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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 林業と人々のくらし

 (1) 昭和20年代から30年代の嶺南地域の林業

ア 木材の流送

 「私(Aさん)が子どものころ、銅山川を利用した木流しが行われていたことを憶えています。自然乾燥させた木材を川の傍(そば)に集めておき、普段の水量では流れないので、雨で増水したときに流していましたが、途中で岩や浅瀬などに引っ掛かることも多かったようです。『1石(約0.3㎥)当たりいくらで流してくれ。』と仕事を請け負い、全ての木材がうまく流れて、大儲(もう)けした人もいたそうです。流された木材は、奥の院のすぐ上流にある魚染場(やなば)という所で引き上げられ、そこからトラックに載せて、堀切峠を越えて運んでいました。当時のトラックは木炭車で、ガソリン車に比べると非力だったため、多くの木材を運ぶことはできませんでした。木流しの際には、途中で引っ掛かった場合に備えて、多くの人夫さんが木材を追い掛けており、さらに、弁当持ちの人が追い掛けていました。弁当持ちの人は、たくさんの弁当を持って動き回り、お茶の準備もしなければならなかったので、大変だったと思います。木流しは昭和20年代まで行われていたと思います。」
 「昔、嶺南では伐採した木材を、乾燥させてから銅山川で下流に流していたと聞いています。ある程度集まったところで引き上げて、そこからトラックで運んでいたそうです。その後、道路の整備が進むと木流しは行われなくなり、トラックでの運送に変わっていきました。私(Bさん)が子どものころ、木流しは行われておらず、木材を積んだトラックが走っていたことを憶えています。そのときのトラックは、現在の11t車ではなく、6t車か8t車だったと思います。そのころ、法皇トンネルはなかったので、新宮(しんぐう)(現四国中央市)まで行って堀切峠を越えていました。私が子どものころは、町(まち)へ行くには、バスに揺られて堀切峠を越えていたので、相当時間がかかっていました。当時は、現在のスギやヒノキといった針葉樹ではなく、両親は広葉樹の雑木を伐(き)っていた記憶があります。雑木を伐って、その後スギなどの針葉樹を植林していきました。現在、そのころから50年から60年経(た)って、その植林された針葉樹が伐採適齢期になっています。」

イ 移動製材

 「私(Aさん)は小学生になるころから、父の仕事を手伝うようになりました。伐採した木材は、軽くするために自然乾燥させますが、それでも重くて運べないので、移動製材といって、山の中に製材機を運び、木材を板などに加工していたことを憶えています。移動製材機は石油の発動機で大きなノコギリの刃を動かしており、『ボン、ボン』と音を立てていたことを憶えています。組み立て式の台に木材を胸で抱えるようにして押し当てて、ノコギリを引いていました。当時使っていた台は腐ってなくなってしまいましたが、ノコギリの刃は今でも残っています(写真3-2-2参照)。
 猿田集落などの比較的平坦な所で移動製材を行い、製材したものを馬に載せて索道の豊坂駅まで運んでいました。豊坂駅からは索道で三島まで送り、三島の製材所に売っていました。当時の三島には数多くの製材所があったことを憶えています。移動製材では、木材を軽くして運びやすくすることを第一の目的として加工していたので、製材所できれいに引き直す必要がありました。」

