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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 イチゴ栽培

(1)イチゴ栽培を始めるまで

 ア 農業の面白さにふれる

 「私(Aさん)の家は祖父の代からの農家で、父は宇和島の伊達家事務所で農業技術員をしていました。伊達家は宇和町(現西予市)にも何町歩もの農地を所有しており、昭和22年(1947年)の農地改革で小作人に払い下げられるまでは、毎年、年末に3、4日くらいかけて卯之町(現西予市宇和町卯之町)の松屋旅館で小作人から小作料を集めていたそうです。父は昭和22年に伊達家事務所の農業技術員を辞めて農業に従事するようになりました。
 私は小学校の高等科2年を終えると、北宇和農業学校(現愛媛県立北宇和高等学校)へ進学しました。終戦の年の昭和20年(1945年)、私は農業学校2年生でしたが、このときに私の将来を決定付ける出来事がありました。当時、学校には落ち葉や米糠(ぬか)などの発酵熱を利用した温床があり、そこでサツマイモの苗を栽培していました。そのころ近永(現鬼北町)にはアルコール工場があり、サツマイモを原料としてアルコールを製造していました。当時のサツマイモはそれほど貴重なものだったのです。5月ころに実習でサツマイモの苗を取っていたとき、苗から切り取られた葉が畑に落ちていて、その切り口が盛り上がっているのを見付けました。私は、『ここから根が出るかもしれない』と思い、家でサツマイモの葉を50本くらい土に挿してみることにしました。すると20日目に根が、30日目には芽が出てきて、その後、蔓(つる)が伸びてサツマイモができたのです。秋になり、そのサツマイモと観察日記を持って学校に行き、先生に提出しました。翌日の朝礼で全校生徒の前で、校長先生からすばらしい発見だと褒めていただき、校長賞と副賞として20円をいただきました。当時の20円といえば務田駅から近永駅までの通学定期券の半年分くらいに相当する額でした。そのときの感激が私が農業を志すようになった原点であると思います。」

 イ 孵卵場

 「私(Aさん)は、昭和22年(1947年)に北宇和農業学校を卒業するとすぐにでも農業を始めたかったのですが、父からの勧めもあって松山にあった高等農業講習所(現愛媛県立農業大学校)へ進学しました。
 私が高等農業講習所へ通っていたころ、今の道後の宇和島自動車の辺りに孵(ふ)卵場がありました。私は孵卵場の様子が気になって、寮から銭湯に通う途中によく立ち寄っていたため、孵卵場の経営者の方と親しくなりました。孵卵場の経営者の方は徳島県の出身で、後に宇和島でも孵卵場を経営されるなど景気の良かった時期もありました。ある日、私が孵卵場をのぞいていると、経営者の方から、卒業後、地元に帰って何をするつもりなのか質問され、私が『就農する。』と答えると、『うちの鶏を買うてくれんか。』と頼まれました。」

 ウ 農業に従事する

 「昭和24年(1949年)に高等農業講習所を卒業すると、周りの同級生は普及員になりましたが、私(Aさん)は家に帰って農業を始めました。私は就農してから、養鶏と米、麦、サツマイモの栽培をしていました。その後、採卵を目的として200羽くらいの鶏を飼育していましたが、10年後に種卵に切り替えて3,000羽くらいに増やし、順調に種卵を生産することができました。私が養鶏に取り組んでいたときには、高等農業講習所時代によく通っていた孵卵場と取引を行っていました。そのころには孵卵場は上一万に移っていて、私が農業指導士を務めていたときは、家から孵卵場へ週に1回、1tの卵を運んでいました。その孵卵場が経営をやめたときに、私も養鶏をやめましたが、赤字を出さず終えることができたので、一定の成功を収めることができたと思います。」

