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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 伊予三島の農業

(1)農家に生まれて

 ア 農業を継ぐ

 「私(Aさん)は昭和14年(1939年)の生まれで、6歳のときに終戦を迎えました。私の名前には凱旋(がいせん)の凱の字が使われていますが、これは父が中国戦線から凱旋したということがその由来となっているようです。
 私の家ではずっと農業を営んでいました。また、親戚が特定郵便局を運営していて、伯父が局長を務めた関係もあり、父が郵便局に勤め、さらに、当時の豊岡郵便局には電話の交換や電報の配達業務もあったので、私は夜間の電報配達を手伝いながら将来について考えていました。当時は未(いま)だ世間一般に、家の中における父親の権限が強く残っている風潮がありました。私の家は、いくらかの田畑を所有していたので、6人兄弟の誰かが農業を受け継がなくてはならないことは分かっていましたが、二男の私が父から、『お前、百姓をせえ。』と言われ、農業を継ぐことになったのです。」

 イ 子どものころ

 (ア)稲刈りの思い出

 「稲刈りには多くの労働力が必要とされていました。戦時中には、三島町(現四国中央(しこくちゅうおう)市)に駐屯していた陸軍の兵隊さんが、稲刈りの手伝いに来てくれていたことを憶えています。兵隊さんが軍服に脚絆(きゃはん)を履いた格好で鎌を手に持ち、農家の人たちと一緒になって一生懸命に稲刈りの作業を行っていたことが印象に残っています。
 昭和20年代に入り、私(Aさん)が学校(昭和20年〔1945年〕当時は豊岡国民学校、昭和22年〔1947年〕から豊岡小学校)へ通っていたころには、稲刈りの時期になると、学校が何日かの農繁休みになりました。農繁休みのときには家族総出で稲刈りを行うため、私も小学生のときには既に大人に混ざって稲刈りの手伝いを行っていました。小さな子どもだった私が、まだ小さかった手で鎌を持って稲を刈っていたのです。」

 (イ)農耕用の牛

 「普段、学校へ行った日でも、家に帰ると農作業の手伝いが待っていました。当時は農業用の機械が普及しておらず、牛を使って作業をすることが多かったので、私(Aさん)の家でも農耕用の牛を1頭飼っていました。実際に牛を扱うのは大人の仕事でしたが、農作業の手伝いの行き帰りにその牛に乗せてもらえることがあり、それがとても楽しみだったことを憶えています。家から田んぼまで牛に乗って行って、それから自分のペースで農作業の手伝いを行っていました。
 牛が身近にいて、扱い方を早くに身に付けることができたので、私は小学校6年生のころから牛に農機具を牽(ひ)かせて、代掻(か)きなどの農作業を行っていました。牛を動かすには独特の掛け声があって、左へ行かせるには『ホチ、ホチ、ホチ』、右へ行かせるには『ヒコイ、ヒコイ、ヒコイ』と言って牛の鼻を引いていました。また、静止している牛を動かすときには『ホイ』と言い、記憶が定かではありませんが、後退させるための掛け声もあったように思います。
 牛が牛小屋に入っているとき、牛の世話をするのは子どもの仕事でした。学校から帰ると藁(わら)を小さく切って餌として与えたり、当時は常時使えるような水道が通っていなかったので、牛に飲ませる水を川から汲(く)んで来たりしていました。
 この地域(豊岡町)でも、牛を飼っている農家が多かったので、近くには博労さんがいました。農家は博労さんから若牛を新しく買い、何年か育て、成牛として大きく成長させた牛を博労さんに売っていました。若牛の値段よりも、大きく成長した成牛の値段の方が高く、その差額を博労さんから現金で受け取ることができたので、牛の売買は農家にとっては貴重な収入源となっていたのです。収入をもたらし、農耕で役に立つ牛は、各農家にとって重要な存在だったので、とても大切に育てられていたことを憶えています。」