ウ 山小屋

 「私(Aさん)が父の手伝いを始めたころには、伐採現場の近くに山小屋を建てていました。山に入ると、水が手に入る良い場所を探して、そこに山小屋を建てます。山小屋の壁にはスギの皮を張り付けていたことを憶えています。食事は自炊をしていましたが、食材が足りなくなると、買い出しのために山を下りることもありました。現場では夜明けから日が暮れるまで仕事をしていたと思います。そのころは、つるべ式の索道で木材を運搬していて、その作業中に事故でけがをする人も多かったことを憶えています。」
 「私(Bさん)は小学校4年生くらいから、父の林業の手伝いで山小屋に泊まっていました。昔は自家用車などなかったので、木材を伐採する現場へ移動するのに時間がかかっていました。そのため、現場が決まると、そこに山小屋を建てて泊まる必要があったのです。山小屋は水を確保できる場所を選んで建てました。また、薪(まき)はたくさんあったので、かまどを設けて自分たちで食事を作っていました。伐採した木材を搬出するための索道を利用して、食材や油の入った1斗(約18ℓ)缶を山小屋まで運び、フライパンで冷えた御飯を炒(いた)めてよく焼き飯を作っていたことを憶えています。
 山小屋があった場所の標高は700m近くあり、斜面を歩いて2時間以上かかったと思います。私は、普段は学校があるため1日しか泊まることができませんでしたが、夏休みは毎日のように泊まっていました。山小屋には、父のほかに一緒に仕事をしている人も含めて4、5人が泊まっていました。みんなで食事をするなど賑(にぎ)やかで、お風呂がなかったので川の水で体を洗って済ませていたことを憶えています。時間ははっきりとは憶えていませんが、朝7時ころには伐採現場に着いて作業を始め、昼食をとった後、夕方まで行っていました。
 子どものころは、この辺りもよく雪が降っていて、雪が降る中、震えながら山小屋に泊まった記憶もあります。私はそれほど多くの現場へ行ったわけではありませんが、当時は機械化されていなかったので、1か所の作業を終えるのにとても時間がかかっていました。1万㎡の現場だと、現在であれば1か月も経たないうちに終わりますが、当時は3か月以上かかっていました。」

エ 昔の索道

 「昔の索道にはハンドル式のブレーキが付いていました。索道に木材を載せて上から下ろすと、木材の重みで下りていきます。それを見ながら、徐々にハンドルを回してブレーキを閉めていきました。私(Bさん)は子どものころ、ブレーキをよく操作させてもらっていましたが、ハンドルを回す操作は子どもには重たかったことを憶えています。索道はつるべ式になっていたので、反対側から上がってくるものを見ながら、さらにハンドルを閉めて止めました。子どもだけでは危険なので、大人に傍で見てもらっていました。
 また、当時はトランシーバーがなかったので、索道で木材を搬出する際には上の人と下の人は手旗信号で合図を送っていて、私はその仕事もさせてもらっていました。崖の上に上がって、下にいる人に手旗信号で合図を送ったことを憶えています。今になって考えると、子どもに索道のブレーキを操作させたり、手旗信号を送らせたりするのは危険ではないかと思いますが、当時はそのようなことが行われていたのです。索道に載せた木材は道幅が広くなっている所に降ろし、トラックに積み込んでいました。木材をトラックに積み込む作業は、大変な力仕事で子どもには無理だったので、手伝うことはありませんでした。昔の索道はエンジン付きになってからも、現在のようにスイッチ一つでエンジンを掛けるものではなく、手で引っ張るタイプでした。そのような索道を、現場が移動する度に、山から山へと張って伐採した木材を搬出していました。」

オ チェーンソー

 「チェーンソーは昔から使われていましたが、昔のものは大きくて重たかったです。現在は、安価で性能の良い国産のチェーンソーが普及していますが、私(Aさん)の父がチェーンソーを買ったころ、国産のチェーンソーはまだなく、アメリカ製や西ドイツ製のものしかありませんでした。そのため、故障をしたときには部品を取り寄せるのに苦労していたようです。」
 「私(Bさん)が子どものころには、既にチェーンソーを使って作業をしていました。黄色のチェーンソーで、現在のものと比べると大きくて重たかったことを憶えています。昔は伐採した木材をすぐには搬出せず、その場で乾燥させてから搬出していました。索道に載せるために軽くする必要があったためですが、中には1か月くらい乾燥させていた人もいました。乾燥が終わると、その場でチェーンソーを使って枝を落とし、木材を3mから4mの長さに切断した後、索道でトラックに積み込む場所まで下ろしていました。」

 (2) 林業に取り組む

ア 林業を始める

 「私(Bさん)は高校を卒業した後、4年半ほど会社勤めをし、25歳のときに林業を始めました。最初の1年間は新宮村で仕事を行いましたが、その後20年以上は県外の伐採現場で仕事を行い、四国4県のほかに島根県でも仕事をしたことがありました。私が林業を始めたころは、父も現役で、父を含めた何人かと一緒に県外の現場に出掛けていました。国有林の生産請負事業の入札の際に、よく落札される方がいました。知人がその方からの依頼仕事を行っていて、たまたま私も一緒に仕事をさせていただいたことが縁で、取引が始まったのです。林業を始めたころは、他所(よそ)が持っているような機械を持っておらず大変だったのですが、何とか続けることができました。」

