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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 新宮鉱山①

 (1) 新宮鉱山の概要

 新宮鉱山は、四国中央市新宮町馬立(うまたて)に鉱山事務所があった。事務所、坑道口ともに標高約360mの山腹にあり、急峻(きゅうしゅん)な岩山を背に三方に開けたような場所である(図表2-3-5参照)。
 採掘されていた鉱石は主に銅鉱石で、鉱床発見の時代は明らかではないが、旧坑口に「元禄鋪(げんろくしき)」という名称があることから、相当に古く、歴史がある鉱山であることが予測される。
 明治44年(1911年)に旧宇摩郡の個人企業が採掘鉱区を設定以来、数々の個人企業や株式会社に転売され、最終的には昭和37年(1962年)に新宮鉱山株式会社が日本鉱業株式会社から操業を引き継ぎ、鉱石の枯渇による昭和53年(1978年)の閉山まで事業を続け、閉山直前の斜坑の延長は2,470mに達し、最下底部は海面下195mに至っていた。

(2) 新宮鉱山の仕事とくらし

 新宮鉱山での仕事や日常のくらしなどについて、Eさん(昭和6年生まれ)とFさん(昭和13年生まれ)から話を聞いた。

ア 鉱石を掘る

 「鉱山では昭和36年(1961年)ころに約80人が、多いときには107名の人が働いていて、坑内には40人くらいが入っていました。削岩機を使う人、巻き上げ機の運転手、トロッコに鉱石を入れる人、削岩機で崩した岩を運ぶ人が各現場に1人か2人ずついました。削岩機を使う人は7、8人いて、その人たちはそれぞれ違う現場に入っていました。それに、発破をかけた岩石を、翌日になって運び出す人もいました。8時から就業前の体操をして、8時15分から30分ころの間に坑内へ入り、昼になると1時間の休憩を取って、午後4時には坑外に出ていました。坑外へ出て仕事帰りに、コンクリートで作られた浴槽の共同風呂に入り、風呂から出ると着替えてから汚れた作業着を洗濯し、風呂の近くにあった乾燥場で乾かしていました。乾燥場は広くはありませんでしたが、そこは頭が焦げてしまうのではないかと思うくらい暖められていたので、洗濯した作業着をすぐに乾かすことができていました(図表2-3-6参照)。
 斜坑の一番奥は、高さが1m60㎝から1m70㎝くらい、幅が3mくらいあって、そこで2人が削岩機を使って掘っていました。1日中首をすくめて仕事をしていたら、むち打ちになりそうな場所でした。斜坑の一番奥ではかなりの水が湧き出ていて、タービンポンプがある所では、水が外へ汲(く)み出されるようになっていましたが、ポンプがある場所から下は水が溜まっていました。気の毒だったのは、ポンプではヘドロ状の水を吸えなくなり、腰から下が水に浸(つ)かりながら手探りでダイナマイトを穴に込める作業をしなければならないときでした。
 掘った鉱石は、スクレーパーという鉱石をかき集める機械と、エアホイスト(圧縮空気で動く巻き上げ機)という空気圧でワイヤーを巻いていくものを繋いで、一気にかき集めていました。スクレーパーがないころには、鉄板で作った大きな塵(ちり)取り状の道具で鉱石を集めて、トロッコに積んでいました。そのころは、ホッパーという鉱石を集める鍬(くわ)のような道具をたくさん作ったことを憶えています。トロッコは、十何度かある斜坑本線を巻き上げ機械で巻き上げられ、途中で鉱石を移し替えながら引き上げられたものを、最後は人力で300mくらいトロッコを押して『縦坑巻き』まで鉱石を持って行っていました(図表2-3-8参照)。縦坑巻きは釣瓶(つるべ)式になっていて、70mくらい真っ直(す)ぐに巻き上げられていました。巻き上げた鉱石はトロッコで坑口から出していましたが、トロッコは5連くらいになっていました。バッテリーロコがないときには、1日にトロッコを押して動かす回数を同じ担当の4人で決めていました。私がバッテリーロコを走らせていたとき、ブレーキが利かなくなり、慌ててギアをバックに入れて、スリップさせながら止めたことがあります。ブレーキが完全に壊れてしまっていたので、私(Fさん)は、社長さんに、『直るかどうか分からん。直らない可能性が80%だけど直してみる。』と言って修理をすると、うまく直ってくれました。人力で動かすトロッコは、鉱石を入れて坑道から出るときは、自走するようになっていて、ブレーキを掛けながら出て来られるように設計されていたので、比較的楽に運搬できていましたが、バッテリーロコが導入されるとさらに楽になったことを憶えています。
 また、いつごろからか、キャップランプというヘルメットに付けるランプを使って坑内での明かりを確保していました。昔はガスランプが使われていましたが、ガスランプは水に落としたりガス切れを起こしたりして消えてしまうことが多々ありました。おまけに火を点(つ)けるマッチがないと大変でした。要所には電灯がありましたが、そこまでは、真っ暗な坑道の中で天井を手で触りながら伝って出てきたことがあります。キャップランプは充電式で、仕事が終ってから充電しておくと、1日は使うことができました。鉱夫の多くがキャップランプを使うようになりましたが、最初のころはヘルメットにランプを付けるだけではなく、腰に蓄電池を下げていたので重たいものでした。」

