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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 手漉き和紙

(1)手漉き和紙とともにあったくらし

 ア 子どものころの記憶

 「私(Aさん)の家は祖父の代から続いていた手漉き業者で、明治時代の末ころには紙漉きを始めていたかもしれません。祖父は金生町(現四国中央市)下分住吉地区で生まれ、元々はそちらで手漉き和紙を製造していました。父は、大正7年(1918年)生まれで、後に上分町(現四国中央市)花園地区に移り住んだそうです。私が子どものころ、上分町には手漉き業者が16軒もあり、そのうち花園地区には私の家を含めて7軒くらいの手漉き業者がありました。手漉き業者が多かったのは金生川の西側の地区でしたが、東側の下分川原田地区にも結構ありました。手漉き業者が多かった地区では地下水が豊富であったため、紙漉きに必要な水を容易に得ることができたのではないかと思います。私の家の周辺のほとんどの家では、生活用水として井戸水などの地下水を利用していました。私の家は金生川から少し西側にありますが、川の水位が上昇し濁った水が流れているときには、家の井戸水も濁っていたことを憶えています。私の家では、家族みんなで手漉き和紙の製造に携わっていたため、子どものころから家の仕事場で紙漉きの作業風景をよく見ていました。原料のコウゾを煮沸した後、荷車に積んで河原へ運び、近くを流れていた金生川の流れに晒(さら)してあく抜きをしていました。金生川の西側の堤防が高かったので東側の堤防からゆっくりと河原へ下りて、川の中に石を並べてコウゾが流されないようにしてから、流れる水に晒してあく抜きをしていました。私は子どものころ、原料のあく抜きを行うときには、荷車を後ろから押して手伝っていたことを憶えています。」

 イ 手漉き和紙の道へ

 「私(Aさん)は、高校生のころまでは家業を継ぐつもりはなく、地元の高校を卒業すると東京の大学に進学しました。大学を卒業した後は事務系の職に就こうと考えていた時期もありましたが、結局は家業を継ぐことに決め、23歳から父親の仕事を手伝いながら本格的に紙漉きを始めました。そのころ、花園地区だけでも手漉き業者が結構残っていましたが、その後は減少していきました。私は、紙漉きを始めたころ父から手ほどきを受けました。子どものころから紙漉きの仕事場をよく見ていたので、大体の様子は分かっていたつもりでしたが、実際にやってみると、簡単には売り物になるような紙を漉くことができませんでした。それでも、根気よく父親の指導を受けていくうちに少しずつ紙漉きに必要な技術を身に付けることができて、半年くらい経(た)ったころにはある程度の品質の紙を漉けるようになっていました。弟は地元の高校を卒業後、京都市内の会社で4年ほど勤務した後に帰郷し、父や私と一緒に紙漉きを10年くらいしていました。その後、弟は機械抄き製紙工場で働くことになりました。私が37歳のときに父が亡くなり、父に代わって紙漉きの親方になりましたが、その当時、私はこの辺りの手漉き業者の中で最も若い親方でした。」

 ウ 家で雇っていた従業員

 「私(Aさん)の家は比較的規模の小さな手漉き業者でした。従業員を3人雇っていて、1人が紙漉きを行い、2人が乾燥と仕上げの仕事を行っていました。古くから営業していた手漉き業者の中には、従業員を4、5人くらい雇って多くの和紙を製造している業者や、身体障がい者の方を数人雇って和紙を製造している業者もありました。この辺りでは、紙を漉くのは男性で、女性は乾燥の仕事に従事するというのが一般的で、最盛期でも紙を漉いていた女性は1人か2人くらいしかいなかったそうです。私の仕事場では、私よりも随分年長の女性の従業員2人に乾燥と仕上げをしてもらっていました。県内でも、南予地方では女性も紙漉きを行っていていました。以前、五十崎(いかざき)(現内子(うちこ)町)の天神産紙工場を視察したとき、主に女性が紙漉きや乾燥の仕事をしていて、原料の配合や調製といった下ごしらえの作業を男性が行っていたのを見たことがあります。そのように、仕事の分担については、県内でも地域によって違いが見られました。」