イ 県外の現場

 「県外の現場で仕事をするときには、私(Bさん)は、まず地元の林業関係者の方と交流する場を設けるようにしていました。すると、その後の交渉が進めやすくなり、私たちの仕事を手伝ってくれるようになるのです。地元の方の中で手伝ってくれる方が少しでもいれば、その方に現場の先発隊を請け負ってもらうことができました。そのような方の中で、徳島の若い人は、ほかの地域の現場でも仕事をしたいということだったので、いろいろな現場に行ってもらっていました。県外での仕事で、思い出に残っていることがあります。冬場、島根県の現場で仕事をすることになりました。雪が心配だったのですが、そちらの方が『雪はありません、大丈夫ですよ。』と言うので、仕事を引き受けることにしたのです。当時は、しまなみ海道が開通していなかったので、車で今治(いまばり)まで行き、フェリーで三原(みはら)(現広島県三原市)に渡った後、再び車で島根県を目指しました。広島県の峠に入ると、どんどん雪が深くなったので不安になってきました。島根県の現場に着くと、深い雪に埋もれていて、『これは無理だ。』ということになり、1泊してから帰ってきました。向こうの方は、1mくらいの積雪では、『雪がある。』とは言わないようです。
 県外の現場に行っていたときには、まだ高速道路がない現場もあったため、長時間の運転となり大変でした。運転するのはほとんど私だけで、ほかの人は車に乗ると眠っていたことを憶えています。当時は今のようにコンビニエンスストアはありませんでしたが、開店時間が大体分かっている行きつけの店があり、そこでいつもおやつを買っていました。
 県外の現場では、まず先発隊が伐採のために現場に入ります。1か月くらいして、後発隊が現場に入り、現場の状況を確認してから索道を張って木材を搬出し、半年くらいで作業を切り上げていました。索道を張るとき、他の所有者の土地を通らなければならない場合は、地権者と交渉しなければなりませんが、地権者と交渉しても、すんなり許可が出ないこともありました。あるとき、依頼仕事を受けて伐採した木材を索道で搬出する際、隣の山を通してもらおうと地権者に交渉しましたが、『うちは通さないから、出て行ってくれ。』と言われたことがあります。なぜそこまで言うのか、最初は分かりませんでしたが、いろいろと話を聞いているうちに、依頼者とその地権者との間で過去にいざこざがあったことが分かりました。そのような場合には、別の場所に索道を張らなければなりませんでした。」

ウ 長い索道

 「私(Bさん)が林業を始めたころは、1㎞くらいの索道を張って木材を下ろし、それをさらに2回繰り返すというように、3段の索道を張ったこともありました。この場合、上にいる人は降ろした木材をまた載せることになるので大変で、私はいつも上で作業をしていたことを憶えています。現在は、距離にもよりますが、3日くらいかけて索道を張っていて、あまり上の方の木を伐採しても元が取れないので、距離は長くても500mくらいで1段だけです。この辺りの自社所有地の地形を見ると、現在の若い世代の人たちの代になれば、昔の私たちのように、複数の索道を用いて木材を搬出することになると思うので、若い人たちには、『覚悟をしておくように。』と伝えています。」