(2)イチゴ栽培に取り組む

 ア イチゴ栽培の開始

 「家で飼育していた鶏が3,000羽くらいに増えたころ、家族だけでは鶏の世話をする人手が足りなくなったため、近所の女性を3人か4人雇うことにしました。ところが、鶏が卵を産まない朝の時間には女性たちの仕事がありませんでした。そこで、私(Aさん)は、時間と労働力を有効に使おうと考えて、昭和35年(1960年)ころ、本格的にイチゴの栽培を始めることにしました。私がイチゴの栽培を思いついたきっかけは、昭和32、33年(1957、58年)ころの出来事にありました。その当時、宇和島の丸協市場はお城山の西にありました。当時は、イチゴを入れる容器も今のようなパックではなかったので、へぎ(食物を詰める折り箱)を使って出荷していました。私が『福(ふく)羽(わ)』という品種のイチゴを栽培して、へぎにイチゴを詰めて市場へ出荷してみると1箱が70円で売れました。そのとき私は、『これはおもしろい』と思い、本格的にイチゴを栽培してみたいと思うようになったのです。私がイチゴの栽培を始めた年に、Bさんも同じようにイチゴを作り始めたそうです。」

 イ ハウス栽培の開始

 「イチゴの栽培を始めた最初のころは土耕栽培で、露地に孟宗竹(もうそうちく)でトンネルを作り、その上からビニールを掛けて栽培していました。そのときに私(Aさん)はトンネルを簡単に開閉できる装置をBさんと一緒に考案しました。その開閉装置は葉タバコの育苗をするときに随分使われるようになり、私は喜多郡内子(うちこ)町に招かれて、葉タバコ農家の方々に開閉装置の仕組みを説明したことがありました。
 私はイチゴの栽培が面白くなり、昭和37、38年(1962、63年)ころにパイプハウス(構造材がパイプのビニールハウス)を建てて、本格的にイチゴの栽培に取り組み始めました。それから3年くらい過ぎたころ、後にレッドパールという品種を作ったCさんもイチゴを作ってみたいと言って私たちの仲間に加わりました。どの品種のイチゴを栽培するかBさんと相談していたところ、宇和島にイチゴを栽培している農家があると聞き、Bさんと一緒に行ってみると、山の上の方の畑で『宝交早生(ほうこうわせ)』という品種を栽培していました。私たちはその苗をもらって帰り、本格的に栽培を始めてみると、イチゴの収穫量がどんどん増えていったので、次第にパイプハウスの数を増やしていきました。
 そのころのパイプハウスは、ハウスを換気するための開閉は全て手作業だったため、大変困っていました。そこで、私は身近にある道具を利用してハウスのサイドビニール、カーテンを簡単に開閉できる装置を考案しました。最初は、テニスコートのネットを張るときに使用されているウインチ(ワイヤーロープや鎖を円筒形の巻き胴に巻き取って、重量物を巻き上げたり引き寄せたりする機械)を利用することを思い付きました。1個6,000円くらいのウインチを2個購入してハウスの両サイドに取り付け、くるくると回転させるとパイプハウスのサイド開閉を行うことができる装置を考案しました。しかし、ウインチの購入費用が結構かかるため、もっと安価に開閉装置を作ることができないものかと思案していました。そのようなとき、宇和島の造船所の側(そば)を通っていると、クレーンで大きな鉄板を吊(つ)り上げていました。それを見て私は小学校の授業で習った動滑車(回転の軸心が移動できるように、定滑車に綱で吊るした滑車のことで、加える必要のある力を削減できる)のことを思い出し、その後、鯉のぼりを上げるときに使われている滑車を利用した開閉装置を考案しました。この装置はウインチを利用したものよりもかなり安価に作ることができたため、近所の人や宇和島のイチゴ栽培の仲間も使用するようになりました。それを見た普及所や県の担当者の方々は大変驚いて、私に特許をすぐに取得するように言われたので、Bさんと相談し『三間方式』という名前で特許を取得しました。当時、NHKで放送されていた『明るい農村』というテレビ番組で『むらの発明家』として紹介されると、全国各地から数千人が視察に訪れるなど大変な反響があり、東京のNHKに招かれて、開閉装置の内容を説明したこともありました。私は、みんなが喜ぶことがしたいという気持ちでやっていたので、特許を取得したからといって、その技術を独占するつもりはありませんでした。そこで、この技術を公開して多くの人に使ってもらうため、普及所が全国に向けて発行していた本に開閉装置の作り方を掲載してもらいました。
 県からは、特許技術を無償で公開するとは大変なことだ、よくやってくれた、と言われました。私は、昭和50年(1975年)、48歳のときに大日本農会から緑白綬有功賞を受賞し、受賞式には妻と一緒に参加しました。また、同じ年に県が農業指導士の制度を始めたときには6人が任命されましたが、私はその中で最も若かったことを憶えています。農業指導士に任命されて10年目を迎えたとき、私は農業指導士会の会長を務めていました。そのときに中国から招かれて、北京大学や西安、南部の農業施設などを視察することができました。当時の中国では市場経済を導入する改革・開放政策が打ち出されていました。人民公社を解体して個々の農家を経営単位とし、契約料を超えて生産を上げれば、市場で販売してもよいことになりました。その結果、農民の生産意欲が高まり、1980年代はさまざまな作物で、中国は飛躍的な生産の伸びを示し、『万元戸』と呼ばれる富裕層が増え始めていたのです。私は、今の中国はどのようになっているのかこの目で見たいと思って視察に行きました。経済成長しつつある中国の姿を見て、私は『中国が日本にとって脅威となるかもしれないが、人口が多すぎるので将来どうなるか分からない』と思ったことを憶えています。私は65歳になった年に農業指導士を辞めさせてもらいました。」