 エ さまざまな和紙

 「私(Aさん)の家では、子ども時分には書道用の半紙のほかに障子紙も製造していました。障子紙は結構厚さがあり、漉いた後の紙床(しと)(漉いた紙を1枚1枚積み重ねていったもの)が重たかったことを憶えています。障子紙の原料として、最初はコウゾを使用していましたが、三木特種製紙が合成化学繊維を使用した障子紙を商品化してそれがヒットすると、手漉き業者も合成化学繊維を入れて障子紙を製造するようになり、私の家でも何年か同様の障子紙を製造していた時期がありました。ところが、同じ合成化学繊維を入れた障子紙でも、機械抄きの障子紙の方が手漉きのものに比べて均一で値段も多少は安かったので、次第に手漉きの障子紙は売れ行きが悪くなり、その後、私の家では書道用の半紙ばかりを製造するようになりました。
 書道用の半紙は、漢字用に使われ一般的に『書道半紙』と呼ばれているものと、かな文字用に使われる『改良半紙』に分けられます。改良半紙は、ミツマタ、雁皮(ジンチョウゲ科の落葉低木で、暖地の山地に自生する)を原料とするやや薄めの紙で、単価は書道半紙の1.5倍から2倍くらいしていました。書道半紙は、ざらざらした手触りでやや光沢が少ないのに対し、改良半紙は、ツルツルした手触りで光沢があるという違いがあります。また、書道半紙の厚さは改良半紙の1.5倍くらいあります。書道半紙は、かつては一締めが2千枚でしたが、それでは売れ行きがよくなかったため、1970年代のオイルショックの後くらいから一締めが千枚に変わりました。改良半紙は価格が高いので、一締め500枚で販売されています。」

 オ 和紙の原料

 「かな書き用の改良半紙は、ミツマタ、雁皮、マニラ麻を混ぜて製造します。書道半紙はそれらにパルプを加えて製造しますが、昔は、パルプとマニラ麻などに複写用紙の故紙を混ぜて漉くことも結構ありました。パルプだけで漉いた紙は粗(あら)くなることがありましたが、複写用紙のような薄い紙は、叩解すると繊維が細くなって大きな繊維の間に入り込み、良い具合の紙を漉くことができたのではないかと思います。原料問屋さんでは、原料が樹皮を取り除いた状態で販売されていました。私(Aさん)は、主に地元の毛利商店という原料問屋さんから製紙原料を仕入れていました。マニラ麻はフィリピンからの輸入物ですが、かつては125kgくらいのマニラ麻が塊状で販売されていて、購入後は煮釜で焚(た)いてあく抜きをして漂白した後、ビーター(叩解機)で細かく砕いて使っていましたが、とても手間が掛かりました。その後、現地で処理した後に板状のパルプになった状態で輸入されるようになり、とても便利になりました。毛利商店は、社名の変わった今でも製紙原料を扱っていて、和紙を製造している業者はそちらから原料を仕入れていると思います。また、毛利商店の少し東にあった真鍋商店では、新宮(しんぐう)村(現四国中央市)などの山間部からミツマタなどを買い付けていました。」

 カ 仕事場の間取り

 「私(Aさん)の家は小さな手漉き業者で、母屋のすぐ裏側に仕事場があり、仕事場が狭かったこともあって、原料を煮沸するための煮釜は仕事場の外の道路縁に置いていました(図表2-1-2参照)。昔の仕事場には漉き舟が3杯ありましたが、40年くらい前に仕事場を改装したときに2杯に減らしました。仕事場には、ビーター、圧搾に使用するジャッキ、ボイラー、油タンクのほか、2台の乾燥機が設置されていました。私の子ども時分のボイラーはレンガ造りで、焚き口で石炭を焚いて蒸気を発生させていたことを憶えています。その後はボイラーの燃料が重油に替わったため、重油を入れるためのタンクを仕事場に設置していました。今は、ボイラーの燃料には重油ではなく灯油を使用するのが主流になっているようです。ボイラーと乾燥機、煮釜は鉄管で結ばれており、ボイラーから出てくる蒸気が鉄管を通って乾燥機と煮釜に送られる仕組みになっていました。ボイラーから出た蒸気が煮釜に送られてくると、すごい勢いでお湯が沸いていたことを憶えています。また、仕事場の地下には収納タンクがあり、原料の漂白に使用する晒し液やネリ(粘剤)の原料などを貯蔵していました。」