エ 会社の設立と若手の育成

 「私(Bさん)は、平成6年(1994年)に会社を設立しましたが、それまでは個人で林業を行っていました。そのときは、両親、兄弟や叔父といった家族のほか、三島や川之江の人とも一緒に仕事をしていました。私もそうですが、林業を仕事としている方は家族で行っている方が多いようです。ただし、年齢を重ねると、いずれは仕事をやめなければならなくなるので、それだけでは続けられないと思ったのです。
 現在、私の会社では7名で現場の仕事を回しています。30代の若い従業員が3人いて、できれば、あと2人くらい若い人を育てたいと考えていますが、求人を出していません。求人を出すと、就業希望者が来るとは思うのですが、一度にたくさん来られても困るので慎重になっています。同業者の方の話を聞くと、ハローワークを通して若い人を雇っても、短期間で辞めてしまうことも多いようです。重機のオペレーターの仕事は楽しんで行っていても、いざ山の上へ行って足元の悪い場所で作業などを行うようになると、慣れていないこともあると思うのですが、うまくいかずにすぐ辞めてしまうことが多いようです。
 私は会社の代表を務めている立場から、安全を第一に考えて、現場では若い従業員たちにいろいろと厳しいことも言っています。林業の仕事は少しの間違いが大けがにつながるので、現場では、安全に作業するにはどのようにすればよいかお互いに声を掛け合うようにしています。若い従業員たちが林業を始めて間もないころは、重機のオペレーターを務めることが多く、なかなか山の上の現場へ行くことがありません。現場に慣れていないとすぐに疲れてしまうので、いろいろな経験を積ませるために、山の上の現場へ行かせるようにしています。1、2年ではまだまだですが、5、6年もすると山の上に行っても大丈夫になってきます。私の会社に6年目の若い従業員がいますが、随分良くなってきています。ただし、慣れたころだからこそ、けがをしないように気を付けなければなりません。
 現在、次世代会という、林業の若い人たちの集まりがあって、私の会社の若い人たちも参加し、意見交換をするなど交流を図っています。11月中旬に行われる四国中央市産業祭でのイベントに、その若い人たちが参加するのですが、それに向けて薪割りをするなど準備をしています。昔は個人経営だったため、そのような交流はありませんでした。」

オ 植林に努める

 「林業の将来のことを考えるならば、木を伐採するだけではなく育てていくことも必要となるため、私(Bさん)の会社では植林にも力を入れています。植林のために必要な苗木は、種苗業者から購入しています。現在では、苗木は年中植えられるようになっていますが、いろいろと試してみて、春に植えるのが一番良いと思います。私は、秋から冬にかけて苗木を注文し、春に植えるようにしています。最近の苗木は、コンテナ苗(複数の栽培孔がある栽培容器で育成された苗)になっていて、小さな穴を掘り、そこへ挿し込んで踏み固めるだけでよいため、植え付けがとても簡単になっています。場所にもよりますが、1日に何本もの苗木を植え付けることができるようになりました。
 ところが、温暖化の影響があるのかもしれませんが、この辺りでも以前に比べてシカがかなり増えてきました。そのため、せっかく植林しても獣害対策のネットを張っていなければ、全てシカに食べられてしまいます。最近は、シカやイノシシ対策として、有害鳥獣捕獲のため猟に出る機会も増えるようになりました。」

カ 機械化の進展

 「林業の世界でも機械化が進んでいます。最初に普及した機械が、グラップルです(写真3-2-3参照)。これは、建設業者が使うバックホーの先に付ける、木材をつかむアタッチメント(付属装置)です。グラップルで木材をつかみ、トラックに載せたり、仕分けを行ったりしています。昔、木材の仕分けは、トビという道具を使って引っ張っていたので、大変な力仕事でした。そのため、力の弱い人には難しい仕事だったのですが、グラップルが普及してからは随分楽になりました。
 私(Bさん)は現在でも、トビを現場に持って行くことがあります。会社の若い従業員たちは、それほど大きくない木材でもグラップルでつかんでいて、トビには触ったこともありません。そこで、片手でトビを使って木材を引っ張って見せて、若い人たちにやらせてみることがありますが、なかなかうまく引っ張ることができません。昔の林業では、このようなことも行っていたということを知っておいてほしいと思います。
 次に普及した機械が、プロセッサです。従来は、伐採して倒した木を、斜面でチェーンソーを使って枝払いをしていましたが、プロセッサは、伐採した木をすぐにつかんで、枝払いをしながら切断することができます。その後、トラックに付いているグラップルで木材を積み込むため、力仕事は必要ありません。機械化が進んだおかげで、現在では、女性の方も林業に従事するようになりました。しかし、何事においても体が大切で、林業では山を歩かなければならないことは今も昔も変わりません。
 今のチェーンソーは昔のものに比べると軽量化、小型化が進み、重さは半分以下になっているのではないかと思いますが、それでも十分なパワーがあります。また、現在はチェーンソーで枝払いをしなくてもよくなったので、チェーンソーを使う時間も減り、扱いも楽になっています。林業に使う機械を購入する際、昔は土居(どい)(現四国中央市)に業者があったのでそちらに注文していたのですが、現在は松山(まつやま)の業者にお願いしています。チェーンソーを使う際に気を付けなければならないのが振動障害です。これは体質にも関係があるようで、症状には個人差があります。チェーンソーのような振動工具を使う労働者は、定期的に検査を受ける必要があります。私の知人に、振動障害の影響で冬場になると指先が3本ほど白くなっていた方がいて、一緒に猟に行った際、銃の引き金を引くことができないため、焚(た)き火をして指先を温めていたことを憶えています。
 林業も機械化が進み、道路も整備されてきたので、伐採した木材をすぐに搬出することができるようになりました。しかし、道路が整備された分、やりにくくなった面もあります。それは、大型の機械を使うために広いスペースを確保しなければならなくなり、道路の近くで作業する際、周囲の協力を得るための交渉が必要になったことです。」

