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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) くらしの中の景観

ア 曽我山から見た景色

 「昭和35年(1960年)から昭和40年(1965年)ころといえば、私(Jさん)には曽我山や、そこからの景色のことがまず思い出されます。
 曽我山は、曽我さんという方から山を譲り受けた宮野下町が、公園として整備していました。整備に際しては、山の上に休憩所が建てられ、遊歩道が造られて、それに沿ってサクラの木が植えられました。整備された当時はとてもきれいな公園だったことを憶えています。公園を造るときには、宮野下の住民の多くが整備作業を手伝っていました。当時は使える重機が十分にあるわけではなく、遊歩道を整備する作業などでも、手伝う人たちはそれぞれが鍬(くわ)を持って人力で作業に当たっていました。
 このころには多くの田んぼに菜種が植えられていたので、花が咲く春先に曽我公園から三間の町並みを見下ろすと、水田地帯の一面が真っ黄色に染まっていて、とてもきれいでした。当時は菜種油を採取し、その後は生えている菜種を燃やしてそのまま肥料として使用していたので、稲作の時期が今よりも遅く、稲刈りが11月ころになることがあり、収穫を祝う秋祭りが11月23日に開催されたこともありました。今は秋祭りが本来の10月23日に戻されて実施されているので、1か月以上農作業の時期が早まっている、と言えます。昭和30年代には田植えも稲刈りも人力で行われていましたが、その後徐々に田植え機や稲刈り機などが導入され、作業を早く終えることができるようになっていったことを憶えています。」

イ 納涼大会を楽しむ人々

 「私(Bさん)が役場での勤務で一番心に残っている仕事は、公民館担当として携わった納涼大会の仕事です。この納涼大会は、とても賑やかで、現在でも行われている行事の一つです。当初は恵美須座前や御旅所で盆踊り大会が開催されていましたが、参加者が増えて規模が大きくなってきたことで、中学校で開催することとなりました。規模が大きな行事を企画、運営していくために、日吉(ひよし)村(現鬼北町)や松野町などの近隣町村をはじめ、いろいろな場所へ出掛けて担当者に会い、調査や聞き取り、行事の見学などを行ったことを憶えています。
 納涼大会では、全員踊りや炭坑節、鳴子踊り、子ども踊りもあり、保育園児などの小さい子どもも参加していました。さらに楽器演奏を趣味とする仲間で組んだバンドによる演奏も行われていました。バンドの名称はBLUE CASTLE(ブルー・キャッスル)で、最初はギタークラブに始まり、徐々に仲間が増えていきました。私はボンゴを担当していて、納涼大会では三間町音頭を演奏し、バンドの生演奏で参加者が盆踊りを楽しんでいました。生演奏で盆踊りを実施する形態はめったにないと思いますし、当時としても新しい試みとして取り組むことができたのではないかと考えています。バンドの生演奏は企画の段階から提案され、実施する方向で準備をしていたので、納涼大会での演奏に向けて十分に練習を行わなければなりませんでしたが、実際はそのための時間を取ることができませんでした。ただ、納涼大会の開催中ずっと演奏するのではなく、休憩も兼ねてレコードで音楽を流す時間を設けていたので、何とか役割を果たすことができていました。
 思い出深い仕事として心に残っている一方、その準備の大変さ、慌ただしさもよく憶えています。特に第1回の開催までは大変で、開催日当日まで大変な思いをしていました。また、あるときには、納涼大会で花火の打ち上げを計画しましたが、予算がどうしても足りない状況になってしまい、花火を上げたい一心で、資金の工面のために町中を走り回りました。『何とか実施したい。』と町の建設業協会にお願いをし、建設業協会の提供であることや、個々の企業名を宣伝することにして、花火を打ち上げるための費用を出していただいたことで何とか予算不足を解決し、無事に花火を打ち上げることができたのです。納涼大会で花火が打ち上がったことで、参加していた町民の皆さんは驚いていましたが、とても喜んでくれていたことを憶えています。視察に行った日吉や松野では花火が打ち上げられていませんでした。三間町で行事を行う際に、三間の独自性を打ち出し、町民が喜ぶことを行うということを第一に考えて実行したのです。
 私自身が担当した仕事で、町民の皆さんに喜んでいただけるととてもうれしいですし、仕事に対するやりがいにもつながっていたと思います。最初は、町民の皆さんが参加してくれるかどうかということから心配をしていました。しかし、実際に納涼大会が始まってみると、会場となったグラウンドに大勢の方が来て参加してくれました。会場となった中学校のグラウンドには櫓(やぐら)が建てられ、盆踊りを行うことができるようになっていて、演奏を担当するブルー・キャッスルは大型のトラックを借りてきて、その荷台をステージにして演奏を行っていました。ステージとなったトラックの荷台から演奏しながら参加している皆さんの様子を見ると、とても喜んでいて、納涼大会を楽しんでいるように見えたことが強く印象に残っています。」

