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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 米作りとともに

 (1) 養蚕の記憶

ア 大切にされていた蚕

 「私(Bさん)が子どものころには、牛や蚕がとても大事にされていたと思います。昔は蚕を家の中で飼っていたので、蚕と一緒に住んでいるようで、養蚕の仕事に従事していた母たちは、『お蚕さま』と言っていました。蚕から繭になるころは、家の中でも蚕が中心となり、人間は端の方に追いやられて、座敷でさえも食事をする所以外はお蚕さまの部屋になっていたことを憶えています。」

イ 桑の葉を摘む

 「この辺りでは、年に3回蚕を飼っていました。5月のころが『春蚕』、7月のころが『土用蚕』と言いますが、土用蚕の量自体はそれほど多くありませんでした。さらに寒くなったころに晩秋蚕となりますが、このときには蚕のために部屋を暖めていました。もっと多く、効率良く蚕を育てることができれば良いのですが、一旦桑の木を伐(き)ってしまうので、桑の葉が間に合いませんでした。春蚕、土用蚕で桑の葉を採り、晩秋蚕で全ての葉を採ってしまうと、桑切鎌で根元から伐ります。すると、そこから新しい芽が出て大きくなり、それが春蚕に与える葉になっていました。伐った桑の木は、枝を鎌で切って束ねて薪(まき)として使います。私(Cさん)の家には囲炉裏があったので、囲炉裏に火を入れるときは、最初に桑の枝を燃やしていたことを憶えています。
 桑の葉を採りに行くときには、大きな桑籠を担いで桑畑まで行っていました。私の家の桑畑は1反(約10a)くらいの広さで、小高い山の中腹から下の方にあり、車で入れるような場所ではありませんでした。桑畑に着くと、指に金具を付けて、桑の葉を弾(はじ)くようにねじって採っていました。桑籠が桑の葉で一杯になると、その桑籠を農道まで出して、リヤカーに積んで家まで持って帰ることもありましたが、ほとんどは天秤棒で担いで帰っていました。私が養蚕をやめる昭和50年(1975年)ころには、テーラーを購入して桑籠を運んだことを憶えています。」

ウ 蚕を育てる

 「1軒当たりどれだけの量の繭ができるのかという単位があり、蚕の卵の目方(g数)で分かっていました。私(Cさん)が養蚕をしていたときは大体40gでしたが、その数字だけで、どれだけの量の繭ができるのかが分かるのです。子どものころ、大人たちが『あそこの家は20g、あちらの家は今年40gになったぞ。』などと話していましたが、私は何のことか理解できず、『うんうん。』と分かったように聞いていたことを憶えています。
 蚕は卵から孵(かえ)って成長すると、5回脱皮しますが、1cmくらいの大きさになる1眠(1回目の脱皮)が終わるまでは、川之石(現八幡浜(やわたはま)市)にある蚕種工場で育てていました。そこからは、それぞれの家で飼うことになるのですが、2眠までは桑切り包丁で桑の葉を小さく刻んで、蚕に食べさせていました。その際、桑の葉は若葉で、できるだけ柔らかい葉を選んでいました。蚕が桑の葉を食べるときには、『シャワシャワ』と音がして、5眠のころになると隣の部屋で寝ていても聞こえるほどの、とても大きな音だったことを憶えています。
 2眠を過ぎると普通の桑を与えます。蚕は丸い蚕盆に入れて、蚕棚に置きました。私が子どものころ、蚕棚から蚕盆を取り出す作業を、両親、祖父、姉、私と家族総出で行っていたことを憶えています。蚕盆に蚕の糞が溜まってくると、その上に桑の葉を載せた網を置きます。すると、蚕は上にある桑の葉を食べようとして下の蚕盆から網に上がるので、網に上がった蚕を別の蚕盆に移していました。この作業を『お尻替え』と言っていて、2、3日に1回繰り返していました。蚕の糞は集められて、田んぼや山へ持って行き、肥料として使っていました。
 蚕がだんだんと大きくなり、5眠を過ぎると、やがて桑の葉を食べなくなります。すると『もう食べなくなったぞ。』と言って、手で1匹ずつ取り出して繭にするための蔟(まぶし)に移しました。当初はアコーディオンのような形をした藁蔟を使っていましたが、途中から回転蔟が使われるようになりました。回転蔟は手で1匹ずつ取る必要がないのでとても便利でした。繭になるための巣が碁盤の目のようにきれいに区画されていて、蚕の重みで回転するので、放っておいても蚕が満遍なく巣に入るのです。さらに回転蔟であれば、繭を取り出すときにも押し寿司のように押し出すと、きれいに取り出せました。『これは便利だなあ。』と思いながら回転蔟を使い始めたのが、養蚕をやめる10年ほど前の、昭和40年(1965年)ころのことだったと思います。」