キ 山と木材搬出

 「嶺南地方は、森林災害の少ない地域だと思います。林道や市道が開設された所は、多少崩落する場合がありますが、それ以外の場所では土砂崩れなどが起こることがありません。この地方は山が険しく傾斜もきついため、林業で生計を立てるのが厳しく、あまり同業者が増えないのだと思います。林業を始めたとしても、山を確保して作業ができるかと言うと、そうではありません。現在、この辺りの林業会社の代表者の中では、私(Bさん)が一番年上だと思います。そのほかの方は、私よりも一回りも違いませんが、年下の方ばかりです。
 同じ県内でも、山の状態は違っており、松山方面の山で作業をしたことが何回かありますが、林道が整備されていて、作業が楽だと思いました。また、作業をしたことはありませんが、久万高原(くまこうげん)町の山にも行ったことがあり、嶺南ほどは険しくなかったことを憶えています。
 中予や南予では、山がそれほど険しくないため、作業道で木材を搬出することが多いようです。また、最近では索道を使って木材を搬出することがなくなってきたため、ときには県外の業者の方が、私の会社に見学に来ることがあります。索道を使ったことがなく実際に見たこともないとなると、いざ索道で搬出する必要があっても不安が生じてしまうからだと思います。先日も、高知県の業者の方から連絡があったのですが、『あいにく徳島県の現場しかないのですが、どうしますか。』と伝えると、その業者の方は徳島県まで見学に来ました。私の会社では索道を使って搬出する以外にも、作業道を開設して、フォワーダと呼ばれる、キャタピラが付いている木材を載せて運ぶ機械で林道まで搬出するというように、それぞれの現場に対応した搬出方法をとっています。昔は索道しか搬出方法がなく、作業道を開設することもできませんでしたが、機械化が進んでいったことで、自社所有地や地権者の許可を得た土地には作業道を開設することができるようになりました。」

ク 仕事の変化

 「以前は依頼仕事ばかりでしたが、最近では自社所有地での仕事が増えています。伐採を依頼してきた方に話を聞きに行くと、『維持管理ができないので、土地を買ってくれませんか。』と頼まれることが増えた結果、自社所有地が増えているのです。地権者が地元から他所に出て会社勤めなどをしていると、なかなか山林のことまでは気が回らないと思います。山林を所有しているのは分かっていても、山林をどのようにしたいという考えはないようです。私(Bさん)が山で作業しているとき、大阪(おおさか)在住の方の所有地にぶつかったことがあります。連絡をすると、『ついでに処分してくれないか。』とお願いされました。地元には親戚の人がいるくらいで、全く山林に関心はないのです。そういう方は、『買ってくれるのなら売ります。』と地元の方より早く決断されますが、土地売買となると登記簿がなければ時間がかかってしまいます。作業だけであれば、契約書だけ交わせば作業に入れますが、土地売買の場合は、登記簿がなければ私の会社でも受け入れることができません。
 依頼仕事が中心だったころは、仕事のつなぎに苦労しました。依頼が全くなかったときには、従業員に『今日は仕事がないから、休んでください。』とは言えないので、何か仕事がないかと聞いて回っていました。自社所有地を増やしていくことで、年間を通して仕事の段取りができるようになり、現在は、複数の現場で同時に仕事を行っています。現場の仕分けは、天気の状態や現場への往復時間、山の上の現場かどうかなど、従業員のことを第一に考えて行っています。また、昔と違って木を大きくしても木材の価格は上がらないため、適当な時期が来れば、伐採して植え替えています。植え替えには補助金も出るので、それも利用させてもらいながら頑張って仕事を続けています。」

