データベース『えひめの記憶』
伊予の遍路道(平成13年度)
(1)中道①
ア 松尾峠から小岩道へ
江戸時代、国境松尾峠を越える遍路は、大深浦(高知県宿毛市)にあった土佐藩の松尾坂番所で通行手形である切手を役人に渡した。これは土佐の東の入り口、甲浦(かんのうら)番所で与えられたもので、土佐藩内での滞在期間や通過地を改められた後に国境の松尾峠を越えた。遍路の土佐への出入りは、この松尾坂と甲浦以外からは許されなかった。伊予宇和島領に入ると、旧小山村(一本松町小山)に宇和島藩の番所があった。『四国邊路道指南』に、「これ松尾坂峠、土予のさかひ、標石有。其まへ休息しよより、びりやうかしま・おきの島・ひろせしま、漁家多く見ゆ。これより予州。こやま村、番所、切手をあらたむる。<3>」とある。また澄禅が、承応2年(1653年)に出した『四国遍路日記』にも、「伊与ノ国松尾坂ノ下り付二関所在、此坂両国ノ境ナリ。坂ノ下リヨリ西十万石分伊達遠江守殿領分也。故二宇和島ヨリ番所ヲ被置ナリ)。<4>」と記している。旅人や遍路たちは南伊予と土佐幡多郷を結ぶ街道として、標高300mの松尾峠越えの宿毛街道を利用した。
昭和4年(1929年)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松-宿毛間の道路が開通し、人の流れが変わった。現在、この松尾坂越えの山道は「四国のみち<5>」に指定され、自然歩道として整備されている。大深浦から松尾峠まで約2km、高低差270mの上りの道はほとんどが急坂である。峠の東側には昭和初期まであったという2軒の茶屋跡があり、その近くに松尾大師堂跡がある。かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った。
峠を挟(はさ)んだ東側に、土佐藩建立の「従是(これより)東土佐國」、西側に「従是西伊豫國宇和島藩支配地」(写真1-1-1)と刻まれた2基の領界石が立っている。宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687年)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)<6>」と記されている。現在、峠に立っている領界石とは明らかに刻字が異なる。それでは松尾峠に立つ領界石は何時のものか。確証はないが、領界石の「…宇和島藩支配地」の表記から版籍奉還後から廃藩置県に至るまで(明治2年[1869年]~明治4年[1871年])の間に立てられたものではないかと考えられている<7>。
遍路は領界石や眼下に広がる宿毛湾の絶景を見ながら国境の峠を越えた。峠から勾配のゆるやかな道を下ると、そこは一本松町小山である。かつて桜並木の街道であったというが、今はその面影はない。道は途中で県道一本松城辺線(299号)と合流し、やがて小山本村の集落に至る。道の右側に自然石で造った小さなお堂と3基の標石が整然と並んで立っている(写真1-1-3)。標石群の右端には「くわんじざいじへ三り」と刻まれた武田徳右衛門の道標①がある。土地の人の話では、以前は松尾峠の登り口にあったという。中央には「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた領界石と遍路道標を兼ねた道標②があり、さらに左端には道標②とは字体は異なるが、「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた高さ2.7m(9尺)の立派な領界石が並ぶ。
一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。いずれも二つに折れていたものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の遍路道標に併用されている中央の標石であると思われる。この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880年)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利用したものである<8>。さらに天保5年(1834年)の『伊達宗紀公御歴代事記』に、「10月17日、土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石迴着<9>」とあり、榜示立石を船で運んだことや土州方の立会いを打診したことなどが記されている。標石群の左端の標石は、この時建てられたものではないかと考えられている。
この標石群から少し進んだ道の左手に、井戸の遺構が残る慶安3年(1650年)設置の小山番所跡がある。そこから道は峠を越し、一本松町の町並みに入るが、かつての遍路道は、峠を下りたところから県道299号を左にそれて下ったようである。一本松町中心部の町並みを抜けて国道56号を横切り約250m進んだところに、観自在寺までの里程を刻んだ道標③が神社の幟立(のぼりた)てと並んで立っている。そこからしばらく田んぼ道を進み、県道と分かれて右に折れると札掛に出る。