 (ウ)吹き飛ばされる麦

 「当時、私(Aさん)の家では米や麦、サツマイモなどを作っていました。米や麦を作っていると、この辺り特有のやまじ風の影響を受けることがありました。5月に麦を刈り取ると、昔は刈り取った麦をその場で一面に並べて3日ほど乾燥させる刈り干しを行って、乾燥させた麦を大きな束にして家まで持って帰っていましたが、刈り干しをしている夜にやまじ風が吹くと、夜中であっても寝ているところを起こされて、麦を取り入れに行かなければなりませんでした。取り入れをしていないところへやまじ風が吹くと、麦は予讃線の線路を越えて、海岸付近まで飛ばされてしまうほどで、それくらい強い風が吹いていたということなのです。
 もし、麦がやまじ風に吹き飛ばされたときには、風が止(や)んだ後に拾い集めに行きますが、あまりにもたくさんの麦がバラバラになって広範囲に吹き飛ばされているので、盛土をされている線路の所で止まっているとはいえ、全てを集めることはできませんでした。地元の方に聞いた話ですが、束ねられた麦藁が線路を越えて海まで飛んでいき、桝(ます)網に掛かったということもあったそうです。麦は乾燥してしまえば軽くなるのですが、それでも海まで吹き飛ばされるのですから、それだけ強い風だったということなのでしょう。地元では笑い話のように語られていますが、やまじ風の実際をよく表す話だと思っています。」

 (エ)手間が掛かった米作り

 「米作りでは、当時は効果がある農薬が少なかったことから、ウンカなどの害虫による被害が多く、収量が少なかった年があったことが強く印象に残っています。特に戦後はウンカによる被害が多かったので、その被害を防ぐために、石油だったと思いますが、何か油を使用していました。当時は、竹を伐(き)り出して底になる部分だけを残して節をくり抜き、残した節に小さな穴を開け、そこから液が少しずつ出てくるように工夫された道具を使っていて、私(Aさん)の父は田んぼへ少しずつ油を撒(ま)く作業を行っていました。水田に張られた水に油が落とされると、今度はその水を蹴り上げて飛沫(しぶき)を稲に掛けます。すると、稲の根元に油が付着してウンカを駆除することができていました。ウンカの駆除だけではなく、田の除草作業も『田の草取り』と呼ばれていた機械を手動で転がして行っていたので、稲作には多くの手間が掛かっていたことを憶えています。」

(2)サトイモの栽培

 ア 女早生の栽培を始める

 「私(Aさん)の家でいつごろからサトイモの栽培が始められていたのか、ということは、はっきりとは分かりません。栽培している女早生という品種の元々の産地は鳥取県で、私の母方の祖父がどこからか女早生の種を買い入れて栽培を始めたと聞いています。この辺りでは、以前から白イモや白芽イモなど、晩生(おくて)のサトイモの栽培が行われていましたが、女早生の収穫時期は夏場のお盆のころだったので、そのころにも収入を得ることが可能になるということから栽培が始まったようです。また、イモは地中で育つので、農家にとってその栽培は風対策にもなっていました。さらに、サトイモは当時、栽培過程であまり虫が付かず、防虫剤などでの消毒作業が少なく済む作物だったことから、栽培が容易であったことも栽培が始まった理由の一つと言えると思います。
 栽培を始めた当初には、収穫した女早生を業者に販売したときに、その売上金の中に流通し始めた千円札(最初の千円札は昭和25年〔1950年〕1月発行)が入っていたので、それを初めて目にした私は、珍しがって眺めていたことを憶えています。」

 イ 女早生を育てる

 「女早生は当時、種イモを4月に植え付け、早ければお盆ころから収穫を始め、遅くても10月末までには終えます。女早生の収穫が終わると赤芽や白芽という晩生イモの収穫が始まり、晩生の収穫も11月中には終えるようにして、畑が空くとそこに麦を蒔(ま)くというのが一般的な作業スケジュールとなっています。
 農作業としては、オオナカ(土寄せ)などがありましたが、その作業を行うときには、カルチベータと呼ばれる土を掘り起こすための爪が付いた農具を牛に牽かせて溝を作り、その後、引き続き牛を使って溝を深くする畝(うね)立ての作業を行い、最後は鍬(くわ)を使って人の手で高畝にかき上げ(30cmくらいに土を盛り上げ)なければならなかったので、割と力が必要な仕事で、しんどい作業であったと私(Aさん)は思います。
 春に種イモを家族で植え付け、梅雨時期になると、当初は除草剤のような便利なものがなかったので、家で作って大切に保存していた麦藁や稲藁を全てサトイモのもとに敷き藁にして、それで草が生えてくることや、土が乾燥してしまうことを防ぐ、というような工夫をしていました。
 また、肥料については、農協に地域の中堅の農業者が集まる部会が設置されていて、窒素やリン酸、カリ、さらに油粕(かす)や豆粕などをそれぞれ準備し、作物ごとに適合する肥料成分を全て手作業で配分調整をして作っていた時期がありました。配分調整は普及所や農協の指導的な立場の方に教えてもらいながら行われていましたが、実際に肥料を施し、その収穫状況から改良を加えるということの繰り返しだったので、一番良い配分を見付けるまでには5年から6年という長い時間が必要でした。生産者は農協などの核となる組織や地域内の生産者と協力し、より良い農作物を作る努力をしていたと思います。」

