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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)灘道①

 ア 一本松町上大道から内海村柏へ

 灘道は、一本松町上大道(うわおおどう)で中道と分岐する。町境を越えて城辺町太場(だいば)に入って間もなく、県道一本松城辺線(299号)を右折して尾根を下る。この道は江戸後期に拓かれたという遍路道である。豊田の入口に手印のついた自然石の道標⑱がある。ここで県道299号と再び合流する。少し下(しも)の橋の袂(たもと)に自然石の手印道標⑲があり、そばに「これよりくわんじざいへ一り」と刻まれた徳右衛門道標⑳がある。道標の手印は向きが逆になっており、のちに移動してここに建てたものと思われる。小さな橋を渡ると地蔵や石塔が集められた釈迦駄馬の供養塔広場がある。この広場はサネモリ(実盛)様を祀(まつ)り、ここで篠山大権現の神火を受けて、近在の村々へ火送りがなされた。ここからこの地方の虫送りの行事が始まったという<35>。遍路道は街村の町並みをなす豊田の中ほどで右に折れ、川幅が広く水量の多い僧都(そうず)川を飛び石伝いに渡り、左谷(さこく)に出る。時を経て、この渡河地点は利用されなくなり、遍路道は僧都川左岸を通って城辺の町に入り、常盤城址や佛眼寺を左に見ながら通過した。城辺橋のすぐ下(しも)の堤防上に、移設したと思われる里程を刻んだ赤茶けた道標㉑がある。遍路道はこの付近から飛び石伝いに僧都川を渡り、平城の観自在寺に向かって進む。また、豊田集落の人口にある道標⑱より南へ直進して山際を通り、城辺の町に出る遍路道もあったという。
 一方、城辺町緑の左谷に出てた遍路道は鞍部(あんぶ)を越え、峰地から二手に分かれる。西へ直行すれば観自在寺への灘道、北へ進めば前述した大岩道越えの中道である。この峰地の台地から御荘町役場に出て、旧国道と合流して西進すると観自在寺山門下に至る。高知県境の松尾峠から約17kmの行程、ここが伊予路で最初の札所である。
 ここで城辺町深浦(写真1-1-12)に戻り、海を渡る遍路道について記す。深浦はリアス式海岸の良港で、藩政時代には宇和島藩の番所が置かれていた。国境の急峻な松尾峠の難所を越える代わりに、深浦-片島(宿毛)間の渡船は許されていた。
 大正7年(1918年)、24歳で四国遍路に出た高群(たかむれ)逸枝は、『お遍路』の中で「7月24日まだ暗いうちに観自在寺を出た。延光寺まで7里であるが、伊予と土佐の国境に松尾峠の難所があるので、遍路にもここは船でわたることがゆるされていて、雨近い天気なので、私達も深浦の港から、大和丸という巡航船に乗った。そして一時間で片島(現宿毛市)に上がった。<36>」と記している。また漫画家の宮尾しげをは、昭和7年(1932年)に宿毛から乗船した様子を『画と文 四國遍路』に、「海路の船賃は『普通は五十銭だが、御遍路だから四十銭に割引です』と札賣が云うて、桃色の札をよこす『御遍路殿二割引四十銭、上陸地深浦港、乗船地宿毛港、月日、大和丸』と印刷してある。船へ入ると、船員が『お遍路さん晩に乗りませんかナ、宇和島へ行きますヨ』といふ。こちらは晩までには宇和島に入る豫定である。<37>」と記している。陸上交通の発達が遅れたこの地方では、早くから海上交通が発達していた。深浦港が郡内第一の港として海上運輸に果たした役割は大きい。
 道を再び観自在寺に戻す。観自在寺参道沿いに墓所があり、その右側の石柱に「これよりいなりへ十四里半」と刻まれた道標㉒がある。「いなり」とは三間(みま)町にある次の札所四十一番稲荷山龍光寺のことである。四十番平城山観自在寺は、御荘の町並みのほぼ中央、小高い段丘上に立地する。「平安期から戦国期にかけて延暦寺青蓮院門跡領荘園である観自在寺荘が成立し、観自在寺荘の尊称である観自在寺御荘が町名の起源になった。<38>」といわれる。山門の天井には直径1mほどの珍しい方角盤(写真1-1-13)がある。干支(えと)の絵で方角を示した巡拝者用の案内板と思われる。干支の絵は色あせているが中央に亀が描かれ、西の酉(とり)の方向を向いている。現在、境内には本堂を中心に多くの伽藍(がらん)が配され、天保14年(1843年)の芭蕉の句碑や古い五輪塔がある。
 灘道は、観自在寺隣の平城小学校前から西進し、南宇和地区広域農道を横切り、八幡神社北側の道を進み、右手の興禅寺や来迎寺の下を過ぎると、かつて平城の港として栄えた貝塚港に至る。『旧街道』によると、「札所から西に行くと貝塚があり、間もなく僧都川口の長崎に着く。国道56号は長崎から海岸沿いについているが、国道ができるまでは平山まで渡し舟があり、約500mの海上を1日何回か旅人を運んでいた。<39>」という。かつての沼沢地や遠浅の海岸は、愛媛県が昭和56年(1981年)までに埋め立て、ホテル・遊技場・プールなどのレジャー施設を整備し、「南レク御荘公園」として開園した。
 灘道は、この港から北の笹子谷へ向かって上り、山越えで長洲(ながす)へ下る。庄屋屋敷を経て日ノ平から川沿いに下って海辺に出る。ここからほぼ国道に沿い、ゆるい坂道を上り平山の集落に入る。八百(はっひゃく)坂の切通しの手前を右折し、山あいの猫田に向かう。このあたりは「ミショウ柑」の産地で傾斜地一面を柑橘(かんきつ)園が覆(おお)っている。猫田より西に大きく迂回して坂を下ると八百坂である。ここで再び国道と出会い、菊川の厳島(いつくしま)神社の方向に進むと神社横の国道沿いに、里程を示す3基の道標㉓・㉔・㉕が並んで立っている。これらは最近ここに移設・建立されたと思われる。
 遍路道は八百坂のバス停で国道と分かれ、右手の川沿いをさかのぼり、菊川小学校の傍(そば)を通り梶屋に向かう。道は梶屋集落の段丘崖下を再び国道まで上ると、途中の段丘崖に8体の地蔵が祀られ、薄暗い木陰の道は昔の遍路道の雰囲気を醸(かも)し出す。
 現在の国道は切通しで室手(もろで)の峠を越えているが、灘道は国道より高い山腹沿いを通り、室手の峠を経て内海村の柏へ入っていた。国道の改修で灘道沿いにあった「右へん」と刻字された小さな道標㉖は内室手の**邸(菊川3721-3)の入口に移設された。過去2回にわたる峠の開鑿(かいさく)でかなり掘り下げられた切通しを越えると目の前が突如開ける。室手からの眺望(写真1-1-14)はすばらしい。現在、波静かで澄んだ海面に真珠養殖のフロートが点在し漁船が行き交う。室手海岸沖の三ツ畑田島や鹿島を遠望しながら進むと内海村の中心地柏に至る。