ケ 木材の取引

 「昔は伐採した木を木材市場へ出荷していて、『今日は高値で取引されて良かった。』などと言っていました。現在は、大手の業者に買い上げてもらっており、材価は大体横ばい状態です。ただし、5月から梅雨にかけての時期は、原木に虫が入ることが多いため値が下がることがあり、この時期は経済的に厳しいのですが、そのほかの時期は値が横ばいなので、私たちも機械を使って搬出する木材の数量を増やすよう努めています。東予地方では、西条インターチェンジの近くに木材市場があり、現在でも取引が行われています。品不足のときや木材が欲しいという方が多くいるときでなければ、なかなか高値はつきませんが、今は木材を欲しいという方も少なくなっています。
 昔と同じ金額を稼ごうとすると、10倍近い面積の現場を確保しなければなりませんが、山の麓辺りや道路の近くの辺りは所有者が何人もおり、広い現場を確保するためには時間がかかります。山の中腹から上の山林は、1人当たりの所有面積が広くなっています。そのような場所に現場を確保したいところですが、嶺南地方のように急斜面が多く、林道の整備されていない山では、現場が山の上になればなるほど経費がかかり、採算面で苦しくなります。私(Bさん)の会社では、伐採だけでなく植林も行っているため、山の上まで上がって仕事をするとなると非常に経費がかかるので、そこが難しいところだと感じています。」

コ 富郷ダム

 「富郷(とみさと)ダムの建設工事のとき、堰堤(えんてい)両岸の木々の伐採をしたことが、思い出に残っています(写真3-2-4参照)。富郷ダムが建設される際、水没地の木々を全て伐採することになりました。宇摩森林組合が伐採を引き受け、私(Bさん)もその作業に加わっていました。その後、ダムの堰堤が3分の1ほど立ち上がった時点で、堰堤の両岸の断崖に生えている木の伐採を任されたのです。そこは斜度が非常にきつい上に、岩盤がむき出しになっている所もあり、大変危険な場所でした。ここは伐採できるのだろうかという場所もあり、それまで経験したことがない非常に難しい作業だったのです。そこでの作業のとき、水面となる上側辺りにツガの巨木がありましたが、『これはダム完成後のシンボルになるから残しておきたい。』と依頼されたので、伐らずにいました。ところが後日、『カメラでダムを監視する際、そのツガの巨木で死角ができてしまう。邪魔になるので伐採してほしい。』と頼まれました。そのときはさすがに、『えー、今から』と思ったことを憶えています。これだけの巨木を伐り落とすと、堰堤の向こう側の深い谷に落ちてしまい、引き揚げ作業が大変になる可能性があると心配していたのですが、水没する旧市道で止まってくれたので、その後、索道を張って引き上げました。なかなか関わることのできない仕事だったので、良い思い出になっています。」

サ 林業への思い

 「私(Bさん)は林業の仕事が好きなので続けてきました。子どものころから林業の仕事を手伝ってきましたが、小遣いをもらうこともなかったので、普通の人であれば嫌になるのではないかと思います。それでも嫌にならなかったのは、一緒に仕事をしていた人たちが、林業を手伝っていた私を、大変かわいがってくれたことが大きいと思います。私が小学生になる前後のころ、三島で美空ひばりさんの公演が行われたときに、その人たちが私を会場へ連れて行ってくれたことがありました。ただし、母に連絡をしていなかったので、母は心配して探しに来たそうです。また、その人たちと一緒にお風呂に入った記憶もあります。そのようなことがあったので、山に行くのが楽しくて、林業が好きになったのだと思います。」

