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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)龍光寺から仏木寺へ

 龍光寺の参詣(さんけい)を終えた遍路は、石段を下って道標⑪が立つ場所に戻り、そこから道標の手印に従って左折し、墓地から山越えの道を通って仏木寺に向かう。これが主な遍路道であったという。
 江戸時代の紀行記、『南海四州紀行』には、「是ヨリ山坂アリ急ナラス路辺炎魔堂アリ一丈四方ナリ<13>」とあり、昭和初期に旅した宮尾しげをは、『画と文 四國遍路』で、「もと来た方へ行かうとすると『そっち下りては罪です、四十二番は、あの山登るのや』と住職が教える。そこで裏山を登り、小徑を下りると、道の上のこんもりとした森の中に四十二番、一か山仏木寺はある。この間二十五丁。<14>」と記している。
 現在、この山越えの道(写真1-2-3)には、各所に昭和40年代に建てられた道標があり道に迷うことはない。植林された檜(ひのき)林の中を行くと、やがてブドウ畑の横に出て県道宇和三間線(31号)に合流し、その合流地点に道標⑬がある。
 寺の近くで民宿を営む**さん(昭和5年生まれ)の話によると、龍光寺から仏木寺に向かう遍路道には、箱車などで山越えの難儀をする遍路たちのために、山越え道以外にもう一つの迂回路(うかいろ)があったという。その道は、現在は道路改修工事などで当時の面影をあまり留(とど)めないが、道標⑨が立つ三差路から西に折れて少し進み、**邸(戸雁360-1)を過ぎてから左の細い横道に入り、田んぼ道から畑のある小高い丘を通って利近池を迂回して進み、やがて県道31号に合流して道標⑬に至る道である。
 道標⑬で山越えの道と合流した遍路道は、仏木寺の方向に県道31号を北上することになるが、すぐ近くの三差路に、地域の敬老会が建てた道標⑭が立っている。その道標を経て成妙小学校の前を進むと、やがて大藤橋の手前の三差路にさしかかり、そこから右折して県道をそれ、長谷川に架かる沖戸橋を渡る。その橋のたもとには、「(手印)左仏木寺江六丁」の道標があったというが<15>、現在は無い。地元の人の話によると、この道標は20年ほど前から行方不明になっているとのことである。
 遍路道は、沖戸橋を渡ると三差路を左折して少し進み、消防倉庫横の広場に至る。この広場には、常夜灯が立ち観音菩薩も祀(まつ)られているが、昔は紅葉する大木やお堂もあって、沖戸駄馬と呼ばれる馬のつなぎ場ともなっていたという<16>。広場の端には遍路墓らしきものもある。
 そののち、道は則(すなわち)の家並みに入り、やがて県道と合流する。さらに北西に進むと、すぐに四十二番仏木寺の山門に至る。この山門の脇には、右側に道標⑮、左側に茂兵衛道標⑯がある。二層の古びた大きな山門をくぐって石段を上がると、右手に茅葺(かやぶ)きの鐘楼(しょうろう)がある。左手の広い境内には、正面に本堂、その左右には大師堂と家畜堂があり、家畜堂には瓦(かわら)焼きの牛(写真1-2-4)がたくさん奉納されている。
 寺に家畜堂があるのは珍しいが、龍光寺の「おいなりさん」に対して仏木寺は「牛の大日さま」と呼ばれて現在でも地域の人々に親しまれている。牛馬の守り本尊の寺として、今日でも旧暦の6月の丑(うし)の日には胡瓜(きゅうり)封じの供養が行われている。
 この寺と牛のかかわりは、寺に伝わる一つの大師伝説に由来する。武田明は、『巡礼の民俗』の中でその伝説を、「弘法大師がこの地を通りかかると牛をひいた老人にあった。みちびかれて楠の下を通ると上から宝珠が落ちてきた。その宝珠は大師が唐にいた時に三鈷と共に東にむかって投げた宝珠であった。大師はその楠で大日如来を刻み仏木寺を建てた。本尊大日如来は牛馬の本尊で牛の病平癒のために絵馬をあげると言う。<17>」と紹介している。

写真1-2-3 龍光寺からの山越えの道

写真1-2-3 龍光寺からの山越えの道

平成13年6月撮影

写真1-2-4 奉納された瓦焼きの牛

写真1-2-4 奉納された瓦焼きの牛

平成13年11月撮影