 キ 手漉きの工程

 (ア)蒸解から漂白まで

 「まず、煮釜の沸騰した湯の中に原料と苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を一緒に入れて、2、3時間くらい煮沸しますが、これを蒸解といいます。苛性ソーダはあく抜きに加えて墨抜きの効果もあり、墨の付いた故紙を煮たときには黒い汁が出ていました。次に、苛性ソーダを抜くために何回も水を入れ替えながら水洗いをします。水洗いをして苛性ソーダが抜けると、原料を晒し液に晒して漂白します。このとき、パルプ、コウゾ、稲藁(わら)などの原料ごとに分けて行っていました。晒し液で晒すことで原料が白くなるだけでなく繊維が柔らかくなる効果もあります。昔は、固形の晒し粉を水で溶かしたものを晒し液として使用していました。その後、液体の塩素を晒し液として使用していた時期があり、私(Aさん)が紙漉きをやめる4、5年くらい前から次亜塩素酸ソーダを使用するようになったと思います。次亜塩素酸ソーダは、灯油を入れるときに使用するポリタンクに入って販売されていました。次亜塩素酸ソーダは漂白力が非常に強いため、液体の塩素を使用していたときに比べて、半分くらいの量で同じ効果を得ることができました。次に、漂白して白くなった原料を水洗いします。薬品が残っていると墨の色に影響するため、できるだけ取り除きます。また、原料の繊維にゴミが付着していたときには、一つ一つ手で取り除いていました。」

 (イ)叩解から圧搾まで

 「水洗いとゴミの除去が終わると、叩解作業に移ります。原料をまとめてビーターで細かく砕きます。コウゾの繊維は非常に長いため、コウゾをたくさん入れるときれいで強い紙ができました。井戸水を張った漉き舟に砕いた原料を入れ、ネリを加えてかき混ぜます。ネリを加えることで水の粘度が高くなり、漉き舟の中で原料の繊維が沈んだり絡み合ったりすることを防ぎ、紙を漉くときに簀(す)から水が落ちるのを抑える効果があります。その後、竹の簀をはめた桁で乳状の液を数回すくいながら、それを前後左右に揺り動かすことによって、ムラのない均質な紙に仕上げます。そこで簀を桁から外し、板の上にうつ伏せにして簀だけを剝がして紙を板の上に移します。そのような作業を繰り返して漉いた紙を1枚ずつ板の上に重ね合わせていきます。私(Aさん)の仕事場では、従業員は特定の仕事だけを行っていましたが、私はいろいろな仕事をしなければならなかったので、紙を漉く合間に原料の配合や調合を行ったり、原料をビーターで叩解したりしていたこともよくありました。
 紙を漉いた後、紙床の上に厚めの板を置き、その上に石を3、4個載せて一晩置いておくと、水分がポタポタと抜け落ちていました。それだけでは不十分なのでジャッキで圧搾して脱水していました。昔のジャッキは、らせんを利用した仕組みになっていて、2枚の板の間に紙床を入れ、紙を傷めないようにゆっくりとらせんを回転させながら締め付けていました。ジャッキをゆっくりと少しずつ締めていくと、だんだん回らないくらい重たくなってきて圧搾することができました。雨が降った日には、木の部分が湿気を帯びて、力を入れて回転させると棒が抜けてしまって危ない思いをしたことがありました。私は長い間そのような古いジャッキを使用していましたが、油圧式のジャッキに替わってからは簡単に圧搾できるようになりました。
 簀で漉いたときの紙は書道半紙8枚分の大きさですが、それでは大きすぎてジャッキで圧搾するときに均一に圧力が掛かりません。そのため、ジャッキである程度の強さで何回か締めてから大きな包丁で半分の大きさに切り、それを重ねて締めていました。書道用紙8枚分の大きさでは乾燥させるときにも手間が掛かるため、半分の大きさの方が乾燥の仕事もやりやすいのです。市販の包丁は小さくて大きな紙を切りにくかったため、私は近くの金物店で特別に注文して仕入れてもらっていて、砥(と)石で研ぎながら使っていました。」