ウ 豊かな自然にくらす

 (ア) ウナギが棲む川

 近くの川に天然のウナギが生息していたころの様子について、次の方々が話してくれた。
 「昭和30年代、町内の川にはウナギがたくさんいました。ウナギを獲(と)るには夕暮れ以降に『地獄』と呼ばれる、ウナギが一度入ると出られなくなるような構造になっている仕掛けを川の中に沈めておきます。この仕掛けを一晩置いて、翌早朝に上げてみるとウナギが入っているのです。朝、『地獄』を引き上げてウナギが入っていると、とてもうれしかったことを私(Hさん)はよく憶えています。昔は本当に多くのウナギがいたと思います。夏ごろになると、川にはもちろん、田んぼの畔(あぜ)でも獲ることができるほどでした。」
 「私(Gさん)たちが子どものころには、暗い中、川でウナギを獲るときにはカーバイドランプが使われていたことを憶えています。また、ウナギは上流を目指して川を上ってくるので、この辺りであれば最終地点は池になります。何年かに一度、池の修繕を兼ねて魚獲りを行うのですが、当時は箸くらいの大きさのイトウナギが大量にいて、恐らく四万十川から遡って来ていたのではないかと思います。」
 「それだけ多くのウナギがいたということは、川に堰(せき)がなかったから、ということが言えるのではないかと思います。しかし、堰がなかったころには、私(Lさん)は4回の水害を経験しています。私の自宅近くには、かつての軽便鉄道の短い鉄橋だった所があり、ここは普段より雨が多く降るようなことがあると、上流から流れてきた木などが川幅の狭い鉄橋部分で引っ掛かり、ダムのように水を堰(せ)き止めてしまい、水害が発生していました。その後、川幅が広げられる工事が行われてからは、被害自体は減っていますが、水害後にその対策として河川改修の事業が行われ、自然の川に人工の手が加えられるたびに、三間まで川を上がってくることができるウナギの数が減ってきたのではないかと思います。最近では三間までウナギが上がってくることはほとんどないのではないかと思います。」

