の旧態がうかがえる<42>。
 遍路道は、番所跡の左側の道から登る。標高430mの鳥坂峠越えの遍路道は旧街道でもあり、卯之町から大洲に至る主要な往還であった。『四国逞路道指南』には「とさか村、こヽにうわ島と大ず領とのさかひ。過て戸坂ざか二里有、八町ほどのぼり、それよりくだる。<43>」と記されている。
 この往還の宇和町久保から大洲市北只間にかけて道の両側には松が植えられていた。明治12年(1879年)6月、喜多郡郡長が県に提出した『道路橋梁取調書』によると、この間の並松は、久保村分324本、稲積村分195本、長谷村分331本、野佐来村分853本、松尾村分221本、黒本村分17本、北只村138本と報告されている<44>。この並松は、明治37年測量、昭和35年修正の国土地理院発行の地形図にもはっきりと示されている。しかし、この松は、太平洋戦争中に、戦時供用のために伐採されたり、終戦後は松くい虫の被害を受けたりして現在はその面影をとどめていない。
 鳥坂番所跡から少し急な坂道を登ると、昔からの自生かどうかは定かではないが、アヤメ科の常緑多年草であるシヤガの見事な自生地があり、群落をなして春には遍路の目を楽しませてくれる。やがて遍路道は北裏地区に通ずる道と交差するが、その道を横断してさらに山道を登ると鳥坂峠に達する。
 峠には茶店の遺構も見られ、大樹の根元には「天下泰平国土安全 普賢延命地蔵」と刻まれた地蔵が安置され、その左に小さな舟形地蔵がある(写真1-2-13)。
 鳥坂峠を越えると、道は植林された杉林の中を下る。やがて鳥坂隠道入口の上を横切る道にさしかかると、木立ちの中に壊れかけた社(やしろ)(日天社)が見えてくる。社には自然石で囲われた小さな祠(ほこら)があり、日天月天(にってんがってん)が祀られている。昔の人は太陽と月をこの世で貴いものとして崇拝した。また、社手前の道側には、板状の石で囲った地蔵があり、その台石が道標㊶になっている。遍路もこの広場でしばしの休息をとったものと想像される。
 さらに、鳥坂隧道入口の上を横切る道を進むと、やがて旧街道である遍路道は大洲市三本松に入り、現在の市道に出合う。その地点には、かつて接待所もあったというが、道の右側には道標㊷・㊸・㊹がある。これらの道標群は、おそらく市道開設時に付近から集められたものと考えられるが、そのうちのひときわ目立つ道標㊷は、武田徳右衛門が願主となっている。その横の二つの舟形地蔵道標は「是より十丁常せったい所」と読み取れ、おそらく野佐来(やさらい)の札掛大師堂か「お接待場」あたりを案内しているものと思われる。
 この道標群から、旧街道と合致する市道を野佐来の札掛(ふだかけ)に向かって150mほど下ると、遍路道の方向と下稲積道への道を示す道標㊺が立っている。明治37年測量の地形図によると、旧街道は、この辺りから尾根道を通って札掛に達していたが、現在は草木に覆われて通行不能になっている。そのため峠越えをした遍路は、国道56号と旧街道の間を並行に通る市道を歩き、やがて札掛大師堂の少し手前から旧街道に入って札掛大師堂(仏陀懸(ふだかけ)寺)をめざす。
 札掛大師堂は、『四国遍礼名所図会』に(峠より左二伊づし観音山見ゆる。豊後日向路はるかに見ゆる。十丁程下り大師加持水左の方五間下り有リ、庵常接待有り大師安置、爰二て支度、加持水庵のわきニ有リ。<45>」とある。ここに記された「伊づし観音山」とは、出石寺のある山を指しており、札掛大師堂を参詣した遍路の中には、ここから大洲市黒木、同平野町の平地を経由して出石寺を訪れる者もいたようである。
 この大師堂は、弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折に、仏像を松の枝に懸(か)けて祀り、悪病退散・五穀成就を祈禱(きとう)してご利益にあずかり開いたものと伝えられている<46>。現在、境内には、「弘法大師札掛の松」と称されていた大きな松の木の切り株が残っており(写真1-2-14)、かつては常設の接待所もあった。門前にある**邸(野佐来1217-2)は昔の遍路宿であったという。
 遍路道は寺を出るとまっすぐに旧街道を下る。南久米小学校の横を通って国道56号と合流し、500mほど進むと、製材所前のラーメン屋などのある広場の片隅に一宇がある。ここには、国道開通の際に道筋にあった大師像や千手観音像などの石仏が集められ祀られているが、地元では「お接待場」とも呼ばれており、鳥坂峠越えで疲れた遍路もここで一時の休息をとったことであろう<47>。
 こののち旧街道である遍路道は、ゴルフ場で現在は消滅している。かつての道はゴルフ場の中を通り、いったんは子持坂のバス停付近に出る。この辺り一帯は、地域の人から「遍路供養」とも呼ばれており、国道開設以前には行き倒れた遍路の墓が多くあったという。その後、道は再びゴルフ場に入るが、ゴルフ場を出るとやがて石畳(いしだたみ)の道(写真1-2-15)となって北只(きたただ)に入る。現在、ここは高速道路の予定地となって工事が進められている。なお、「お接待場」から子持坂を経て北只に至る遍路道には、改修前の国道を通る道もあった。
 北只に入った旧街道を行く遍路道は、国道を横断して嵩富川(たかとみがわ)に架かる金山橋を渡る。国道と並行するように走る嵩富川の東岸の道を行くと、やがて嵩富橋に至る。そこから橋を渡って左折し、土地区画整理事業で埋め立てられた市の瀬地区を過ぎると、歴史を感じさせる家並みに入り、大洲市柚木(ゆのき)尾坂に菅生山への里程を示す道標㊻が立っている。
 ここから遍路道は、大洲神社の参道前を通って志保町と呼ばれる町並みに入るが、その通りは古い家並みが残り、昔の繁栄ぶりを今に伝えている。遍路道は、志保町の通りから中町三丁目の通りかまたは本町三丁目の通りかで左折するか、あるいは肱川の左岸の堤を進み、旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)の前に出る。
 旅館の向かいには、煉瓦(れんが)造りの旧大洲商業銀行(現在、おおず赤煉瓦館)があり、その横に「河原大師堂」がある。地元の人の話では、この大師堂は、昔は肱川(ひじかわ)の河原にあったが、幾度か場所を変えて現在の場所に移されたもので、川の安全に関係を持つものであるという。
 油屋の下にはかつて肱川の渡し場があった。大正2年(1913年)の肱川橋の完成以前から営業していた油屋は、増水のために幾日も足止めをくった人も宿泊して大変にぎわっていたとも伝えられている。

写真1-2-13 鳥坂峠の地蔵

写真1-2-13 鳥坂峠の地蔵

平成13年6月撮影

写真1-2-14 「札掛の松」の切り株

写真1-2-14 「札掛の松」の切り株

平成13年6月撮影

写真1-2-15 石畳の道

写真1-2-15 石畳の道

平成13年6月撮影