 ウ 「るんるんベンチ」の導入

 「私(Aさん)はイチゴ栽培を中心に長い間農業に携わってきましたが、65、66歳ころから腰の痛みがひどくなってきました。それまでの土耕栽培に体力的な限界を感じるようになった私は、好きなイチゴ作りを続けるためには省力栽培が必要だと痛感するようになり、高設栽培の導入を決意しました。当時、全国的に高設栽培の開発がブームとなっていて、さまざまなシステムが開発され、普及が始まっていました。私は、各地の現状を視察しましたが、ほとんどの高設施設は高価で、経営として成り立たせるのは難しく、導入はほど遠いと感じていました。しかし、平成11年(1999年)1月、福山(ふくやま)(広島県福山市)の小野高義氏の『ラクラク高設イチゴ栽培』を協議会(宇和島地区いちご研究連絡協議会)の仲間と見学し、初めて私の思い描く多収穫栽培と同じ草姿(そうし)で栽培されているイチゴに出会いました。また、栽培システムも安価だったので、『これならいける』と直感しました。その後も2月と4月に仲間と訪問し、小野氏やその地域の農家の方々の指導を受け、高設栽培を導入することになりました。
 この福山の『ラクラク高設イチゴ栽培』の原型は、山口の田布施(たぶせ)方式で、山口県の元野菜専門技術員の棟居氏が籾(もみ)殻とトタンを組み合わせた『モミガラ高設システム』を自作しました。これを新聞で知った小野氏が視察に行きましたが、棟居氏本人は故人となっておられたため、小野氏はその地域の営農指導員から要旨を教わり、平波トタンをU字型に改良したのが『ラクラク高設イチゴ栽培』ということでした。これを私たち協議会が教わり、肉付けしたものが『るんるんベンチ栽培』で、協議会の仲間とああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら考案し、それを普及員も手伝ってくれました。平成12年(2000年)、私が所属する協議会の仲間6人と『るんるんベンチ栽培』をスタートさせたときのことですが、私は仲間の一人に、『おーい、お前イチゴ植えどうだった。』と聞くと、『ルンルンよ。初めて楽しいイチゴ植えをした。』と答えたので、『お前もそうか。我が家もルンルンで済んだ。』と話していたことがありました。その会話を隣で聞いていた女性の普及員が、『それじゃあ、るんるん栽培と名付けたら。』と言ったため、その場でこのイチゴ高設システムの名前は決まりました。『るんるんベンチ』は、立ったままでイチゴ苗の植え付けができるため、非常に楽で簡単だったのです。後日、開発者である小野氏にも連絡し、了解を得て、晴れて分家の名前となりました。私は、年が経(た)つほどに、これほどふさわしい名前があるだろうかと思い、当時の普及員の言葉に感謝しています。」