 (イ) 川や池で泳ぐ

 かつて、子どもたちが川や池で遊泳していたときの思い出について、次の方々が話してくれた。
 「当時はプールがなかったので、夏になると川や池で泳いでいました。どの子どもも、泳ぐ場所は決めていたようですが、泳ぎが上手になってくると友達と、『違う所へ行ってみるか。』という話になることもありました。町の子どもたちは、兼光橋の所で泳いでいたことを私(Gさん)は憶えています(図表1-1-2参照)。」
 「三間町には池が多くあるので、私(Hさん)は各地域で泳ぐ場所が決まっていたと思います。ただ、池は擂(す)り鉢状になっているので、とても危険であることは誰もが知っていました。擂り鉢状の池では、『一旦足を滑らせたりすると、どんどんと深みにはまっていく。』と言われているので、泳ぐときにも細心の注意を払っておかなければなりませんでした。当時、池に子どもだけで泳ぎに行くと、必ず上級生が見張り役を行ってくれました。子どもの世界にも上下関係があり、それに伴う役割分担がしっかりとできていたということでしょう。」
 「見張り役になった上級生は、下級生の泳力や体力から、『お前はここまで。』とか、『お前はそこに行ったらいかん。』というように、泳ぎに行った池でそれぞれが泳ぐことができる範囲を決めていたことを私(Fさん)は憶えています。」
 「私(Mさん)たちが小学生、中学生のころは、学校にはプールがなかったので、小学校6年生ころから夏休みになると学校の許可を得て天神池(木綿越池)で泳いでいました。許可を得るためには水泳の試験に合格しなければならず、合格したのは2人だったと思います。許可がもらえなかった小学生は、兼光橋の所の川を堰き止めた、いわゆる『兼光プール』で泳がなければなりませんでした。『兼光プール』は子どもの腰くらいの深さで、川底には石がたくさんあって、足の裏がゴロゴロした感覚だったことを憶えています。」
 「私(Kさん)たちが子どものころにはプールがなく、夏になると子どもたちは川や池で泳いでいたため、水の事故が起こることがありました。私には、夏休みというと水の事故で犠牲となった友達のお葬式に参列して、弔辞を述べるという印象が強く残っています。特に池で泳いでいて事故が発生することが多かったことが忘れられません。池の事故の主な原因は、底がズルズルと滑りやすい状態になっていて、足元が不安定になっていたことだと思います。事故が発生したときには、一緒に遊んでいた子ども全員が駐在所に呼ばれて、警察の方から事情を聞かれていましたが、聞かれることはもちろん、その様子を話すこともつらかったことをよく憶えています。
 私や私の友達は、このつらい経験から泳ぎに行くことを避けるようになりましたが、製材所を営んでいた私の父が子供会の組織をつくり、その世話役をしていたときには、子どもたちに薪(まき)を運んでもらい、お小遣いとして水着などの必要なものを購入する際の足しとなる額を渡し、後日、その子どもたちを連れて白浦(現宇和島市吉田町)へ海水浴に行っていました。子供会ができてからは、子どもの日といえば、地域の大人同士が協力をして車を出してくれて、吉野(現松野町)の川へ魚釣りに行って河原で釣った魚を調理して食べたり、夏には成川(成川渓谷、現鬼北町)や白浦へ行って泳いだりと、子供会での活動を通していろいろなことを体験させてもらったことが思い出として残っています。」

 (2) 宮野下のくらし

ア 子どもの世界

 (ア) 忘れられない「シブクサ」の味

 「昭和30年(1955年)というと、私(Iさん)は10歳で小学生でした。当時の遊びで心に残っているのは、孟宗竹(もうそうちく)を伐って自分たちでキンマを作り、三嶋様(三嶋神社)の坂が急になっている所から滑り下りるという遊びです。また、稲刈りを終えた田んぼでは、同じく孟宗竹を伐って鎌などを使って先を尖(とが)らせ、それを土に突き刺して陣地を広げていくネンガリという遊びをしていました。私の育った地域では、同級生に近い年代の子どもが多かったので、目上の人たちと遊んだという記憶はあまりありません。当時は、男の子が集まるとチャンバラごっこをして遊ぶことが多く、冬になって雪が降ると、忠臣蔵を題材にしてチャンバラのストーリーが組み立てられていました。子どもが集まって遊ぶときには私が中心となっていたので、主人公の大石内蔵助は私の役回りだったことを憶えています。夏には天神池へ泳ぎに行き、その帰りには、お小遣いを少し持っていれば貸本屋さんへ行って本を借りて帰ることが楽しみでした。
 友だちと遊んでいるときには、道端に生えているシブクサ(ギシギシ)を採っては食べていました。シブクサは、生長途上のまだ丈が短いものがおいしいと言われていて、当時は道路がまだ未整備で土のままの所が多く、道の両端にたくさん生えていました。食べてみると、少し甘みがあったイタンポ(イタドリ)とは違って、とても渋い味がする草でしたが、それでもおいしいと思っていたことを憶えています。大人になって、ゴルフ場へ行く機会がありますが、コースを歩いているとたまにシブクサを見掛けることがあります。私が、『なつかしいのう。』と言って、ゴルフ場に生えているシブクサを食べると、宇和島(市内)の人たちは、『何、それ。食べられるの。』と言って驚いているようでした。私はそのとき、『私らにとっては、こんまい(小さい)ときのごちそうよ。』と返すことがあったくらいです。
 食事に出される御飯は、麦が3割、米が7割で炊かれていました。農家が田植えを終えた後の田休みに、米だけで炊かれると『ちんちまんま』と言われ、御飯を食べるのに米の甘みだけでおかずが必要なかったくらいでした。また、秋のお祭りになると巻き寿司を、亥の子のときには亥の子宿でばら寿司が作られることもあったと思います。また、昭和30年(1955年)以降、私が小学校5年生か6年生になったころに学校給食が始まったと思います。脱脂粉乳などが出されていましたが、給食を食べたときには、『おいしいなあ』と思っていたことを憶えています。
 地域の子どもが遊ぶときには、学年は関係なく、年下の子どもたちも連れて一緒に遊んでいました。その中でリーダーが決められるなど、子どもの世界の秩序が生まれ、それが上手に保たれていたと思います。小学生の間は毎日一緒にいた、と言えるほどで、子どもの世界のルールをそこで学び取ることができていたのだと思います。」