 (3) 木材運送

ア 林業と木材運送

 「私(Aさん)は中学校卒業後、父と一緒に本格的に林業を始めました。父は自分で山を買ったり、いろいろな仕事を請け負ったりしていました。父が亡くなったことをきっかけに、42歳のときに木材の運送業を始めました。運送業を始める際、住友林業から仕事を請け負っているということで、銀行も融資をしてくれたことを憶えています。運送業で使っていたトラックは途中で何台か買いましたが、新車で買って乗り続けました。また、以前トビで木材を引っ張ってトラックに載せていたときには、けがをすることがかなりありましたが、グラップルを思い切って買うと作業能率が良くなり、けがもなくなりました。運送業中心でしたが、林業も続けており、住友林業から請け負った仕事をしていました。富郷ダムの工事をしているときは、森林組合からダム湖予定地の伐採の仕事を請け負いました。森林組合が地元有志に仕事を割り振ってくれたのです。木材の運送は、主に住友林業のものを扱い、新居浜(にいはま)の磯浦まで運んでいて、住友林業の木材はきれいだったことを憶えています。住友林業は伐採だけでなく植林も行っていますが、木を育てるには50年以上という長い時間がかかります。そのため、私が運送業を始めたころと比べると、運送する木材の量は次第に減ってきていました。そこで、高齢になったこともあって、東日本大震災が起こったことをきっかけに運送業をやめました。震災からの復興作業のために、グラップル付きのトラックの需要が高まり、中古車価格も上がったので、『この機会に持っている3台のトラックを売って、運送業をやめよう。』と思ったのです。」

イ 炭焼き

 「私(Aさん)は、4、5年前まで炭を焼いていました。父が炭を焼いていたので、見様見まねで、運送業を始める前からコツコツと炭を焼いていたのです。針葉樹は炭に向かないので、雑木を集めて焼いていました。運送業を始めてからは、そのときに余った木材を譲ってもらうなどして、原木を手に入れて炭を焼き、作った炭は、毎月、農協が買い取りに来ていました。炭窯は何人かに手伝ってもらって、自分で造りました(写真3-2-5参照)。窯の中は結構広いので、1回焼くと10㎏の袋で40袋から50袋くらいの炭ができました。1回炭を焼くのに10日以上かかります。原木が燃えるのは4日くらいですが、その後火を止めて蓋をして空気を遮断し、火が完全に消えるまで時間がかかるのです。炭を焼くとき、炭窯の中に入って木を立てる必要がありますが、かがむと腰が痛くなってきたのでやめました。現在でも、『炭はありませんか。』と問い合わせの電話が掛かってくることがあります。」

 (4) ふるさとの記憶

ア 集落での生活

 「岩原瀬集落に私(Aさん)の家がありますが、父は元之庄の辺りで林業の仕事をして、仕事が終わると集落まで帰宅していました。道路はまだ整備されておらず、荷物を背負って山道を上がっていました。小学校6年生のときに洗濯機を買いましたが、家まで背負って上がったことを憶えています。古くからの街道が集落の中を通っていましたが、舗装もされておらず、馬が通れるくらいの幅しかありませんでした。この辺りで病人が出ると、駕籠(かご)に乗せて峠を越えて、寒川(現四国中央市)の長谷寺(新長谷寺)の近くにいたお医者さんの所まで、1時間半くらいで運んでいたと思います。」
 「藤原集落にある子安観音には、周辺から妊婦の方が腹帯を持って安産祈願に来ていました。集会所の前には土俵があり、相撲大会が行われる日には、出店も出て賑わっていたことを私(Bさん)は憶えています。子どものころに、境内にある県の天然記念物であるビャクシンの木に登って遊んだこともありました。昔は食べ物が少なかったので、自然になっているクリを拾っておやつ代わりに食べたり、近所の方が育てていた渋柿をもぎ取って食べて怒られたりしたこともありました。」

イ 白滝鉱山の索道

 「私(Aさん)の父は、仕事を請け負った際、人夫さんを10人くらい雇って家に泊まらせていました。仕事から戻ると酒を飲んでいて、夜中でも『下の農協まで行って酒を買って来い。』と言われて、買いに行ったことを憶えています。集落を下りた所に索道の豊坂駅があり、三島から荷物が運ばれていましたが、その近くに農協があったのです。焼酎や酒は大きなかめに入ったものが量り売りされていて、一升瓶を持って買いに行っていました。
 猿田集落からも、運送業者が豊坂駅に来て、馬に荷物を積んで集落まで運んでおり、この辺りの人たちにとって、索道は生活に欠かせないものだったと思います。この辺りは葉タバコの栽培も盛んでしたが、豊坂駅の近くにあった専売公社の収納所で入札が行われ、索道で出荷されていました。法皇トンネルの完成後に白滝鉱山の索道が短縮され、豊坂駅は昭和40年(1965年)ころに廃止されました。その後は鉱石をダンプカーに積んで運ぶようになりました。」
 「藤原集落には、高知にある白滝鉱山と三島を結ぶ索道の中継駅があり、日曜日以外は毎日動いていたと思います。鉱山から三島への便には鉱石が載せられていましたが、三島から鉱山への便には荷物が載せられていて、中継駅で降ろされていました。三島から藤原集落の中継駅に届いた荷物を降ろして、運ぶのを手伝っていたことを、私(Bさん)は憶えています。」