エ 出荷

 「繭を取り出すと、クルクルとハンドルを回すと毛羽が絡みついて取れるような機械を使って、夜なべで毛羽取りの作業を行いました。各養蚕農家には、『何月何日に集めます。』と連絡が入るので、その日に地区の集会所へ自分の作った繭を持ち寄って選別を行っていました。選別台に山のように繭を積んで、質の悪い繭があれば、それを取り除いていました。選別後、重さを量り、20kgから30kgくらい入る大きな袋に入れて出荷となりますが、私(Cさん)が養蚕をしていたときには、小松(現鬼北(きほく)町)の北宇和蚕糸の工場に出荷していたことを憶えています。昭和40年代には、買い取り価格が良かったので、当時としては珍しいと思いますが、年に一度は養蚕組合の仲間20名ほどで、宇和島から別府(べっぷ)(大分県)へ渡る1泊旅行へ行っていたことが思い出されます。」

オ 条桑育

 「養蚕をやめるまでの最後の5年ほどは、蚕を飼うための倉庫を建てて、条桑育で蚕を育てていました。これは、蚕盆で蚕を飼うのではなく、大きな平たい棚の上で直(じか)に蚕を飼う方法でした。桑の葉も1枚1枚の葉を与えるのではなく、葉が付いたままの枝ごと与えます。棚の上に新しい枝を置くと、蚕が上へと上がるので下の古い枝をそのまま置いておけばよく、お尻替えの必要がなかったので、『これは便利になったなあ』と思ったことを私(Cさん)は憶えています。
 繭が良くできて売り上げが良かった年は、組合から絹の反物をもらうことがありました。組合には出資金を出していたので、株の配当金のようなものだったと思います。今はほとんど着ることがありませんが、もらった絹の反物で拵(こしら)えた和服を、私も一つ持っています。」

 (2) タケノコの栽培

ア タケノコ栽培の始まり

 「私(Bさん)の家の裏には竹林があり、母がタケノコの栽培をしていたので、私も子どものころにはタケノコを掘る作業を手伝っていました(写真2-1-6参照)。タケノコ栽培は、米以外の収入源として養蚕とともに行っていたようです。県外で就職した私は、転勤でこちらに帰って来てから会社勤めと並行してタケノコの栽培を始めました。」

イ 会社勤め

 (ア) 井関農機

 「私(Bさん)は昭和37年(1962年)、東京で井関農機に入社し、農機具の販売を行いました。4、5年後に松山(まつやま)へ転勤し、その後は松山を拠点としていましたが、販売の現地指導のため、その後も何度か転勤がありました。
 私が入社した当初は、耕耘機が主力製品でしたが、田植え機や稲の収穫から結束まで行うバインダー、脱穀まで行うコンバインと、次々と新しい農機具が発売されました。新しい農機具を販売するときには農家の方に実際に見てもらうのが一番なので、実演販売を行っていました。松山は中四国の拠点であったため、松山にいたときは広島など中国地方へも実演販売に行っていたことを憶えています。
 松山に転勤したころ、井関はエンジンメーカーと提携して、オートバイも製造していました。私もエンジンメーカーに3か月間ほど研修に行き、農機具と兼任してオートバイの販売も行っていました。そのころ、オートバイの宣伝と耐久試験を兼ねて、大学生が4日間かけて井関のオートバイで四国一周をすることになり、私もそれに同行したことを憶えています。オートバイの製造からは、その後、4、5年で撤退しました。
 田植え機の販売のために、芸能人をイメージキャラクターとして起用していたので、私もCMの撮影現場に立ち会ったことがあります。失礼な話になってしまうかもしれませんが、芸能人を見て、『テレビとはイメージが違うな』と思ったことを憶えています。」

 (イ) タケノコの栽培を始める

 「井関で働いていた最後のころ、私(Bさん)は三間に帰っていて、家の竹林でタケノコの栽培を始めていました。その後、家庭の事情で20年ほど勤めた井関を退職し、地元の大手スーパーに転職して、そちらで定年まで20年近く働きました。定年退職してからは、タケノコの栽培を専門的に行っています。大手スーパーに勤務していたころには、時間に余裕ができて、タケノコの栽培に時間を使いやすくなったことを憶えています。」