 (ウ)乾燥から仕上げまで

 「私(Aさん)がまだ小さかったころには、漉いた紙を張り板に張り付けて天日干しで乾燥させていました。張り板が重たかったので、女性が運ぶのは大変でしたし、雨天の日には乾燥させることができませんでした。少し大きくなったころから三角乾燥機を使用するようになり、天候に左右されず乾燥させることができるようになったため、作業は効率化されました。三角乾燥機からは大量の蒸気が絶え間なく出ていたため、乾燥機の傍(そば)にいると、冬場は暖かくて良いのですが、夏場はとても熱くて、まるでサウナ風呂に入っているような状態であったため、従業員は下着1枚になって乾燥の仕事をしていたことを憶えています。三角乾燥機の一つの面に書道半紙4枚分の大きさの紙を2枚張り付けると、乾燥機が1回転したときには十分に乾燥していて、乾燥した紙を剝がして新たな紙を張っていました。乾燥機に張った紙は、乾燥すると少し縮んでしわが寄ってくるので、その前に刷毛(はけ)で軽く伸ばさなければなりませんでした。刷毛には棕櫚(しゅろ)を使った硬めの刷毛や、馬の毛を使った柔らかい刷毛などがありましたが、この辺りでは馬の毛を使った刷毛が使われていたと思います。
 私は、自分の仕事場に乾燥機を導入する前に、川原田地区の手漉き業者が併設した機械抄き工場で、他の手漉き業者と共同で乾燥機を使用していた時期がありました。そのときは、花園、川原田、小山、春日、金沢の各地区の手漉き業者が共同出資して、原料のマニラ麻を処理する施設と、蒸気を利用する三角乾燥機を設置しました。それぞれの業者が、毎日自分の家で紙を漉いて圧搾した後、共同施設まで紙を運んで乾燥機で乾燥させていました。私は、従業員の女性に共同施設で乾燥の仕事をしてもらい、乾燥が終わると仕事場へ持ち帰って裁断仕上げを行っていたことを憶えています。私は乾燥が終わると、その日のうちに裁断仕上げを行っていましたが、後日にまとめて裁断仕上げを行っていた業者さんもいました。乾燥した紙20枚を一つの単位として、それを20重ねた400枚分の紙を裁断機で耳を落としたり半分に切ったりして仕上げていき、最終的には1,000枚にして包装していました。」