 イ 柏から津島町大門へ

 柏川に架かる柏橋の袂(たもと)にある酒店(柏613)の角に2基の道標がある。1基は中務茂兵衛の道標㉗である。刻字の中に「舟のりば」と案内されているところをみると、柏から舟を利用した遍路もいたと思われる。もう1基の道標㉘は平城への里程石である。柏橋を渡って右折し、柏川右岸の道を進むと、山崎橋の袂に柏坂越えの里程を示した自然石の道標㉙があり、「坂上二十一丁 よこ八丁 下り三十六丁」と刻まれている。この道標は昭和61年(1986年)まで田んぼの傍らに放置されていたものを「柏を育てる会」の人たちが現在地に移転、修復したという。津島町上畑地小祝(こいわい)までの全道程65丁(約7km)はさほどの距離ではないが、多くの旅人や遍路が苦労したのは坂上21丁の急坂、標高450mの峠に登る急勾配の上り坂である。この柏坂は、戦後間もないころまで地域の生活道路として利用され、向こう側の津島町畑地や上槇地区とは頻繁(ひんぱん)に行き来があったという<40>。海岸部を通る現在の国道が整備されるにつれ、柏坂を通る人は減少し、道は荒廃していたが、内海村や「柏を育てる会」の人たちの懸命な奉仕作業で生き返った。道端に桜の苗木を植え、道の補修・整備を行い、旧遍路道「柏坂」を復活させ、先人の残した歴史的遺産を守る活動を続けている。この道は現在、環境庁の「四国のみち」に指定され、自然歩道として再び光を浴びてきた。毎年、春には「へんろ路ウォーク大会」が開催され賑(にぎ)わうという。
 澄禅は「夫(それ)(観自在寺)ヨリ二里斗往テ柏ト云所ニ至、夫(柏)ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テハタジ(畑地)卜云所ニ至ル。<41>」と『四国遍路日記』に記している。登り口から標高350mの柳水(やなぎみず)大師堂のある柏坂休憩所まで約1.7kmの道程である。柳水大師のいわれに、柳の杖を突き立てたところ甘露の水が湧き出てきた<42>、という弘法大師の杖立て伝説がある。丸石を階段状に敷き詰めた急な坂道は整備され足場はよい。明治15年(1882年)の愛媛県行政資料『土木例規』によれば、「北宇和郡上畑地村北宇和郡下畑地村境ヨリ南宇和郡柏村ニ至ル県道筋字郷ノ町ヨリ井場マデ狭キハ四合ヨリ広キハ弐間ニ至ル凡平均七合<43>」と記され、県道といえども道幅は平均1m程しかなく極度に狭いことが分かる。
 昭和12年(1937年)、当地柏の長尾氏を訪ねて永く逗留(とうりゅう)した詩人野口雨情は、「柏坂」の美しい風光と厳しい坂道を叙情的に織りこみ、「松の並木のあの柏坂幾度涙で越えたやら」などの詩を詠んでいる。山道のあちこちに雨情の詩を記した木柱が立てられている。柏坂最高峰の大師峰は標高502m、灘道は少しその下の山腹を北に進む。「よこ」といわれるなだらかで快適な木陰の道で、この道を進むと、津島町境近くの清水大師堂に至る。広場の中央に土俵の跡がある。清水大師については、シキミの木の根元を掘ると清水が湧き出し、その水を飲むと労咳(ろうがい)(肺病)も治った<44>、という弘法大師の清水伝説がある。昭和15年(1940年)ころまでは毎年旧7月30日、近郷近在の力士による奉納相撲が行われ市(いち)も立ったという。山上の平らな杉の木立を行くと津島町に入る。左側にかつて「接待松」と呼ばれる松の巨木があった。大師の縁(ゆか)りの日には、地元の人たちが松の巨木の下で、遍路に菓子の接待をしていた。大松は昭和30年(1955年)ころに伐採され、今は朽ち果てた大株の袂(たもと)に2体の舟形地蔵が祀(まつ)られている。
