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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)佐伯町番所跡から龍光院へ

 宇和島城下の番所は2か所に置かれた。一つは城南の佐伯町番所(写真1-1-18)、他は城北に本町番所が置かれた。宇和島は元和元年(1615年)伊達政宗の長子秀宗が入部し、以後明治維新に至るまで伊達10万石の城下町として発展した町である。
 中道は、天赦園(てんしゃえん)の少し先で右折して、宇和島城の南、市立伊達博物館横を東に進む。天赦園一帯は宇和島城西南を囲んだ海であったが、寛文12年(1672年)2代藩主が埋め立て、のち7代藩主宗紀が隠居所として造った別荘地である。道はかつて武家屋敷であった閑静な桜町や広小路を通り、本町追手(おおて)の追手門跡に至る。
 澄禅は「此宇和島ハ昔ヨリ万事豊ニテ自由成所ナリ。殊二魚類多シ、鰯ト云魚ハ当所ノ名物也。<58>」と『四国遍路日記』に記しているように、宇和島近海の宇和海は古くから鰯(いわし)をはじめ魚介類が豊富に採れた所である。
 遍路をした新聞記者の下村宏は、「宇和島を立つ日の午餐に、この食堂で『さつま』という宇和島料理を出された。『さつま』は世間にありふれた薩摩汁の類ではない。温かい飯の上に鯛の生身と薄味のこんにゃくとを置く。その上に鯛の焼身と焼味噌とを練り合わせたソースのようなものをかける。これが『さつま』である。ここに『ちんぴん』という薬味をかけて食う。この『ちんぴん』は『珍品五個』の類ではない。蜜柑の皮と葱とを細かに刻んだ調味料である。私はこの『さつま』を四国遍路における料理の首座におく。<59>」と記している。今も「さつま」は宇和島地方の代表的な郷土料理である。
 遍路道は、中道からそれて広小路の道路を直進し、城下町特有の鉤(かぎ)型道路を左折する。本町追手の三差路を北東に進み、六兵衛坂を越え、外濠の機能を持つ辰野川の左岸を川下方向へ進む。道は丸穂橋を渡り辰野川の右岸をさらに約300m直進した後、右折して向新橋を渡って龍光院前に出る。龍光院を参拝しない遍路は、丸穂橋を渡らず直接、本町番所(辰野川右岸のビジネスホテル付近)を経て三間町の龍光寺へ進む。
 龍光院は、宇和島城の鬼門にあたる北東の丘陵地にある。臨海山という山号からも、付近まで海が迫っていたことがうかがえる。『愛媛県の地名』によれば、「現在当寺は、四国八十八ケ所の四十番観自在寺の奥の院とされている。九島鯨谷(蛤(はまぐり))の願成寺が、寛文8年(1668年)に元結掛の大師堂に移され、明治になって大師堂が当寺に統合されたためである。<60>」と記されている。
 龍光院表参道の長い石段を登る。石段の中ほどに「本堂 ぎゃ久観自在寺 和霊社 四十一番ゐなり」と流麗な筆跡の茂兵衛巡拝190度目の道標㊲がある。本堂や大師堂がある小高い境内に立つと、丘陵上に建つ宇和島城がほぼ南西の方向に見え、市街が一望できる。かつて観自在寺の奥の院があったという九島は、当寺からは右手の方向にあたる。愛宕山から市街地を見ると湾頭に九島が見える(写真1-1-19)。また本堂の右手には苔むした芭蕉の句碑がある。この龍光院は市街地の一角にあり、JR宇和島駅やバスターミナルにも近接して交通位置にも恵まれ、巡拝者は後を絶たない。
 遍路道は表参道石段中はどの道標㊲から右に折れ、急勾配の古びた西参道の石段を下りる。
 その後、遍路道は城北から光満(みつま)方面に延び、一路三間町の四十一番龍光寺へ進む。

写真1-1-18 宇和島藩佐伯町番所跡と神田川 

写真1-1-18 宇和島藩佐伯町番所跡と神田川 

中央の和風建物が旧番所跡。平成13年5月撮影

写真1-1-19 城下町宇和島と宇和島城

写真1-1-19 城下町宇和島と宇和島城

宇和島市愛宕山から見た市街地。左手の後方が九島。平成13年11月撮影