 ク ネリの原料

 「私(Aさん)は、トロロアオイ(アオイ科の一年草)の根やノリウツギ(ユキノシタ科の落葉低木)の樹皮から採ったネリを使用していました。トロロアオイの根を潰すと粘液が出てきます。以前はハンマーでトロロアオイの根を叩(たた)いて潰していましたが、最近ではミキサーを使ってミンチ状にするようになっています。ミンチ状になったトロロアオイを木綿製の袋で濾(こ)すと、とろりとしたネリが漏れ出てきました。私が書道半紙を漉くときには、価格の比較的安いトロロアオイを原料としたネリを使っていました。毎年秋になると、製紙原料を扱っていた井原商店という問屋さんから、縄で縛ってある状態のトロロアオイを購入していました。30kgのトロロアオイが6千円から7千円くらいで販売されていたと思います。私は、1年分のトロロアオイを購入し、仕事場の地下のタンクに防腐剤を入れて保管していました。井原商店では、茨城県の方の農協と契約していたのだと思いますが、貨物列車で貨車一杯になるくらいのトロロアオイを仕入れていて、毎年、決まった時期になると持って来てくれました。トロロアオイは30℃を超えると粘度がだんだん下がってきます。ネリをたくさん加えていると、多少は小さなゴミも混じることがあります。夏場には、トロロアオイから採ったネリは、雑菌が湧くためか少し黄色く変色することもありますが、原材料の腐敗が少ない冬場にはそうしたことがありません。そのため、冬場の寒い仕事場で紙を漉くのはつらいのですが、非常に良質な紙ができます。和紙の流通業者の間では、冬場に漉いた『寒漉き』の紙はよく締まっていて墨付きが良い、という定評がありました。
 ノリウツギの樹皮からネリを採る製法はトロロアオイのときと同じです。私たちはノリウツギのことを木タズと呼んでいました。この辺りのノリウツギは、温暖な気候のためなのか樹皮が薄いのに対し、北海道産のノリウツギは、寒い気候から身を守るために1cmくらいの厚い樹皮で覆われています。表面の黒い皮を取り除いた後、内側の白い皮が粘り気の強いネリの原料となります。トロロアオイから採ったネリには、小さな黒いゴミが混じっていることがよくありましたが、ノリウツギから採ったネリは粘度が高く、とてもきれいなものでした。私は、ほとんどの場合はトロロアオイから採ったネリを使用していましたが、改良半紙を漉くときには、紙に少しでもゴミが混じらないように、ノリウツギから採ったネリを使用するようにしていました。また、ネリの粘度が低くなる夏場のある時期にも、ノリウツギから採ったネリを使用することもありました。ノリウツギの樹皮は常温で保存すると短い期間で腐りやすいので、少し煮沸した後でホルマリン漬けされたものが流通していました。井原商店は、煮釜で煮沸した後、四斗(約72ℓ)桶(おけ)にノリウツギの樹皮を入れてホルマリンを混ぜた状態で持って来てくれたため、1年から2年くらいは保存することができました。北海道産のノリウツギは価格が高く、当時は四斗桶に入ったものが6、7万円くらいで販売されていたと思います。」

 ケ 出荷

 「以前は、出荷するときに使用する包装紙も自分たちで漉いていました。その日の仕事が終わった後、残った垢(あか)水で少し厚めに漉いた紙を包装紙として使用しており、私(Aさん)たちはそのような紙を『文庫紙』と呼んでいました。文庫紙にはゴミが混じっていたので、上から紙を貼り足してきれいな状態にして包装していました(写真2-1-5参照)。
 私は7年前に紙漉きをやめましたが、まだ紙漉きをしていたころ、書道半紙の単価は1枚10円くらいで、一締め千枚を1万円くらいで地元の紙問屋さんに出荷していました。そのころ、東京の小売店などでは、書道半紙一締めが2万円から2万5千円くらいで販売されており、東京では、こちらの手漉き和紙にそのくらい高い価値があると認められていたことになります。また、市内の問屋さんのほか、東京の書道家の竹田悦堂先生や小松(こまつ)町(現西条(さいじょう)市)の書道用品専門店にも書道半紙を直接出荷していて、およそ3分の1ずつの割合で出荷していたと思います。竹田先生は、長年にわたり毎日書道展の審査員を務めていた方で、かな文字の作品を書くことが多く、各地で展覧会を開いていました。先生に送っていた書道半紙は『高風(こうふう)』という商標で、先生自ら商標を作って送ってきて、これで押してほしいと依頼されました。私は毎月、書道半紙一締め千枚が12は入るケースを1ケースか2ケース先生に送っていました。先生が開かれていた書道教室には多くの生徒さんがいたので、書道半紙を大量に購入してくれていたのだと思います。先生とは私の父の代から付き合いがあり、私が手漉き和紙の製造をやめることを伝えたときには、とても惜しんでくれたことを憶えています。」

 コ 休みなく働く

 「私(Aさん)の家では、朝7時くらいから仕事を始めることが多く、早いときには6時半から仕事を始めていました。乾燥した紙は大体その日のうちに裁断することにしていたので、1日の仕事が終わるのはいつも夕方6時から6時半くらいになり、かなり長い時間働いていたと思います。私は紙を漉くのがそれほど上手だったわけではありませんでしたし、紙を漉く仕事以外にも原料の配合や調合などの細かな仕事が結構あったので、1日に漉くことのできる紙は精々500枚くらいでした。手漉き業者の中には、1日に750枚も紙を漉くことができる方もいたそうですが、私がそれだけの紙を漉くとしたら、恐らく8時間以上はかかっていたのではないかと思います。また、当時は決まった週休日もなく日曜日に休むくらいのものでしたが、私も含めて手漉き業者の多くは、原料の蒸解作業には手間が掛かるため、なるべく日曜日に行うようにしていました。そのため、私は子どもを遊びに連れて行ってやることがなかなかできず、よく文句を言われたことを憶えています。手漉き業者に限らず、自営業者は家にいると何かしら用事があるところが会社勤めとは違うところだと思います。」

