データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予の遍路道(平成13年度)

(3)灘道②

 ウ 大門から柿の木へ

 灘道は、津島町上畑地(かみはたじ)の大門で再び国道56号を横切り、旧上畑地村の旧庄屋屋敷や禅蔵寺薬師堂を左に見て、高岡橋から山沿いに芳原川左岸を北上する。小祝から芳原にかけては「梅三里」といわれ、かつて梅の並木があったというが今はその面影はない。鴨田橋より山沿いを西に進み、下畑地(しもはたじ)内田の観音堂の右側を通り、芳原川に架かる金剛橋に至る。ここから道は、国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て、再び東の山際(ぎわ)を芳原庵寺や延命地蔵の芳原に向かい、さらに北進して岩松に至る。このほかに金剛橋の手前を芳原川左岸の土手沿いに進み、オサカの鼻の地蔵堂の左側を通り、岩松へ入る道もあったという。いずれにせよ遍路道は、後背湿地の沼沢地を避け、山際や土手などの微高地を通っていた。
 道は岩松代官所跡前を通って街道沿いに密集した町並み(写真1-1-16)の商店街を北に進み、臨江寺の手前で左折し、旧小西家の蔵通りを北西に進み田んぼの中(現国道56号が通っているところ)を旧高田村の保木に出て、慶応2年(1866年)に付け替えられる前の岩松川を飛び石伝いに渡っていた。伊達家の『岩松川絵図面』によると、岩松川は山麓の保木から南下して岩松小学校、JAえひめ南農協津島支所の所を大きく迂(う)回しながら海に流れ込んでいたようで、現在よりかなり西方の山際を流れていたらしい<50>。明治44年(1911年)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった。
 獅子文六は、岩松の豪商小西家の離れに終戦直後の2年間滞在した。帰京後、その体験を基に小説『てんやわんや』を書いたことでも知られる<51>。新橋近くの岩松川に沿う国道脇に、文六の「思いきや伊予の涯にて初硯(すずり)」の句碑が立っている。
 遍路道は岩松川を渡り、高田の保木から熱田へ進み、国道を横切り津島高校の裏側から山裾(すそ)を北へ進む。下谷を過ぎ再び国道を渡って上谷に入ると2体の石仏がある。道は旧国道(市道祝森線)松尾峠への三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から昭和53年(1978年)に完成した新松尾トンネル(1,710m)上の急峻な山道を登る。やがて明治41年(1908年)から3年かけて完成した旧道に出るが、現在は荒れるにまかせ昔の面影はない。旧道と遍路道が交差する草むらの中に、昭和8年(1933年)に建てられた道標㉜(写真1-1-17)がある。比較的緩やかな山道を約400m進むと切通しの峠に至る。この尾根が津島町と宇和島市の境界である。峠の向こう側に茶屋跡があり、石垣や直径1mほどの古井戸が往時を偲(しの)ばせる。この付近に茂兵衛の道標があったというが見当たらない。この峠の真下に旧国道の松尾隧道(ずいどう)が通っている。茶屋跡から左に折れてまた旧道に入り、木々の間から農免道路を左下に見ながら下る。緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681年)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である。
 一方、岩松から岩淵の満願寺への道は、かつて灘道を通り宇和島城下に行く旅人や遍路は必ず通った道である。しかし、岩松から高田を経て松尾峠越えの道が開かれた明治以降は極度に人通りが減少し、満願寺もかつての賑(にぎ)わいが見られない。

写真1-1-16 津島町岩松の町並み

写真1-1-16 津島町岩松の町並み

平成13年9月撮影

写真1-1-17 津島町松尾坂の道標と旧道

写真1-1-17 津島町松尾坂の道標と旧道

平成13年7月撮影