 ウ 女早生を販売する

 (ア)高い市場価値

 「私(Aさん)は、女早生を栽培して販売すると、収穫時期が早いこともあって市場価値が高く、当時の農家の収入としては良かったのではないかと思います。畑では時期により麦とサトイモを栽培しますが、女早生を栽培する場合は畑に麦を蒔くにも片畝に蒔いておき、4月になると空いている所へ女早生の種イモを植えていたので、早く芽が出て早く収穫することができていました。稲作を中心とする農家であれば、稲刈りをする秋まで収入を得ることができなかったので、お盆や秋祭りのころまでに収穫できる女早生は、それ以前の現金収入となることから、農家にとっても利があったのです。」

 (イ)買い付けと出荷

 「当時は豊岡や寒川の業者がサトイモを買い付けに来ていました。買い付けは、『地立(じだ)て』と言って、業者が畑全体の収量を予想して単価を決めて買い取り、掘り取りまで行ってくれていたので、農家側は代金を受け取るだけで、掘る手間が掛かりませんでした。このような業者が随分いたようなので、この地域から出荷されるイモにはそれだけ需要があったということなのでしょう。また、私(Aさん)の畑ではヤマイモも作り始めていましたが、こちらも業者が買い付けに来て、実際に掘って品質を確認して、『この畑、全部でなんぼで買おわい。』というようにして売買が成立し、売買が成立すると、業者が掘り起こすための人を連れて来て、買い付けた畑からヤマイモを掘り起こして持ち帰っていました。
 業者が買い付けたこれらのイモは、そのほとんどが寒川の港から尾道(おのみち)(広島県尾道市)や福山(ふくやま)(広島県福山市)などの、瀬戸内海を挟んだ向かい筋へ出荷されていたと聞いています。サトイモが出荷される港が寒川にはあり、買い付け業者もたくさんいましたが、これはこの辺りで一番早く女早生が導入されたことによるものではないかと思います。また、農協でもイモを集めて出荷していて、私が農協で仕事を手伝わせてもらっていたときには、女早生は丁寧に15kg袋に詰められ、中生(なかて)や晩生のイモは稲藁で編まれた俵に詰められて寒川の港で船に積み込まれていたことを憶えています。」

 (ウ)赤土イモ

 「私(Aさん)がくらす豊岡でも地域によって土壌の違いが見られ、南に位置する山の方へ行くと赤土の畑が広がっています。不思議なことに、買い付け業者はその地域で育てられたサトイモに好んで高い値段を付けます。赤土で育てられたイモは、一番おいしい孫イモが大きく育っていることがその特徴で、生産者の栽培の仕方にもよるのでしょうが、子イモが小さいにもかかわらず大きな孫イモができていました。この地域の農家では、高い価値が付くこのイモを、他のサトイモと同じ相場で出荷することを避けて、赤土イモという独自のブランドを立ち上げて、別送りで出荷していた時期があったほどです。」