 明治14年(1881年)、南宇和郡柏村戸長が県令に出した『県道並木新規植付見込御届<45>』によると、柏坂の沿道には松が多く植えられていたことがわかる。現在、灘道沿いにわずかに残っている松の巨木はこの時、植栽されたものと思われる。道は茶堂にある大師堂に向け緩やかな下りが続く。まもなく一瞬にして展望が開ける「つわな奥展望台」に出る。江戸初期の俳人で、遍路としてここを訪れた大淀三千風は「柏坂の峯渡り日本無双の遠景なり九州は杖にかかり伊予高根はひじつつみにかたぶく。<46>」と眺望のすばらしさを称え、高群逸枝は『娘巡礼記』の中で「『海』…私は突然驚喜した。見よ右手の足元近く白銀の海が展けてゐる。まるで奇跡のやうだ。木立深い山を潜って汗臭くなった心が、此処に来て一飛びに飛んだら飛び込めさうな海の陥(おと)し穽(あな)を見る。驚喜は不安となり、不安は讃嘆となり、讃嘆は忘我となる。暫しは風に吹かれ乍ら茫然として佇立(ちょうりつ)。<47>」と歓喜している。つわな奥展望台からは、すぐ眼下に宇和海に浮かぶ由良半島や竹ヶ島が手にとるように鳥瞰(ちょうかん)できる。
 清水大師を後にして2km余りで上畑地大平茶堂の集落に至る。茶堂の200mばかり手前の道標㉚は、「四十番いなり寺」と間違って刻字されている。茶堂の地名について「茶堂は藩政時代から明治初期にかけて栄えていたところで、有名な茶ガマがあったところからその名がついたといわれる。<48>」と『旧街道』に記されている。また『津島町の地理』には、「茶堂は明治末年には11戸の集落であったが、その後、挙家(きょか)離村が続き、昭和37年(1962年)には5戸の集落になっていた。さらに58年にはわずか2戸の寂しい寒村になってしまった。(中略)この茶堂は柏坂越えの中間にあり、明治末年の11戸のうち、5戸が遍路宿を営み、収容人員は40人ほどであったが、春のシーズンには3倍程度の宿泊客を収容した。<49>」と記述され、時代の波に翻弄(ほんろう)された灘道沿いの様子がよくわかる。
 茶堂の大師堂を過ぎると、道沿いにみかんのビニールハウスが多くなる。なだらかな山道を約1.5km谷間を下(お)りた小祝橋の袂(たもと)に「これよりいなりへ…」と刻まれた道標㉛がある。土に埋もれて施主(せしゅ)や願主の名は見えないが、標石の形からして願主は徳右衛門と思われる。遍路道は地主(じょし)橋を渡り、大門(だいもん)に向かって芳原(ほわら)川沿いを北進する。

写真1-1-12 城辺町の深浦港

写真1-1-12 城辺町の深浦港

平成13年10月撮影

写真1-1-13 観自在寺山門天井の方角盤

写真1-1-13 観自在寺山門天井の方角盤

御荘町平城。平成13年5月撮影

写真1-1-14 室手海岸沖の宇和海

写真1-1-14 室手海岸沖の宇和海

御荘町室手。平成13年11月撮影