なだらかな準平原状の台地に位置する広見の札掛には、観自在寺の奥の院であった篠山観世音寺の前札所である篠山神社一の鳥居と小さな社(やしろ)(写真1-1-4)がある。ここは中道と篠山道(篠山往還)との分岐点である。遍路は必ずこの札掛を通り、初めての遍路は札所ではないが、必ず篠山(おささ)か土佐の月山(おつき)を参詣するならわしになっていた。おささとおつきの関係をみると、「辺路札打申に月崎を打候へば篠山を不打、篠山を打候へば月崎を打不申候」(『淡輪記』<10>)とあり、またこの篠山については、『四国邊路道指南』に「初遍路ハさヽやまへかへるといひつたふ。(中略)ひろミ村、さヽへかけるときハ荷物をこの所におく。<11>」と記している。篠山権現は、標高1,065mの高所にあり、そこへ至るのは難路であったことから、札掛で篠山権現のお札を置いて遙拝すれば篠山を打つことになるとされるようになった。札掛という地名の由来であるという<12>。土地の人は、「札掛には田中家のようにお札や遍路地図などのお土産を売った家や遍路宿もあり、昔は大変賑(にぎ)わった。お遍路さんのお接待で、地区のお大師講(こう)の者はてんてこ舞いしたと聞いている。今はバス路線(県道299号)からはずれた札掛の前神様は見向きもされない。」と嘆く。
札掛からの遍路道は、惣川が浸食した急傾斜の赤坂の谷を越え上満倉(かみみちくら)に至る。上大道(うわおおどう)のバス停を過ぎ大宮神社や満倉(みちくら)小学校前を少し進むと、右側には観自在寺までの里程を示す徳右衛門道標④と小さな地蔵が並んでいる。ここで道は、西へ下り城辺町太場(だいば)から豊田を経て観自在寺へ至る灘道と、北へ向かって緑の代官所を経て宇和島に通ずる中道の二手に分かれる。江戸後期まで観自在寺への遍路道は、灘道と分岐する峰地(御荘町)まで、この中道を通っていたと思われる。
上大道を過ぎた中道は、城辺町の浄水場を右手に見ながら上満倉の台地を下り、樫床から僧都川を渡る。『旧街道』によると、「旧道(中道)は緑公民館の裏をまわって川(僧都川)を渡り、緑小学校の西校舎と講堂の間を抜けていた。当時は橋もなく、川の中に石を並べた飛び石渡り、大雨が降ると川止めである。<13>」とある。現在の緑小学校の場所が御庄(みしょう)(荘)組代官所の跡地であり、緑は御庄組の交通の要衝でもあった。御庄組とは、宇和島藩が17世紀末期に領内を10組の行政区画に分けたものの一つで、それぞれに郡奉行の管轄下にある代官を置いて各組の庄屋役を統括させた<14>。現在の南宇和郡一円はこの組に属した。中道は智恵光寺前や尾崎庄屋の長屋門前を通って、山裾(すそ)の道を進み左谷(さこく)の鞍部(あんぶ)を越えた。中道を行く遍路は峰地から西へ進み、観自在寺を参拝した後、再びこの地に戻り、改めて中道に入っていた。
中道は峰地からナガウネ坂を上り、クマント山近くの険しい稜線を辿(たど)りながら、標高569.5mの大岩道の峠に向け北上する。明治15年(1882年)の愛媛県行政資料『土木例規』によれば、「南宇和郡僧都村境ヨリ城辺村二至ル字大ガンドウ狭キハ四尺ヨリ広キハ六尺凡平均壱間<15>」とあり、幕府や藩の役人が通った御巡見街道といえども山間部では道幅は狭小であった。現在の大岩道は雑木が生い茂り、昔の街道は消滅している。地元在住の**さん(昭和15年生まれ)は、かつての大岩道について「小学校の遠足でよくこの峠に来ました。当時は道もよく整備され、峠から御荘湾の雄大な眺めを見て感動したものです。」と述懐する。中道は、ここから坂を下り、僧都中(そうずなか)一里塚の二本松に至る。宇和島藩は寛文12年(1672年)に一里塚に松を植えさせている<16>。往時は樹高30mを超え、樹齢300年を超す二本の松が聳(そび)えていたが、昭和62年(1987年)に枯死し、今は二代目の松が2本植えられている。昭和初期に僧都川沿いに道路が完成するまで、最短コースの大岩道越えが唯一の交通路であった。尾根や峠越えの道は、海辺や谷沿いに比べて最短コースがとれ、見通しが利き安全であるなどの理由から早くから開かれていた。
僧都中の柳橋から少し上手で、僧都川を渡河して旧庄屋前を通り、川の左岸の山裾(すそ)を一路標高550mの小岩道の峠を目指して進む。高度230mあたりで僧都川の源流と接し、南面の急斜面を縫いながら進む。峠のすぐ下の道端には、高さ60cmほどの自然石の石塊が約10mごとに3個立てられている。
写真1-1-1 伊予国の領界石 松尾峠。平成13年11月撮影 |
写真1-1-3 一本松町小山の標石群 平成13年10月撮影 |
写真1-1-4 篠山神社一の鳥居と2本の遍路道 一本松町札掛。左は篠山道、右は中道。平成13年10月撮影 |