 (イ) 屋根の上

 「私(Mさん)たちが小学生のころには、よくかくれんぼをして遊んでいました。他人の家の屋根に勝手に上がって隠れていたり、鬼に見付かれば走って屋根から屋根へ飛び移ったりしていたので、家の方にはよく怒られていたことを憶えています。私は1、2歳年上の方とよく遊んでいて、遊ぶことには事欠くことがありませんでした。
 竹馬もその一つで、必要な竹は自分たちで伐りに行き、蒲(かま)鉾(ぼこ)の板や荒縄を使って上手に作ることができていました。高さが1.5m以上もある、ものすごく高い竹馬を作ったときには、自宅の低い屋根の上から乗ったことがあったほどです。また、中学校の運動会では竹馬の種目があり、高さが50cmほどしかない竹馬を使っていたので、竹馬に慣れていた私はスタートから誰も追い付くことができない速さで走っていましたが、ゴールの直前に落馬した、というほろ苦い記憶があります。」

イ 大切な井戸

 「昭和30年代の末になると簡易水道が設置されました。当時、水源地は4か所か5か所あったと思います。音地の方は水が豊富であったので、そこへ水源地を造って二名地区へ送水していて、宮野下町へは、迫目地区の現在クリ畑になっている所の上に水源地を造って送水していました。また、曽我公園の上にも水源地がありましたが、この水は、川の中へ突き井戸をして、地下の貯水タンクに溜(た)められた水をポンプで曽我公園の水源地まで汲(く)み上げて、そこから配水されるようになっていました。簡易水道が整備されるまでは、ほとんどの家庭で井戸水が使われていて、今でも三間には井戸が多く残っています。井戸には質の良い所とそうでない所とがあり、質の良くない所では、いくら井戸を掘っても鉄分の多い水しか得ることができないようなことがありました。幸い、私(Jさん)の家で使っていた井戸からは質の良い水が出ていて、その井戸にはどんどん水が溜まっていたので、30軒くらいの家庭に配水されていましたが、その水が枯れてしまうということはありませんでした。ただ、河川の改修が行われたときに井戸の水量が減ってしまったので、数十m離れた場所に井戸を掘り替えました。新しく掘った井戸の水は、以前から使っていた井戸と変わらず良質で水脈も良好だったのでしょう、水量も豊富で申し分ありませんでした。
 平成30年(2018年)の西日本豪雨では、南予地方が大きな被害を受けましたが、このときには、断水が発生している地域の方が、私の家の井戸に水を汲みに来ることがありました。私は被害を受けた方たちの生活の復旧に、自分にできることで少しでも役立ちたいと思い、『遠慮せずに使いなさいよ。』と声を掛けていました。」