 エ 農作業の合理化

 「農作業に農業用の機械が使われるようになってきたのは、昭和40年(1965年)ころのことではないかと思います。私(Aさん)は農業のほかにもアルバイトをしてお金を貯め、中古ではありましたが割と早くに農業機械を購入したことを憶えています。耕耘(うん)機などは地域内で4人組や5人組を組み、共同で購入して使用することが多かったので、私も4人組などのメンバーに入れてもらっていました。4人組では耕耘機を動かすオペレーターが決められて、その人が動かしていました。当時、私は所属した4人組の中で一番若かったので、同じ組の先輩から、『お前、動かせ。』と言われてオペレーターを務めていました。オペレーターは、耕耘機などを動かすと1反当たりの手間賃をもらうことができ、また、手間賃とともに必要経費ももらい、機械の燃料代や爪代などの実費を差し引いた額を収入とすることができましたが、このお金は積み立てられ、4人組が次の機械を購入するための資金としたり、使用している機械のメンテナンス代に充てたりしていました。このように、当時は農家何軒かで一つの農業機械をとても大切に取り扱っていたのです。
 耕耘機を使うようになったときには、牛と違って農作業が随分と楽になったことが実感できました。また、畝立てなどの作業でも、きれいに仕上げることができるなど、作業効率が格段に良くなったことを憶えています。サトイモの栽培において、まず導入された機械は耕耘機でした。そのほかには、昭和の終わりころのことだったと思いますが、最初から高畝にしてビニールを掛け、そこへイモを差し込んで植えるマルチ掛けになったり、種イモは全て手作業で植えられていましたが、植え付け機や掘り取り機ができたりしました。」

(3)農業に従事して

 ア サトイモを使って

 「私(Aさん)は父から、『お前が農業を。』と言われたこともあって、これまで農業に従事してきました。高校を卒業してからは、農業の仕事を主としながら、農閑期などには地元で農業以外の仕事に従事していたこともあります。また、豊岡の農協管内では豚を飼う人が多く、私の家でもサトイモの親イモを餌に利用して、多少ではありますが養豚を行っていた時期がありました。
 豊岡では多いときで40戸から50戸の農家が、規模は小さいながらも5頭から10頭くらいで養豚を行っていましたし、同程度の農家がニワトリを飼っていたことを憶えています。私の家でも養豚の終わりのころには、母豚を10頭ほど飼って子豚を産ませていましたが、養豚を始めたときには、農協の世話を受けて子豚を買い入れて、それを肥育して出荷していました。親イモだけで餌が足りないときには、米糠(ぬか)を豚の主食にしたり、近所の食堂へ廃棄されている残飯をもらいに行ったりしていたことを憶えています。
 畑仕事や養豚、農閑期の仕事など多くの仕事を掛け持ちするような状態ではありましたが、当時は所有する農地がそれほど広くなかったので、農作業で忙しくてたまらない、ということはありませんでした。」

 イ 減反政策への対応

 「私(Aさん)は、女早生がこの地域での栽培に向いている理由は、やはり風にあるのだろうと思っています。この地域で一般的な野菜を栽培していれば、やまじ風が吹くと飛ばされてしまう可能性が高く、さらに、風の影響を受けるため、ビニールハウスなどの施設を建てることも困難であることから、そう言えると思うのです。
 また、昭和45年(1970年)ころからは、水稲の減反政策が始まり、地域の水田の3分の1程度の規模で畑作に切り替えていく必要がありました。米作りをやめた田んぼで何を作るか、米の収益に見合う作物は何か、と判断を迫られたときに、農協の部会では『サトイモかヤマイモしかないぞよ。』ということで意見がまとまって栽培が強化されていったのです。次に何を栽培するかということを地域全体の課題として考え、早い段階でサトイモの栽培に切り替えることができたことは、私たち農家にとっては大変ありがたいことだったのです。」

 ウ 農業今昔

 (ア)4t取り

 「私(Aさん)が若いころと今とを比べると、サトイモの反当たりの収量は全く違います。サトイモを作り始めたころには収量が貫目で表記されていて、サトイモを掘ったときに他の農家の方と、『うちは1反(約10a)に400貫目(約1.6t)あったぞよ。』とか、『うちは300貫(約1.2t)しかなかったわい。』などという、貫目での自慢話が交わされていたことを憶えています。しかし、今では『1,000貫(約4t)あった。』というようなことを聞きます。これを『4t取り』と言いますが、現在の反当たりの収量の目標は、大体3tから4t程度になっているので、収量が大幅に伸びていることが分かります。ただ、最近では面積が広くなったこともあって、サトイモの病気や害虫による被害が増えてきたことで苦労しています。
 サトイモの病気には、葉が倒れてしまう疫病や、芽が出るものの成長途中で腐ってしまう炭疽(そ)などがあります。これらの原因は連作によるものかもしれませんが、全国的に見てもこのような病気が発生しているようなので、断定ができません。病気は年によって出る年と出ない年があり、この辺りでは5年くらい前(平成26年〔2014年〕ころ)から出始めましたが、それに対応する農薬がないので、病気にどのような対応をしていくかが生産者の課題となっています。私が若いころには、サトイモは疫病に罹(かか)ることが全くなく、消毒をすることが少ない作物だったのですが、栽培面積が広くなるにつれてそれが変わってきたように思います。」