イ 機械工作・設備維持

 「私(Fさん)は、昭和35年(1960年)の半ば過ぎに鉱山で働き始め、最初の1か月は坑外で雑作業に従事していました。その後、社長から『坑内で仕事をしろ。』と指示をされ、他の鉱夫とともに坑内での作業に従事するようになりました。坑内は、夏は涼しく冬は暖かいので、いい塩梅(あんばい)で仕事をすることができていましたが、その後、社長から『坑外に出てこい。』と言われました。私は『中の方がいい。』と言いましたが、夜になって社長の家に呼ばれ、『みんなからの話だとF君は器用だと聞いている。坑外に出て道具を作ったり、機械の修理をしたりしてほしい。』と言われて、それから坑外での仕事に19年ほど従事しました。道具や機械を作ったり配管工事をしたりする仕事は、他の従業員が行わない仕事でしたが、機械については、大きな機械でも全部自分で分解して、悪い部品は旋盤で削ったり溶接して作ったりしていました。坑内での作業が手掘りだったころは、1日の仕事を終えると鏨(たがね)の先が潰れてしまっていたので、修理のために鉱夫が持って来たものを、焼いて叩いて伸ばして直す、それを毎日繰り返していました。上手に作らないと鏨が欠けてしまうので、毎日忙しい思いをしていました。
 私は仕事で鉱山全体の機械を任されていました(図表2-3-8参照)。坑口から坑道の一番深い所まで、どこにどのような機械があって、パイプがどこを通っているかを全て頭に入れていました。毎朝班長から、『今日はどこそこの機械の調子が悪いから、行って直してくれ。』と指示をされて作業に行っていましたが、坑外にある選鉱場から坑道の一番深い所まで担当だったので、指示をされれば全て行かなければなりませんでした。一番大変な思いをしたのは、坑道の一番下の端のポンプが故障したときでした。それを全て現場で分解して、20kg以上はある部品を背負って坑内から出ていました。そして旋盤を使って故障した部品を直し、それを夜中にまた背負って坑内に入り、組み立てて試運転を行い、『あーやれやれ』と思っていたら、翌日の仕事の人が坑内に入って来た、ということがありました。また、坑内の水を排水するポンプには30馬力と40馬力のタービンがあり、30馬力のタービンの調子が悪くなってしまったので、40馬力の新しいタービンを回さなければならないということがありました。そのとき、電気のスイッチの入れ替えをするのと同時に、機械を冷やすための水のバルブを開けることを忘れたらいけなかったのですが、電気は入れ替えたけど水のバルブを閉めたままにしてしまい、タービンが焼けてしまって大変な思いをしたことがあります。焼けてしまったタービンは坑外に出して修理をしました。しかし、機械については自分で責任をもってやっていたので、仕事は面白いと感じていました。
 坑内のタービンは、夜中は自動運転にしていたので、正常に動いているかどうか交替で見に行かなければなりませんでした。毎晩交替で行かなければならなかったのですが、タービンが設置されている場所まで走って下りても30分以上はかかっていました。移動だけで往復1時間以上かかっていたので、タービンのチェック作業には2時間以上必要でした。タービンが設置されている坑道の中は狭く、両側はマツの木で支柱が入れられ、天井にも落盤防止の木材が入れられていたので、移動は木の枠の中を通って行く感じがしていました。坑道の底は梯子(はしご)みたいで足元が悪かったことを憶えています。」

ウ ボーリング(試掘)