ウ 共同風呂とえびす湯

 当時の風呂や銭湯について、次の方々が話してくれた。
 「生活用水は、各家庭に掘られた井戸か共同井戸から得ていたことを私(Dさん)は憶えています。また、共同井戸の近くには、共同風呂という、誰でも入浴することができる風呂が設置されている所もありました。共同風呂の湯沸かし等の世話は当番制で決まっていましたが、当時は他の農家に負担をかけないようにするためか、共同風呂が設置されている場所に一番近い農家の方が主にお世話をしてくれていたように思います。」
 「風呂を沸かすための薪は、地域の人々が協力して取りに行っていたことを私(Gさん)は憶えています。必要な薪を宮野下の山だけでは十分に間に合わせることができなかったので、黒井地や是能などの山を共同で購入し、抽選で与えられた区画から薪を調達してきていました。薪を調達するために山へ行くのは、米が終わってからの冬の仕事で、冬に薪を取っておき、春先には薪割りの作業を行っていたことを憶えています。」
 「私(Lさん)の家では、昭和29年(1954年)に共同風呂の利用方法を男女別と改めて、規模を拡大した上で銭湯(えびす湯、通称は清家湯)として経営を始めました。銭湯に使う水は井戸水だったので豊富にあり、その水を沸かすには薪を使っていましたが、銭湯のすぐ横に私の家が経営する製材所があり、そこには材木の切れ端や大鋸屑(おがくず)など、燃料として再利用できるものが豊富にあったので、それを使用していました。
 昭和30年代に入ると、入浴客が増加して銭湯の経営は順調だったようで、入浴客があまりにも多いときには一度に収容しきれず、順番待ちまで発生していたほどでした。ただ、30年代後半から40年代にかけてのころには、各家庭に風呂が設置されるようになってきていたので、えびす湯の入浴客が減少し、経営が成り立たなくなってきていたようです。この仕事は一度利用客が減り始めると、電気湯の新設など、設備投資を行う努力をしても集客を回復することが困難で、経営の観点で考えると先細りは目に見えていました。」

 (3) 戦争のころの記憶

ア 通帳

 「私(Gさん)が子どものころには、醤油を買いに行くことが子どもの役割としてありました。町へ醤油を買いに行くのに現金ではなく、『通帳(つうちょう)』と呼ばれていた通(かよ)い帳と、醤油を入れてもらう一升瓶を持って行かなくてはなりませんでした。現金払いではなく通い帳を使うのには、農家には盆や節季での支払い、という話がありますが、農家は現金収入を得ることができる時期が限られているため、生活必需品を購入しようにも現金を持ち合わせていない場合があるのです。米農家は秋に米を、田植え前の時期に麦を無事に収穫して、それを売買して初めて現金を手に入れることができていました。お醤油屋さんへ行って店の方に、『一升やんなはいや(ください)。』と言うと、醤油樽に付いている栓をひねり開けて一升瓶に醤油を入れて、通い帳には何月何日醤油一升と記入していました。恐らく店の方にも購入控えのようなものはあったのではないかと思いますが、それを基にして、現金収入があれば親が支払いに行っていたことを憶えています。」

イ 養蚕

 三間で盛んに行われていた養蚕に関係する思い出を、次の方々が話してくれた。

 (ア) 盛んだった養蚕

 「宮野下は、古くは吉田藩第二の町で、戦前には特に村の地域で養蚕が盛んに行われていました。養蚕の隆盛期には、宮野下の町筋に銀行がいくつもあったと聞いています。私(Gさん)が子どものころには、既に撤退した銀行の跡地の再利用に伴って解体される建物の中から、大きな金庫が運び出されているところを見ました。学校への行き帰りには、縦横とも3mはあったのではないかと思われる大きな金庫を見て、すごい大きさだと思っていました。また、その大きな金庫を撤去するときには、丸太のコロを敷いて、その上を移動させるように道まで引っ張り出している様子もよく憶えています。
 昭和30年代になると、稲作用の消毒薬の影響を抑えるために、田んぼが少ない天神池の辺りに桑畑が集約されていたと思います。しかし、そのころには養蚕自体はそれ以前のように盛んではなかったのではないかと思います。」