 エ 「るんるんベンチ」の広がり

 「協議会の会員55名中、当初は6名でスタートしましたが、平成19年(2007年)ころには会員のおよそ5割まで広まりました。『るんるんベンチ』でイチゴは年とともに作りやすくなり、病気以外は失敗することなく安定して生産することができていました。腰を曲げずに作業できる軽労働力化によって、80歳を超えるイチゴ栽培者まで現れました。この様子がマスコミで紹介されると、全国各地や韓国からも視察者が訪れるようになりました。また、東日本大震災や関東地方の大雪でビニールハウスの被害を受けた農家の方々からも随分問い合わせがあり、東北地方や関東地方からもたくさんの方が視察に訪れました。今年(令和元年〔2019年〕)の7月にも亘理(わたり)郡(宮城県)の方が視察に訪れました。そのほかにも手紙や電話、メールを数多く受けるようになり、私(Aさん)は『るんるんベンチ』に対する関心の高さとともに、この栽培の素晴らしさを感じました。『るんるんベンチ』は全国的に普及していますが、なかでも佐賀県では平成13年(2001年)に試作導入し、5年を経過したころには県内の高設栽培のおよそ3割を占めるほどまでに広がっていました。日本農業新聞の記事によると、『るんるんベンチ』は、全国で1,000以上も作られているそうですが、県内ではそれほど広がっていません。県の試験場の研究者は、私たちの『るんるんベンチ』よりも先に高設栽培システムを作っていましたが、『るんるんベンチ』はその栽培システムよりも安価で作ることができたこともあって、全国的な広がりを見せていました。それを羨ましいと思ったのかどうかは分かりませんが、和歌山県から県の試験場へイチゴ栽培の視察に来たとき、試験場の方が、『るんるんベンチ』で栽培するとトタン板からイチゴの葉に流れ落ちる水で亜鉛障害が出る恐れがあると説明していたそうです。和歌山県の方は、それまで何年も『るんるんベンチ』でイチゴを栽培して何の問題もなかったので、説明を聞いてとても驚いて私に連絡してきました。その話を聞いた試験場の所長さんからすぐに電話で丁寧な謝罪を受けたのでその件はそれで終わりにしましたが、松山には、試験場の研究員からの説明を信じて『るんるんベンチ』の導入をやめた人もいました。そういうこともあってか、県内では東予や中予地方には『るんるんベンチ』は広がりませんでしたが、宇和島市やこの辺りでは多くの人が『るんるんベンチ』を導入してイチゴの栽培を続けています。今は、全国各地でトタンの代わりにカルバートという傷みにくい素材を使用するようになるなど、年々改良が続けられています。
 『るんるんベンチ』は企業や試験研究機関が開発したものではなく、農家自らが知恵と工夫によって開発研究したものでした。そのため、さらなる進化に限界を感じていたところ、全国各地から研究会を開いて勉強したいという提案がありました。平成16年(2004年)には福岡県大木(おおき)町で、17年(2005年)には宇和島市で、18年(2006年)には佐賀県唐津(からつ)市で、それぞれ地方の官民挙げての協力で『るんるんベンチ』のサミットが開催され、参加者も皆、真剣そのものでした。地元の宇和島市でサミットが開催されたときは大きな結婚式場が会場となっていましたが、全国から400人もの参加者があって大変驚いたことを憶えています。
 これほどまでに『るんるんベンチ』が広まった理由としては、主に二つのことが考えられると思います。一つは施設費が安いことです。農家の方が自家製作した場合、10a当たりおよそ100万円の経費で済むため、ほかの一般的な高設栽培に比べても極めて安価に自作することができます。なかには古材を集めて3年がかりで45aを250万円で作った人もいるほどです。もう一つは1株当たりの培地量が8ℓ以上確保できることです。籾殻培地は腐熟すればするほど緩衝能(環境や肥料の急激な変化に対応できる力のこと)が大きくなり、土耕栽培と同じような管理ができるようになります。いわば土の力を利用して、難しいことを考えなくてもよいのです。私は、『るんるんベンチ』が広がった最大の要因はここにあると思っています。また、太陽熱消毒を簡単に行うことができる点も利点だと思います。夏であればハウスの中の温度が64℃から65℃にまで上昇するので、1日か2日で太陽熱消毒を行うことができ、それによってイチゴやトマトも連作することができるのです。晴天が10日も続けば完全に培地の消毒をすることができます。」