 「私(Eさん)は、昭和35年(1960年)に鉱山に入りました(写真2-3-10参照)。家では農業が主でしたが、農閑期の仕事として始めたのです。戦後の食糧が少ない時期でもあったので、農閑期には山林の伐採も行っていたことを憶えています。
 新宮には細い鉱脈が多く見られ、20か所くらいは確認されています。大谷地区にも数か所あり、大谷鉱山では、私が子どものころには手掘りで鉱脈に向けて水平の坑道が掘られていました。
 昭和30年(1955年)ころになると、新宮本鉱での作業開始に合わせて、機械を導入して試掘を進めることになりました。ディーゼルエンジンやコンプレッサーなどは、狭い坂道に足場が組まれ、『カグラ』と呼ばれる人力の巻き上げ機で上げられていました。上げられた機械は、そこから川の向こう約100mの位置にある現場まで、架線により搬入されていたことを憶えています。
 昭和34年(1959年)、大谷鉱山の横で行われた試錐(しすい)(ボーリング)調査に、臨時の作業員として従事したことが入社のきっかけとなり、後に新宮本鉱での試錐員として本採用となりました。本鉱の試錐調査では、第1通道坑約300mの地点より南西方向の大谷鉱山の鉱脈に向けて調査を行い、規模が小さい鉱脈には当たりましたが、期待するほどのものではなく、中止となりました。
 閉山前のころには、2人で坑内に入って作業を行っていたことを憶えています。坑外ではエンジンを使うことができますが、排気ガスが発生するので坑内ではモーターやエア(空気圧)で動かす機械を使っていました。坑内用の機械は小さいものでしたが、それでも500mから600mは掘りました。もうこれ以上鉱脈を探してもない、ということになって探鉱をやめ、最後は発破をかけて採った鉱石をスクレーパー(鉱石をかき集める機械)で運び出す仕事を行っていました。
 一度大変な思いをしたのは、第2斜坑、63番辺りでボーリング作業を行っていて、下へ30mくらい掘った所で、急に水が噴き出したときでした。長さ3m、重さ10kgのロットを10本打ち込んでいましたが、それが全て持ち上がってしまうほどの水圧でした。ものすごい勢いで水が噴き出し、水没をするのでは、と心配するくらい水が出たことをよく憶えています。」

エ 鉱山での事故

 「新宮鉱山ではあまり事故がなく、事故で亡くなった人はいませんでした。しかし、前日は大丈夫だった坑道が、翌日には潰れていたことが一度だけありました。私(Fさん)は、その前日に上司から、『1日だけ行け。』と指示をされて、鉱石を出す仕事を行いました。その翌日もその現場へ行く予定になっていましたが、別の現場のタービンポンプが故障してしまい、『水が上がらないようになった。今日は現場へ行かないでポンプを直せ。』と指示をされました。後日、ほかの人とその現場に一緒に行ってみると、私がポンプを直している間に坑道が潰れてしまってどうしようもない状態になっていたのです。今でも本当に運が良かったと思います。」

オ 鉱山でのくらしと娯楽

 「昭和45年(1970年)当時は、鉱山で働く人が100名ほどいました。その多くは新宮の人で、他所(よそ)から来ていた人や独身の人は寮に、妻子のある人は社宅に入って生活していました。それでも社員のための住宅が足りなかったので、村内で下宿をしている人もいたくらいです。
 当時は、会社の景気が良く、年に1回は社員旅行があり、家族で参加させてもらっていました。大阪万博が開催されたときには、家族全員で参加していた家族があったことを憶えています(写真2-3-11参照)。
 また、新宮鉱山では映画が上映されていました。三島(みしま)や川之江(かわのえ)にも映画館がないころのことなので、新宮で映画が上映されるということで町(まち)(伊予三島、川之江)から観客が新宮まで来ていました。私(Fさん)は、2年くらい映画の上映の仕事にも従事しました。そのころの新宮では、ラジオを持っていることが珍しくて、村内にテレビはほとんどなかったときだったので、新宮村の一番の端から自転車や徒歩で観客が来ていて、映画館が一杯になっていました。そのときの入場料が10円か15円だったと思います。映画を一晩上映すると、賃金として400円をもらっていました。そのときの鉱山での日当が320円だったので、映画を週に1回上映する仕事が楽しみだったのです。映画は毎週土曜日、盆と正月は連日で上映していました。」

図表2-3-5 地形図上の新宮鉱山

図表2-3-5 地形図上の新宮鉱山

昭和44年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「伊予新宮」による

図表2-3-6 新宮鉱山の模式図

図表2-3-6 新宮鉱山の模式図

Fさんのスケッチを基に作図

図表2-3-7(参考) 新宮鉱山坑口内付近の模式図

図表2-3-7(参考) 新宮鉱山坑口内付近の模式図

Fさんのスケッチを基に作図。本文の内容を直接示すものではないが、「参考」として掲載したものである。

図表2-3-8 新宮鉱山の坑内の模式図

図表2-3-8 新宮鉱山の坑内の模式図

Fさんのスケッチを基に作図

写真2-3-10 新宮鉱山で掘られていた銅鉱

写真2-3-10 新宮鉱山で掘られていた銅鉱

平成30年10月撮影