 (イ)ウンカと渡りスズメ

 「米に関しては、ウンカなどの害虫が少なくなり、低農薬でも収穫できるようになってきています。今年(令和元年〔2019年〕)は、何年かに1回のウンカの発生が多い年でした。もし、ウンカの被害を受けると、田んぼの中に土俵ができたかのように、稲が円形に濃い茶色に変色するので、『おい、土俵ができたぞ。秋場所が始まったぞ。』などという会話が農家の間で交わされます。
 ウンカは中国から飛来していて、その発生時期になると飛来虫の規模を予測した情報が寄せられます。かつて、ウンカの飛来ルートの研究が行われたときに、中国で目印を付けたウンカが日本で発見されたことで解明されたそうです。ウンカはとても小さい虫であることから、偏西風などの風に乗って飛来するのだと思います。
 また、昔、私(Aさん)の家の農地の近くに、わずか100坪程度の竹林があり、稲穂が実るころになると大量のスズメが飛来していたことがありました。スズメには、軒スズメと渡りスズメの2種類がいて、渡りスズメはちょうど稲の穂が実ったころに、中国や朝鮮半島からこちらへ渡って来るのです。スズメが飛来すると、米が大きな被害を受ける前に駆除しなければならないため、網を準備して、夜になってスズメが寝静まると、物音を立てないように注意しながら静かに竹林へ行き、そこで休んでいるスズメを一網打尽にしたこともありました。このとき、網は竹林の一方に立てておき、反対側から大きな音や声でスズメを驚かせ、網へと追い込んでいたことを憶えています。私の経験では、一網で2万羽ほどのスズメを獲ったことがありました。それだけの渡りスズメがいたので、竹がその重量でかなりしなっていましたし、飛び立つときに排出された糞(ふん)で竹の根元の辺りが真っ白になっていたことを憶えています。最近では住宅が増え、スズメが休むことができる場所が減ってきたことで、渡りスズメの飛来がめったになく、米が被害を受けることは少なくなってきたと思います。」

(4)やまじ風が吹く

 ア 海を見る

 「やまじ風が吹いていたときのことです。国道11号で大型トラックの荷台のシートの一部が風の影響で外れ、運転手さんが必死に直そうとしていましたが、風が強いためにうまく作業ができずに困り果てていました。そのとき私(Aさん)はその運転手さんに、『運転手さん、適当に直して10分だけ西へ車を走らせなさい。』と言ったことがあります。すると、その運転手さんが、『そんなことで風が避けられるのですか。』と尋ねてきたので、私は、『あれ、海を見てみなさい。風の吹いている範囲だけが黒っぽい色になっているでしょう。それを越えれば風が吹いていないということです。』と答えました。運転手さんは私の話を信じてくれたようで、『それなら』と、早速トラックを動かしていました。数日後、国道沿いの農地で仕事をしていると、『こないだ(この間)はありがとうございました。』という声が聞こえてきたので、誰だろうかと思って見てみると、やまじ風が吹いたときに出会った運転手さんでした。運転手さんは、『教えてもらったとおり、10分ほどトラックを走らせたら風が止みました。』と話してくれました。
 やまじ風が吹いているとき、どこの範囲で吹いているのかということは、海を見れば分かります。風が吹き付けている所は、海面で潮が巻き上がっている様子を見ることができ、一方、風が吹き付けていない所では、とても穏やかな海面を見ることができるのです。」

