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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)篠山道

 ア 一本松町札掛から篠山へ

 古くから四国霊場や篠山(ささやま)権現へ参詣する者は、ここ札掛を通った。札掛は前述のとおり、中道と篠山道の分岐する遍路道の要所である。『四国邊路道指南』によると、「さヽ山越、くハんじざいよりひろミ村へもどり、いたお村 まさき村、この村庄屋代々とざさぬなり。ありがたきいわれ有、たづねらるべし。はらい川、垢離してさヽやまへかくる。<23>」とある。『四国遍礼名所図会』にも(小山、是を越て広見村村放れに篠山道有、爰に荷物置是へ戻る、是より少シ山え上る。<24>」と記されている。お月(月山)を打つとお篠(ささ)(篠山)は打たないが、お月を打たない遍路は、観自在寺を打ったあと、再び札掛に打戻りお篠を打った。
 篠山道は、札掛で中道と分かれて右に折れ、名路(なろ)の集落を過ぎ、猿越で増田中組へ進む。その途中の小高い丘に「はなとり踊り」で有名な安養寺がある。増田川に架かる橋の袂(たもと)に「これよりささ山へ三り」と刻まれた道標⑦があり、隣の地蔵道標⑧には「左へんろ道」とある。中組から標高200mのいずり谷の峠を越え正木の徳田へ下って行く。徳田は高知県境に接する集落で、中組から約4kmの道のりである。この峠越えの道は、かなりの難所であったと思われるが、近年南宇和地区広域農道が貫通し、峠には篠南トンネルも完成し一変した。やがて茶堂橋で県境の篠(ささ)川に沿って走る県道篠山公園線(332号)と合流する。曲がり角の**邸(正木620)横の新しい道路沿いに、観自在寺までの里程を示した自然石の道標⑨がある。この道標はかつて譲谷川右岸の旧遍路道沿いにあったという。しばらく行方不明になっていたが、**さんが近くの川で発見し、今の場所に建てたという。指示する方角は逆になっている。篠川沿いを県道に沿って北に進み、右側の篠山小、中学校<25>を過ぎ権現町に入る。このあたりから篠山が真正面にその全容(写真1-1-9)をあらわす。旧道に入ると、「戸たてずの庄屋」として名を馳(は)せた蕨岡(わらびおか)家があり、すぐ隣に歓喜光寺かおる。
 「戸たてずの庄屋」について、『四国邊路道指南<26>』のほか、『四国遍礼名所図会』にも、「雨戸無シの庄屋大庄屋也。篠山権現の御利生二依り盗賊此家へ得入不、雨戸なしの障子。<27>」と記されている。蕨岡家は大庄屋で篠山権現に護られて栄えた家だという。この伝承は『伊予の伝説』に次のように記されている。「戸たてずの庄屋として知られる蕨岡主人(もんど)も、篠山麓の正木に住んでいた。ある日突然ご神託をうけ、屋敷内に社(やしろ)を造り、のちこれを篠山に移し、現在の篠山神社になったと伝えられている。何代かのちの助之丞は篠山に住む天狗(てんぐ)にあざけり笑われ、天狗を射落(うちお)としその翼をとる。すると天狗が『もし翼を返してくれるなら、この家にはずっと泥棒が入らぬようにする』と泣いて詫びるので、翼を返してやった。それからというものは蕨岡家、盗難などの災難にあうこともなく九十数代もの長い間、この地方きっての旧家として栄えたという。<28>」