ウ タケノコの栽培

 (ア) 早掘りタケノコ

 「年によって価格は異なりますが、タケノコの早掘りを行うと価格が高くなります。私(Bさん)たちは大体2月初旬から出荷していますが、松山の辺りでは3月下旬くらいに初物が出てきます。しかしそのころ、こちらでは出荷の最盛期を迎え、市場への供給量も増えているので、松山の初物の価格は伸びず、早い時期に出荷する私たちの初物の方が高く取引されるのです。」

 (イ) 親竹の更新

 「私(Bさん)は、早掘りをするためには日光が大切だと思います。日光をよく受けるためには親竹を少なくして、竹と竹との間隔を一定程度あけておく必要があります。そのため、大切なのは竹林の管理で、親竹を伐る時期を考えなければなりません。昔は、5年から8年くらいは親竹をそのまま置いていました。しかし最近では、5年から6年で更新していて、できるだけ更新を早くしています。
 タケノコは親竹の地下茎から出てきますが、1年目は出ず、2年目から出てきます。3年目から4年目がピークとなり、6年目以降はあまり出なくなってきます。このため、親竹が何年目なのかということをしっかりと確認しなければならないことから、親竹に出てきた年を書き入れて管理をしています(写真2-1-8参照)。最初のころは親竹にも皮が付いていたり、色が青かったりするので見分けがつきますが、3年目以降は数字を書いていないと見分けがつかなくなってしまいます。
 親竹を伐るタイミングも考えなければなりません。竹は伐られると子孫を残そうとしてどんどんタケノコを生やしますが、翌年にはもう生えなくなります。あるとき、『今年はタケノコがたくさん採れた。』という人がいたので話を聞いてみると、たまたま放置竹林を伐ったためでした。このように、適当に伐ったのではいけないのです。また、早くタケノコが出る親竹と遅く出る親竹があるので、その違いを考えて伐ることで、2月初旬から4月下旬までタケノコを掘り出すことができるようにしています。こうした竹林の管理がしっかりできないと、タケノコの早掘りはできません。三間では30人くらいの方がタケノコを作っていますが、早掘りをしている方は5、6人ほどです。」

 (ウ) 肥料とウラドメ

 「私(Bさん)は1月ころから、竹林の落ち葉を集めて地表をきれいにしておきます。地表は赤土が見える状態になっているので、タケノコが出始めると地面にひびが入ってすぐに分かるという利点があります。そして、タケノコを掘り出した後に、集めておいた落ち葉を有機質の肥料として穴に入れて埋めることで土地が肥えるのです。穴が多い竹林は、掘った後に管理されていない竹林とも言えます。人によっては、『地表の落ち葉は集めないほうが良い』という意見もあります。これは、地表の落ち葉で地面を保温した方が、タケノコが早く出てくるということを示していて、どちらの考え方が正しいのか、正直なところ分からずにいます。
 また、竹はウラドメをしないと、台風で折れてしまうことがあります。竹はししなるといっても、強風に耐えられないことがあるのです。そうならないために、タケノコが地面から生えてきて、枝が3本から4本くらい出たころに揺さぶってやると、芯が折れてよくしなるようになるのです。これを『ウラドメ』、もしくは『芯を落とす』と言います。」

  (エ) 乾タケノコ

 「愛媛県森林組合連合会では、放置竹林の有効活用や農家の所得向上などを目的に、メンマの原料となる乾タケノコ作りに取り組んでいます。三間では4年ほど前から乾タケノコ作りに取り組んでいますが、西予(せいよ)市では今年(令和元年〔2019年〕)から生食用や加工タケノコ、乾タケノコ作りに取り組み始めたそうで、西予市役所の方が視察に来られました。メンマの原料として乾タケノコを作るために、何cmの長さに切る、などの規格が定められているので、少し手間が掛かってしまうのが課題であると、私(Bさん)は思います。」

 (オ) 良いタケノコを作るために

 「タケノコ作りに関して、愛媛県林業政策課の方に指導していただいており、こちらにも講習に来てもらっています。先日も放置竹林と管理された竹林の違いに関する講習が行われました。私(Bさん)も資料をたくさんもらって勉強を続けているところです。しかし、何でもそうですが、タケノコの栽培も慣れてくると自己流になってしまいます。そうならないように、また、良いタケノコを作るためには、理論を学ぶことが何よりも大切だと思い、頑張っています。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 三間町『三間町誌』1994
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『鬼北盆地の風土と人々のくらし』1999
・ 西予市蚕糸業振興協議会『蚕糸マニュアル』2017

写真2-1-6 自宅裏の竹林

写真2-1-6 自宅裏の竹林

令和元年9月撮影

写真2-1-8 数字を記入した親竹

写真2-1-8 数字を記入した親竹

令和元年9月撮影