 イ 変化を感じる

 「地元に住んでいると、海や空の様子から、やまじ風が吹くのではないかと予想することができます。例えば、風が吹き始める前には山鳴りが聞こえてきます。山鳴りは山に吹き掛かった風の音で生じ、木々に風が吹き付け、『ゴー、ゴー』という、地響きのような音が聞こえてくるのです。この音は、今でも年に何回かは聞こえてきます。また、雪が降る季節にはやまじ風が少ないと言われていますが、山が雪化粧をしているときに風が山に吹き付けると、降り積もった雪が空に舞い上がっている様子を見ることができます。かつて、私(Aさん)が遊漁船を所有していたとき、海に出ていると気圧が下がり始めたので、『これは帰らないかんなあ』と思ったところで風が吹き始め、それが猛烈な風であったため豊岡の方へ戻ることができず、やむを得ず他の港へ入港し、その港にいた知り合いの漁師さんに頼んで船を係留させてもらい、半日くらい経(た)って風が止んだころに船を引き取りに行ったことを憶えています。」

 ウ 強風への対策

 「私(Aさん)は、最近になって地元の方から、『昔に比べたらやまじ風が吹くことが少なくなった。』とか、『風が弱まって吹く範囲が広くなった。』、『吹く時間が長くなった。』などという話を聞くことがありました。地元に長く住んでいると、この辺りに吹くやまじ風の吹き方や強さが変わってきているということがよく分かるのでしょう。確かに今と比べると、昔は強風が吹き付ける範囲がはっきりとしていた局地風だったと言えると思います。
 当時はその強風への対策として、各家では屋根瓦が吹き飛ばされないように、屋根に石を置いていたことを憶えています。この辺りでは、昭和30年代になると茅葺(かやぶ)き屋根の家は数が少なくなっていて、何軒かしかありませんでした。私は屋根の葺き替えの作業を手伝ったことがありますが、屋根に使う茅は約30cmおきに縛られていて、強度が保たれていました。茅が古くなると強度が落ち、強風で茅の一部が飛んでしまうことがあったのではないかと思いますが、大きな被害が生じたことはなかったと思います。
 また、私は小学校のすぐ近くに住んでいます。現在、小学校の運動場周りにネットが設置されていますが、このネットが設置されていないときには、やまじ風のような強風が吹くと、運動場の砂が風で巻き上げられて、私の家にも降り懸かっていました。しかし、このネットがやまじ風を防いでくれるので、風の音も聞こえなくなりました。ネットのあるなしでこれほど違うものか、と感心したことを憶えています。」

(5)豊岡のくらし

 ア 子どもの遊び

 「私(Aさん)が子どものころ、昭和20年代には同級生たちと外で遊ぶことが第一の娯楽でした。私が住む地域には100戸ほどの家があり、6人の同級生がいて、学年が近い先輩や後輩を含めるとそれなりの人数になっていたので、一緒に遊ぶ友達が多く、楽しく過ごしていたと思います。夏休みには行かない日がないと言えるくらい、ほぼ毎日友だちと海へ行って泳ぎ、秋になると、大きなムクノキに登ってその実を採ったり、竹やぶがあったので、子どもだけで竹を伐り出して竹馬を作り、その高さ比べをしながら遊んだりしていたことを憶えています。また、紙鉄砲を作って大きな音を鳴らしたり、二股になっている木の枝をうまく利用してゴム銃(パチンコのこと)を作ったりしました。自分たちでそのときそのときの遊びを考えていたので、特に何をして遊んだということはありませんが、友達と外に出て、自然を相手に使えるものは何でも利用して元気に遊んでいたことが思い出されます。」

 イ 寒川の映画館

 「私(Aさん)の家では、昭和39年(1964年)の東京オリンピックのころにテレビを購入しました。テレビが家に来るまでは、映画を観(み)に行くことが多かったと思います。この辺りで映画館は土居(どい)(現四国中央市)に1軒と、伊予寒川駅から東に1kmほど行った、旧道沿いに1軒あったことを憶えています。
 当時の寒川には佐々連(さざれ)鉱山からの索道が設置されていて、寒川港へ鉱石が下ろされて船に積まれていたので、人が集まる場所として旅館があったり映画館があったりして、とても賑(にぎ)やかでした。当時、伊予寒川駅の近くにあった何軒かの旅館は、鉱山の操業と大きく関係していると思います。
 私が寒川へ映画を観に行くときには、自転車を使っていました。家族で映画を観に行くときには、父が運転する自転車の荷台に母が乗り、私がその後を自転車で追っていたことを憶えています。何の映画を観たか、ということまでは憶えていませんが、時代劇をよく観ていた印象が残っています。寒川の映画館には舞台があって、芝居も行われていました。また、観客席が畳敷きになっていて、後方には2階席があり、そのすぐ下の所には映写機を置くスペースやトイレがありました。当時、映画を観に行くことはとても楽しみなことで、映画を観た友達からその内容を聞いていると、『おもしろそうだなあ』とか、『それ、観たいなあ』と思うことがあり、実際に観に行くときには、本当にうれしく思っていました。
 テレビが各家庭に普及するまでは、映画がとても人気で観に行く人が多かったことから、豊岡にあった駄菓子屋では映画のブロマイドが販売されていました。そのブロマイドや配布された映画館の上映案内チラシなどを見たり、有名な映画を上映するときに来ていた街宣車の宣伝を聞いたりすると、とても観に行きたい気持ちになっていたことを憶えています。」