ウ 小学校と中学校

 「私(Bさん)が子どものころ、富郷地区には城師(じょうし)、富郷、猿田と三つの小学校がありました。その中で児童数が最も多かったのが富郷小学校で、私が通っていたころには100人以上いたと思います(写真3-2-6参照)。富郷小学校までは徒歩で通学していて、藤原大橋はまだ架かってなかったので、下に架かっていた吊(つ)り橋を渡って通学していました。学校までは遠かったのですが、子どもの足でも1時間はかかっていなかったと思います。中学校は、藤原集落にあった富郷中学校だけでした。富郷中学校は、私が卒業後しばらくして閉校となり、富郷地区の子どもたちは町にできた東中学校へ寮生活をしながら通うことになりました。」

エ 子どものころの遊び

 「私(Aさん)は子どものころ、映画を観(み)るために佐々連鉱山まで歩いて行ったことがあります。佐々連鉱山には、病院や何でも揃(そろ)う販売所もあり、この辺りの人たちはよく行っていました。お祭りも開催されていて、とても賑やかだったことを憶えています。」
 「私(Bさん)は子どものころ、学校から帰ると年上の人と一緒によく遊んでいて、高い山に登ったり銅山川で泳いだりしていました。今になって考えると、田舎だったこともあり、当時は危険な遊びをしていたと思います。あるとき、台風が過ぎ去った後で増水している銅山川で泳いだこともありました。年上の人は平気そうでしたが、私は怖かったことを憶えています。映画を観るために、子どもたちだけで白滝鉱山まで行ったこともありました。朝早く出発し、山道を進んで峠で昼食をとってから、白滝鉱山まで行ったことを憶えています。帰るころには、だんだん暗くなりましたが、白滝鉱山からこちらに戻る大人が多かったので、一緒に帰ってもらっていました。」

オ 手伝い

 「私(Bさん)の祖父は、炭を焼いていました。炭窯は家から離れた所にあったのですが、中学生のころまで、手伝いに行っていたことを憶えています。柔らかい木は良い炭にならないので、堅い木を集めて1m50cmから1m60cmくらいに切るのを手伝っていました。
 祖父は葉タバコも栽培していたので、忙しい時期にはよく手伝っていました。夏休みの時期がちょうど収穫の時期で、朝早く起きて収穫を手伝っていましたが、手に付いた臭(にお)いや粘りがなかなか取れなかったのを憶えています。山に行かず、集落に残った女性や年配の方は、葉タバコを栽培したり蚕を飼ったりしていました。私は山小屋に行ったり、祖父の手伝いをしたりしていたので、学校での勉強に力を入れた記憶があまりありません。中学校1年生のころの話ですが、伐採した木材を、索道を使って上から集落まで下ろす際、私は集落側にいて、木材を索道から降ろす作業の手伝いをしていました。朝早くから作業をしていたのですが、やがて登校時間になってしまいました。中学校が近くにあるので、同級生や先輩が、作業をしている私の傍を通ります。『早くしないと学校に遅れるぞ。』とか『今日は学校に来ないの。』と声を掛けてきましたが、私は『学校に行くよ。』と答え、時間ギリギリまで手伝って、登校したことを憶えています。」

写真3-2-2 ノコギリの刃

写真3-2-2 ノコギリの刃

令和元年11月撮影

写真3-2-3 グラップル(アームの先端部分)

写真3-2-3 グラップル(アームの先端部分)

令和元年11月撮影

写真3-2-4 富郷ダム

写真3-2-4 富郷ダム

令和元年11月撮影

写真3-2-5 炭窯

写真3-2-5 炭窯

令和元年11月撮影

写真3-2-6 富郷小学校

写真3-2-6 富郷小学校

令和元年11月撮影