 オ 商標登録をめぐって

 「あるとき、徳島の業者の方から、大阪の肥料会社が自社で製作している高設栽培システムを『るんるんベンチ』という名称で商標登録していることを教えてもらいました。私(Aさん)は心配になって、普及員さんと一緒に県へ相談に行くと、担当の係の方は、『るんるんベンチという名称は15万部も発行されている農業雑誌にも掲載されているのですから、訴訟になったとしても何の心配もいりません。心配なことがあれば何でも言ってください。』と言ってくれました。『現代農業』という雑誌に『るんるんベンチ』が大きく取り上げられてから7、8年くらい経っていましたが、その肥料会社はそれを読んでいなかったのかもしれません。福岡県でサミットが開催されたとき、『るんるんベンチ』の実践事例についての発表者の1人が、ある肥料会社が『るんるんベンチ』を商標登録したために、Aさんは名称を使えなくなって泣いている、と言ったそうです。サミットに出席していた肥料会社の代理店の方がその話を聞いていたそうで、その後、肥料会社から私に連絡が入りました。先方からは、商標登録するために25万円ほど経費がかかっているので、その金額を払ってもらえれば権利を譲るという申し出がありましたが、私は、普及員さんとも相談して、『私たちはこれで少しも儲(もう)けていないのだから、お金を支払うことはできません。』と伝えました。その後、先方から無償で商標登録を譲渡するとの申し出があり、サミットのときに参加者全員の前で『るんるんベンチ』の商標登録の譲渡式が行われました。その商標登録は現在も宇和島の普及所が保管してくれています。なお、『るんるんベンチ』は平成24年(2012年)に特許登録されています。」

 カ 挿し芽育苗法

 「私(Aさん)は、イチゴの苗の根元を固定するためのランナー(親株から横に長く伸び出し、先端には子株を付ける茎)押さえが麦藁(わら)だったころに、挿し芽育苗法を考案しました。麦藁では押さえる力が弱かったため、鉄筋の結束線を利用するようになり、土耕栽培から高設栽培に移行したことで、挿し芽苗が簡単に取れるようになりました。
 私たちのやり方は、まず、ランナーを長いまま切って水を張ったバケツに放り込みます。それをポットに挿す前に、7cmから10cmほどに短く切り直します。生け花では水の中で切ると水の吸い上げが良いとされ、そこからヒントを得ました。次に、ランナーをくるっと丸めて土の中に挿し込みます。ランナーの吸水力は大したもので切り口から水を吸いますし、いずれはそこから根っこが出てきます。次に、苗の根元は結束線で固定します。こうすると苗が完全に立って動かず、また、ランナーの口から吸水するため、萎(しお)れ防止に役立ちます。以前は炭疽(そ)病の発生に悩まされる人もいましたが、この方法によって抑えることができるようになりました。
 私は、これまで新しい発見だと思ったものは全て公開してきたので、平成25年(2013年)にこの方法を『現代農業』に発表しました。イチゴを研究している先生は、葉から根が出るということを日本で初めて発見した、と大変驚いていました。私にしてみれば、農業学校時代に発見した、サツマイモの葉から根が出るのと同じことでした。この方法も簡単に誰でもできるものなので随分広がっています。」

 キ 広がり続ける「るんるんベンチ」

 「平成14年(2002年)に、茨城県でトマトとイチゴを栽培している農業法人の方が見学に訪れたことがありました。高設栽培でも、籾殻をふんだんに利用して土耕に近い条件で栽培できる点に関心を持たれ、『るんるんベンチ』を導入されました。その方は元々トマト農家で、最初は『るんるんベンチ』でトマトも栽培できないか試してみましたが、大玉品種だと時期によって糖度にバラつきが出ることが問題だったそうです。そこで、ミニトマトに切り替えてみると、質の良いものが収穫できるようになり、全て自社の直売所で販売して評判も良いそうです。また、規格外や割れたものは自社の加工所でジュースにしていて、茨城県の農産物加工コンクールで最優秀賞とグッドデザイン賞を受賞されたそうです。私(Aさん)自身は高齢になったこともあって、今年でイチゴ栽培をやめることにしましたが、『るんるんベンチ』はたくさんの方々に使用されるなかで、改良や工夫が続けられ、今も広がり続けています。」