 サ 紙漉きをやめて

 「私(Aさん)は、平成10年(1998年)に県からえひめ伝統工芸士に認定され、70歳まで紙漉きを続けていました。ところが、後継者がいなかった上に、乾燥の仕事に来てくれていた女性の従業員から仕事を辞めたいという申し出があったので、それを機に紙漉きをやめる決心をしました。70歳を過ぎると、そろそろ後始末のことも考えなければならず、仕事場の機械をほったらかしにしてやめてもいけません。47、48年もの間紙漉きを続けてきたので、そろそろやめてもよいころだろうと思ったのです。私が紙漉きを続けていた間には、和紙の売れ行きも多少の浮き沈みがありました。バブル景気の時分は少しくらい和紙の売れ行きが良かったかもしれませんが、私の家では、私だけで漉き上げを行っており、あまりに多くの注文が入っても対応することができないため、ほどほどの注文が安定して入ることが最も望ましいことだと思っていました。幸運なことに、私が紙漉きを始めてからは、ほかの仕事をすることもなく、紙漉きだけで生計を立てることができました。私が紙漉きをしていたころは、伊予手漉き和紙振興会には私を含めて10人の会員がいましたが、現在は2人だけになっています。四国中央市と同じ東予地方には、西条市の石田地区と国安地区という周桑手漉き和紙の産地がありますが、近年はいずれの地区でも製造量は減少していると思います。南予地方では、大洲和紙を製造している天神産紙工場でも製造量は減少しています。西予(せいよ)市野村(のむら)町の泉貨紙も独特な製法をしていますが、伝統を守り伝えていくことは大変なことだと思います。」

 シ 手漉き和紙の魅力

 「私(Aさん)たちの地域で製造されている伊予手漉き和紙は、残念ながら伝統工芸品として全国的に知られているようなものではありません。昔ながらの製法であれば評価も違っていたかもしれませんが、この辺りでは機械抄きが発展したので手漉き和紙は影が薄くなっていったのではないかと思います。手漉き和紙は、その厚さが1枚ごとに違っていたり、同じ1枚の紙でも手前側と奥側で厚さが違っていたりして、機械で抄いた紙に比べると均一性では劣っているかもしれません。しかし、私は、そうした点にこそ手漉き和紙の良さがあるのではないかと思っています。
 現在、紙のまち資料館では毎週火、木、土、日曜日に手漉き和紙づくり体験が行われていて、私は隔週で講師を務めています。私の前に講師を務めていた手漉き業者の方から、自分の代わりに講師をしてほしいと依頼されたのがきっかけで、始めてから5年くらい経ちました。手漉き和紙づくり体験に参加する方のほとんどは子どもさんです。子ども同士で来ることは少なく、土曜日や日曜日などの休日に保護者と一緒にやって来ることがほとんどです。手漉き和紙づくり体験では、最大A3サイズまでの紙を漉くことができます。私は、参加者に簀を持ってもらい作業の手順を教えた後は、なるべく私に頼らずに作ってもらうようにしています。参加した方は、作業を終えた後、子どもさんはもちろん、大人の方も一様に楽しかったと言っています。地元の親御さんは紙の売買や加工に携わっている方が多いですが、ほとんどの方は紙漉きを経験したことがないようです。インターネットの観光・イベント情報などを通じてこちらの手漉き和紙づくり体験のことを知り、市外からやって来た方も結構いて、中には県外から来た方もいます。ところが、冬場になると平日の火、木曜日はあまりお客さんがいません。もっと大勢のお子さんに経験してもらい、手漉き和紙の魅力を知ってほしいと思います。」