 (イ) くらしと養蚕

 「養蚕が盛んに行われていたころには、桑の木かぶた(切り株)を掘って、それを囲炉裏で燃やしていました。かぶたの火は、とろとろと消えることなく一日中燃え続けていたので、私(Hさん)の家でも桑の根を掘っては囲炉裏くべていたことをよく憶えています。」
 「桑の株を掘り出す作業は意外と大変で、三脚を組んでチェーンブロックを使って引き抜かなければならない、大掛かりなものだったことを私(Gさん)はよく憶えています。」
 「戦時中、私(Dさん)の父は戦地へ行っていたので、母に連れられて桑を摘みに行っていました。大きな桑籠を背負って行き、それに摘んだ桑の葉を詰め込んでいました。あるとき、桑畑で作業をしていると、警戒警報のサイレンが鳴り響いたことがありました。とにかく早く作業を終えて家に帰りたかった私は、サイレンが聞こえるとすぐに、『母ちゃん、もう籠一杯摘んだよ。帰ろや、帰ろや。』と作業を終えて帰るように言っていたことをよく憶えています。」

ウ 防空壕、宇和島空襲

 防空壕(ごう)や三間への爆撃、宇和島空襲などの戦争の記憶を、次の方々が話してくれた。
 「私(Hさん)は、戦時中には宮野下にも防空壕があちこちに掘られていて、一つの防空壕を何軒かが共同で使うようになっていたことを憶えています。防空壕を造るには、竹の根の下を掘った方が崩れにくい、というようなことも言われていたようです。」
 「戦時中、三間の地域はほとんど被害を受けませんでしたが、成妙の農協の辺りに爆弾が落とされていた、と聞いたことがあります。また、宇和島空襲のときには、泉ヶ森のところから市内へ向けて戦闘機が急降下していたようです。私(Aさん)の同級生には、予科練(海軍飛行予科練習生)や海兵(海軍兵学校)、陸士(陸軍士官学校)へ進んだ者がいました。また、陸軍の幼年学校にも2名が行ったと思います。」
 「宇和島空襲のとき、私(Fさん)は爆撃機から焼夷弾が落とされている様子を泉ヶ森の方角に見ました。パラパラと数多くの焼夷弾が落とされ、その後、山裾が赤い色に変わり、ついには夜空まで真っ赤になっていたことを憶えています。私たち家族が使う防空壕が家とお宮(三嶋神社)との間にあり、『早く入れっ。』という大人の大きな声で入っていましたが、子どもだった私は長い間その中でじじっとしていることに我慢ができず、外に出たときにその光景を見たのです。」
 「終戦のとき、私(Cさん)は10歳でした。戦時中、三間の地域では、迫目や則などに何個か爆弾が落とされたと聞いていて、警戒警報や空襲警報の音や、家の近くの山肌の部分に掘られていた防空壕に入ったこと、爆撃に行くB29の編隊を見たことを憶えています。さらに、学校の運動場には防空壕が掘られていたことや、下校する際には敵機に見付からないように、山際の道を通るように先生から指導されていたことも思い出されます。
 終戦後のことで印象深い出来事は、運動靴の支給です。支給対象者を決めるくじ引きが実施されて、私は見事当選しました。しかし、支給された靴のサイズが大きく、私の足には合いませんでしたが、せっかく支給されたので引きずるようにしながら履いていたことを憶えています。
 また、雪が降り積もったときには、兄や姉にもらった長靴に藁(わら)縄を巻き付けて滑り止めにして、先に歩く上級生が雪を踏み固めた所を慎重に歩いて学校へ行っていました。学校に着くと、裁縫室の火鉢に火が入れられていて、雪の中、長い距離を歩いてきたからか、先生が、『川之内の子、早よ来い。』と言って、暖を取らせてくれていたことも懐かしい思い出です。」


参考文献
・ 川島佐登子『今日も繁盛 食料品店物語』1988
・ 愛媛県『三間町商店街診断報告書』1989
・ 愛媛農林統計協会『三間の農林業』1990
・ 三間町教育委員会『みまのくらし』1991
・ 三間町商工会『三間町商工会設立30周年記念誌』1992
・ 三間町『三間町誌』1994
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 三間町『三間町制施行50周年記念誌』2004