 かつての広大な庄屋屋敷の敷地には、篠山権現の伝説にまつわる「戸たてずの楠」と呼ばれる幹回り8m、樹齢は推定700年といわれる楠の大木が2本ある。現在98代目という女主人の話では、今も時おりこの伝承を聞き、そのご利益に預かろうと訪ねてくる人がいて、玄関先に敷居の代わりに削る角材と斧(おの)を用意しているという。また隣の歓喜光寺は、明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)で篠山観世音寺が廃寺となった時、おびただしい寺物が正木地区の人たちによってこの寺の権現堂に移され、さらに観世音寺本尊の遷座によって篠山観世音寺の前札所となったという。この寺の参道口に徳右衛門道標⑩があるが、刻字は風化してほとんど判読できない。ここから篠山へ2里の道程である。
 篠山道は、権現町を出て県道332号を1km余り北上すると篠山登山口のある御在所に至る。篠山橋を渡ると篠山神社二の鳥居があり、すぐ後ろに「従是寺まで五十丁」と刻字された舟形地蔵⑪がある。篠山山頂まで約6kmの道は急な尾根道で、途中1体の地蔵以外、道標らしきものは何もない。消えかけた尾根沿いの遍路道を進み、篠山の8合目(標高790m)に建つ村営の篠山荘に至る。今は篠山の駐車場までの自動車道はよく整備されている。ここから篠山神社や頂上までは約1km、露出した岩盤と擬木の階段状の登山道は急峻な道である。途中、水場近くに遍路墓があり、そこから少し登ったところの広場が観世音寺跡である。ここから山の裏手に回る道もあり、その道は篠山神社から下ってくる裏参道と合流し、槇川に下りる。
 観世音寺は観自在寺の奥の院として古く開創され、神仏習合の篠山権現と観世音寺への参詣は永く続いた。元禄2年(1689年)刊『四国徧礼霊場記』によると、篠山観世音寺と篠山権現について「此山、南は蒼海漫々として天水つらなり、東は高山かさなり、雲常に起り、西は千嶺めぐり、九州目下に見ゆ。坂をのぼる事壱里也。大師のひらき玉ふと也。寺を観世音寺と名く、本尊十一面長五尺。山上は三所権現といふ、熊峰の神にや。わきに池あり、中に矢筈の形なる岩あり、まはりにささ竹繁し。霊異の事をいひ、諸病に用ゆ、皆験ありといふ。別して馬のやむによし。此所札所の数とせずといへども皆往詣する霊境なり。<29>」と記し、「江戸中期の篠山図」を見ると、篠山権現のすぐ下に遍路屋も見え、多くの巡拝者がいたと思われる。しかし、明治初期の神仏分離により廃寺となって以降、寺の建物は篠山神社の社務所や宿泊所となり、昭和40年代まで利用されたが、今はその跡形もない。そのすぐ近くに歴代住職の墓石があり、わずかにその面影を偲(しの)ぶことができる。
 篠山神社三の鳥居をくぐる。108段の石段を登ると篠山神社の社殿が建っている。社の裏側の小高い場所が標高1,065mの篠山の山頂である。『四国遍礼名所図会』には、「雲に御するが如く篠一面にはへ、小さき枯木ばかり也、不思議の山也<30>」と記している。春には、樹齢100年を超すという天然記念物のアケボノツツジが咲く。山頂の広場には、予土国境の領界石(写真1-1-10)が立ち、国境の目安とされた矢筈(やはず)の池がある。領界石の南面に「南伊豫國境」、北面に「北土佐國境」、左面に「紀元2533年 明治6年第10月」とあり、当時の県令などの名前が刻まれている。『愛媛県風土記』には、宇和島・土佐両藩の国境紛争について、「遠く明暦2年(1656年)土佐藩との間に篠山の境界を巡る紛争にまで発展して以来、万治2年(1659年)、幕府の裁定により国境を決定し、同時に篠山権現の神主は土佐側から、観世音寺の別当は伊予側から出し、正木村庄屋を篠山権現の大檀那頭人とすることにより解決を図った。<31>」と記されている。山頂からは眼下に土佐の沖の島や遠くは九州の山並みまで眺望できる。