(2)上分のくらし

 ア 子どものころの遊び

 「私(Aさん)は小学生のころ、学校から帰るとすぐに遊びに出掛けていました。その当時は近所に子どもがたくさんいて、学年が上の子や下の子も一緒になって遊んでいました。私の家の前には瓦屋さんがあり、成形した瓦を母屋と仕事場の間の空き地に並べて乾燥させていました。私は、その空き地で近所の友人たちとビー玉の取り合いをしたり、パッチン(メンコ)をしたりして遊んでいました。パッチンは厚紙を切って作った手製のものでした。また、家の裏に墓地があり、陣地の取り合いなどをしてよく遊んでいました。春には友人たちとよく魚釣りに出掛けていました。当時はどこへ行くにも徒歩で移動していて、私の家から比較的近くにあった溜(た)め池や、国道11号バイパスの東の方にある新池や土居池、古池という溜め池ではフナがよく釣れました。ときには金田町の飼谷池まで行って釣りをしたこともあり、そこでは大きなフナを釣ることができました。そのころ、私たちが使っていた釣り竿(ざお)は自家製で、リールも付いていない簡素なものでした。釣り針やテグス、重り、浮きなどの釣りに必要な道具は本町の仏具店で買っていて、その店には白髪のおばあさんがいたことを今でも憶えています。
 その当時、この辺りではお祭りのときによく相撲大会が行われていました。5月に行われていた上分神社の春祭りには、市内各地区の中学生による学校対抗の相撲大会が行われていました。金生町山田井の光厳寺の敷地内にある土釜神社でも、春祭りのときには相撲大会が行われていました。私は、三島の上柏町の滝神社で行われた相撲大会に招待されて参加したことを憶えています。川之江の城山公園の桜まつりのときには今でも相撲大会が行われていますが、最近では子どもたちが相撲を取っている光景を見ることは少なくなったように思います。」

 イ 上分町の商店街

 「私(Aさん)が小学生のころ、上分町の土佐街道沿いや新町には多くの店があって賑(にぎ)わっていました。大きな醤油(しょうゆ)屋さんや呉服店もありましたが、どちらも今はありません。私が通っていた上分小学校の前には文具店があり、そこでは駄菓子も売っていました。また、川原田橋の西詰にもおばあさんがやっていた駄菓子屋さんがあり、学校が休みの日にはよくそこへ通っていました。どのお菓子も値段が安く、店へはいつも10円玉を持って行き、長い飴(あめ)のようなお菓子を買っていたことを憶えています。」

 ウ 映画と青年団活動

 「昭和40年代には川之江市内にも栄館、八千代館など、映画館が結構ありました。当時の映画館では系列会社の作品を主に上映していました。市内で洋画を上映していた所は少なかったので、私(Aさん)は東映の時代劇をよく観(み)ていたように思います。また、父が生きていた時分のことなので随分前の話になりますが、市内の手漉き業者の従業員を慰労するため、映画大会が何回か開催されていました。そのときには、市内のほとんどの手漉き業者がお金を出し合って、市内の八千代館という映画館を借り切っていたと思います。
 また、私が紙漉きを始めた昭和40年(1965年)ころは、青年団活動がかなり盛んに行われていて、私は地域の青年団長を務めたことがあります。私が青年団に入っていたころには、青年団の人たちが、仕事が終わった後の夜間に公民館に集まって活動していました。当時は、青年体育大会が開催されていて、私はその県大会に出場することになり、松山(まつやま)の護国神社で相撲を取ったことがあります。12月になると各地区の公民館でクリスマスパーティーが催されていて、私は主に上分公民館のクリスマスパーティーに参加していましたが、金田など他地区の公民館のクリスマスパーティーにも何回か参加したことがありました。」

図表2-1-2 仕事場の間取り(改装後)

図表2-1-2 仕事場の間取り(改装後)

Aさんからの聞き取りにより作成。

写真2-1-5 Aさん自作の包装紙

写真2-1-5 Aさん自作の包装紙

令和元年12月撮影