 ウ 大切な水

 「私(Aさん)の家が所有する農地では、農地の東側の豊岡川と、西側にある鎌谷川という小さな川に水利権があったので、川や水路の整備を行いながらその水を使っていました。この地域は川に挟まれていて、農業用水を得るには好立地のようですが、どちらの川も水量が豊富とは言えず、雨が降らなければ枯れ川のような状態になっていました。また、地下水を汲み上げるためのポンプが設置されていましたが、それでも水が不足してしまうことがあって、昔はそれが心配なあまり、他の地域の方から『あの地域へは嫁にやるな。』というようなことが言われていたと聞いています。実際、私の母が若いときには、何十銭かの賃金で水を確保するための井戸掘りを手伝いに行って、掘り出した土をモッコ(運搬用具)で運んでいたそうです。『あそこは水不足で苦労するぞ』ということを、そのような言葉で表現していたのでしょう。
 一方、地域の歴史をひもといてみると、戦前のことでかなり古い話にはなりますが、この辺りでも人々が洪水の被害に遭って困ったこともあったようで、そのときには近くの学連寺という所へこの地域の住民が何人も移り、復旧が完了するまでの間、そこでの生活を余儀なくされたというようなことがあったと記録に残されているそうです。
 この辺りは地下水も豊富にあるとは言えません。海岸近くになってやっと地下水が上がって来ているので、汲み上げるポンプが海寄りに設置されている状態です。私の祖父が若かったころには、海岸近くに井戸が掘られていて、釣瓶(つるべ)で水を汲み上げていたと聞いています。私が子どものころには既に簡易水道が設置されていて、山城(やましろ)(小字名)という所に私の地域に水を供給するための水源地がありました。しかし、ここも水が豊富にあるわけではなかったので、1戸につき蛇口が一つしか付けられておらず、水が出ない場合もあったようで、そのときには、バケツで水を川から汲んで来て風呂に入れたり、生活用水として使ったりしていました。このような水汲みの仕事は、私たち子どもの役割になっていたことを憶えています。」

 エ 手伝いから得られるもの

 「風呂に水が溜(た)められると、薪(まき)を使って沸かしていました。日々の生活を不便なく送るためにも、たくさんの薪が必要だったので、冬場になると私(Aさん)の家が所有している山へ週末ごとに何度も行って伐り出し、必要なだけの薪を確保しておかなければなりませんでした。
 私は中学生になったころから、薪の伐り出しの作業を手伝っていました。薪を運び出すための木製の荷車を作ってもらい、それを担いで山道を登っていたことを憶えています。私がこの手伝いをすることで、母が心から喜んでくれて、安心してくれていたことが強く印象に残っていて、母が喜ぶ姿を見ると、私もうれしい気持ちになっていました。」

 オ 地域にくらして

 「私(Aさん)は、豊岡にくらしてきて良かった、豊田で良かった、という思いを今でも強く持っています。このような思いを持つことができるのには、大きな理由があります。それは、豊田自治会の総会が開かれたときには、新しくこの地域に来られた方が紹介されます。すると、この地域の人たちは、すぐに新しく来られた方を受け入れ、古くから住んでいる方と同じように付き合うことができます。これにより、脈々と受け継がれてきた地域の伝統行事、例えばお祭りで太鼓台をかく(担ぐ)というようなことが、地域の人々によって守られていきます。これがこの地域の良さであり、大切にしていかなければならないことだと強く思うことができるからなのです。」