 イ 篠山から満願寺へ

 『四国遍礼名所図会』に「是より麓迄三十七丁、別れ道五丁目有、寺への道也<32>」と記された場所は、観世音寺跡と反対側の篠山北斜面にあたり、そこに「右本社 左寺道」と刻まれた道標⑫がある。本社とは篠山神社、寺とは観世音寺を指す。この道は篠山への裏参道で、北山麓の津島町の槇川方面から登ってきた人のための道標である。ここから湯屋に下る道は、県境の尾根沿いの道と道標⑫から左に折れ、焼滝から祓川(はらいがわ)沿いに下る道の二つのルートがある。その一つは、県境の尾根沿いを4kmばかり下り、祓川渓谷の金前橋と湯屋に至る道である。以前は尾根沿いに地蔵が点々とあったというが今は4体しか見当たらず、雑草で道を見失うほど荒れている。湯屋は古くは、『伊達家史料御歴代事記』に「槇川村川端に出湯有之<33>」とあり、今でも硫黄の匂う鉱泉が少量だが湧(ゆう)出する。大規模林道篠郷小岩道線を少し下ると湯屋の鉱泉を引いた祓川温泉前に出る。さらに道を下り松田川の右岸に出て西進し、飛び石に板を渡した橋(写真1-1-11)を渡り、下槇(しもまき)で県道御内下畑地線(286号)に合流する道となる。さらに、松田川を渡河し岩陰大師を巡拝して、下槇に出る遍路道もあったと思われる。両者が出会う下槇に、篠山までの里程を示した道標⑬がある。
 県道脇の自然石の道標⑭を過ぎると、右手の山裾(すそ)に少林寺がある。この寺は篠山奥の院飛大師の納経所である。多くの参拝者はここに札を納めた。ここで納札した逆打ちの遍路は、ここから上槇に出て小岩道越えの道を辿(たど)ったと思われる。篠山道は少林寺本堂裏の山に入る。この道が御内(みうち)への山越えの遍路道で途中に自然石の手印道標⑮があり、山頂付近に御槇(みまき)神社が鎮座する。やがて右に御内川を見下ろしながら下る。バイパスとして整備された県道宿毛津島線(4号)を越え、御内地区中心部の町並みを西に出て、旧県道沿いに行くと代官所跡に出る。ここで新旧の県道が合流し、サギ草自生地として有名な源池(げんち)公園に至る。この台地は宿毛市へ東流する松田川と岩松川の支流横吹川の分水嶺にあたる。
 道は源池公園より横吹川に沿って下り、約1km西進すると道ノ川の観音堂に出る。狩場で県道と分かれて山に入り、横吹越えとなる。途中辻堂を過ぎ、猪の谷口で拡幅された県道4号と交わり馬ノ渕へ進む。二百余年前の安永年間(1772年~1781年)に拓(ひら)かれ、大正時代に馬車道に改良された横吹渓谷沿いの県道は馬ノ渕温泉前に出る。温泉の少し手前の横吹川右岸の段丘上に大師堂があり、その前に道標⑯がある。『四国遍礼名所図会』に「身内村より行、谷合イ、仁井木村、地蔵堂此所の茶屋ニて支度仕る、川三べんわたる、さんざい村。是より堤を行、右へ下る。<34>」とある。この馬ノ渕の道標⑯のすぐ下で渡河して、左岸を北上し川沿いの庚申(こうしん)塚に出る。この塚より少し下流で二度目の川を渡り、再び県道4号と重なり北進する。三度目の川を渡るとすぐ右手に上芋地の集会所を兼ねた大師堂があり、清重へと進む。遍路道は、旧山財(さんざい)村清重の兵頭庄屋屋敷の下を通り、熊野神社の参道口を西に進む。この付近で横吹川は御代(みよ)ノ川と合流して岩松川となり、新田集落の颪部(おろしべ)より大きく迂回し西へ流れる。
 颪部集落の人口、酒店前の三差路の植え込みに自然石の道標⑰が据(す)えられている。しかし、その三分の一ほどは埋まっているが、「みぎへんろみち ひだりまんぐわんじ ぜんどうだいし 三めうがう」と判読できる。「船板名号」の版木が、満願寺にあると案内したものである。右手の川を渡って寺ノ下に進めば野井坂、左手は満願寺に向かう遍路道である。篠山を下りて満願寺を参拝しない遍路は、ここで岩松川を渡り報恩寺の寺ノ下を経て山裾(すそ)にあるエンコ淵の延命地蔵前を通って大町へ出る。ここで篠山道は中道と合流し野井坂に至る。岩淵で大きく蛇行した岩松川は深い淵を作りながら岩松へ流れる。

写真1-1-9 愛媛・高知県境の篠山と篠川

写真1-1-9 愛媛・高知県境の篠山と篠川

一本松町権現町。平成13年4月撮影

写真1-1-10 篠山山頂の予土国境領界石

写真1-1-10 篠山山頂の予土国境領界石

平成13年4月撮影

写真1-1-11 松田川に架かる板橋

写真1-1-11 松田川に架かる板橋

津島町下槇。平成13年4月撮影