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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 養蚕と人々のくらし

(1)養蚕を始めたころ

 ア 養蚕を始める

 「私(Dさん)は新宮ダムのねき(すぐ近く)にある大影(おおかげ)集落の出身で、実家は農家ではありませんでしたが、子ども時分に、近所から蚕を4、5頭分けてもらって、菓子箱の蓋に桑の葉を入れて飼っていたことを憶えています。私は地元の中学校を卒業した後、昭和30年(1955年)ころに日浦(ひうら)集落に嫁いできました。当時、主人の家は大家族で、15人が一つ屋根の下で暮らしていましたし、近所からいつも2人くらいが農作業を手伝いに来ていて、昼食と夕食を私たちと一緒に食べていました。主人の家は代々農家で、そのころは主に麦、サツマイモ、トウモロコシなどを自家用に作っていたほか、和紙の原料となるコウゾやミツマタを作ったり、コンニャクイモを作ったりしていました。コンニャクイモは、こちらまで買い付けに来ていた川之江や三島の蒟蒻(こんにゃく)屋さんに売っていました。農業以外では、所有していた山林で浅木(雑木)を伐採し、その跡に植林をしていました。
 私が養蚕を始めたのは昭和36、37年(1961、62年)ころだったと思いますが、当時、新宮村に駐在していた東予蚕業技術指導所の普及員さんが養蚕を専門とする先生で、その方から勧められたことがきっかけでした。その後は、主に養蚕で生計を立てるようになり、当時、家には1町(約1ha)余りの桑畑があり、養蚕に必要な用具は普及員さんに注文して取り寄せてもらっていました。私が養蚕を始めて間もないころ、回転蔟が届くまでの間、藁(わら)で作られた蔟(まぶし)をもらって使用していたことがありましたが、その期間を除くと、私はずっと回転蔟を使用して繭を取っていました(写真2-2-6参照)。」

 イ 蚕室を建てる

 「新宮ダムができたのが昭和50年(1975年)のことなので、私(Dさん)が蚕室を建てたのは昭和47、48年(1972、73年)ころだったと思います(写真2-2-7参照)。最初は屋外に木製の棚を作って蚕を飼っていましたが、あちこちの棚に少しずつ蚕を飼育していても手間が掛かるので、蚕室を建てて飼育しようと考えたのです。当時、家の敷地内には麦を発動機で搗(つ)くための部屋がありました。私は、それを取り壊して蚕室を建てたいと義父に話したところ、『せっかく建てたものを壊すのか。』と言って反対されましたが、『広い蚕室があれば、全ての蚕を1か所で飼育することができるし、暖房も蚕室全体にかかるので、蚕室を建てさせてほしい。』とお願いすると、最終的には、『好きなようにせいや。』と言ってくれました。その当時、今の金砂橋は架かっておらず、まだ丸木でできた橋でしたが、今の金砂橋の向こう側辺りから川の水量が少なくなっていました。当時、川の中へ石を盛り上げて荷物を積んだ車がどうにか通れるくらいの仮の道路が造られていたので、蚕室を建てるための資材を何とか車で運ぶことができました。蚕室の坪数は憶えていませんが、寸法は、縦が2間半(約5m)、横が15間(約30m)くらいだったと思います。新宮村から補助をもらって蚕室を2軒建て、そのうち1軒は自宅の敷地内に、もう1軒は上山地区に建てました。
 蚕室の中には大きな石油ストーブを置いて、ストーブから吹き出た温風がビニール製の管を通って室内を回り暖める仕組みになっていました。蚕室の壁に小さな穴を開けて、そこからストーブの煙突を出して換気をしていました。また、蚕室の中には、組立式の飼育棚を蚕室の両側の壁に沿って並べていました。飼育棚の上に板を敷き、その上に紙を敷いて蚕を広げて、蚕がそこから出て来ないように、棚の周りには板を立てていました。蚕の餌である桑の葉を入れ替えるときには、たくさんの桑を積んだ一輪車を押して蚕室の中を通っていたことを憶えています。」

 ウ 稚蚕共同飼育所

 「かつて上山地区の広瀬(ひろせ)に稚蚕共同飼育所があり、そこで普及員さんに指導していただきながら、蚕の共同飼育をしていました。蚕は稚蚕飼育所で3齢くらいまで育てて、その後はそれぞれの養蚕農家の家で育てていたので、私(Dさん)も共同飼育所にはよく通っていました。昭和45 年(1970年)ころには、エアコンを備えた近代的な稚蚕飼育所が元の飼育所の西側に建てられました。
 また、そのころ、徳島県との県境に近い大古味(おおごみ)という集落に共同桑園がありました。稚蚕飼育所で蚕を飼育するためには大量の桑の葉が必要となるので、養蚕農家みんなで共同桑園の桑の世話をしていました。蚕が稚蚕飼育所に入ったときには夜通しで世話をしなければならなかったので、普及員さんと農家の何人かが稚蚕飼育所に泊まり込んでいました。そのときには、普及員さんの食事の世話をするために、泊まり込んでいない農家の人たちが、家の畑で採れた野菜や新宮のお店で買ってきた魚などを稚蚕飼育所に持ち寄って調理していました。稚蚕飼育所は今の中村集会所の場所のねきにありましたが、冷凍食品の会社が近くにできたときに取り壊されてしまったため、建物は残っていません。」

(2)養蚕の仕事

 ア 多くの蚕を飼育

 「蚕の卵10gがおよそ2万頭に相当すると聞いたことがありますが、私(Dさん)の家では最も多いときで卵65gくらいの蚕を飼っていました。その当時、蚕室の中にあった飼育棚は蚕で一杯になるほどだったので、御飯を食べる時間も惜しんで蚕の世話をしなければなりませんでした。蚕室を建てた後の話ですが、蚕に桑の葉を与えてから家で御飯を食べていると、外から『ザー、ザー。』と大きな音が聞こえてきたので、『さっきまで良い天気だったのに雨が降り始めたのか』と思って、急いで家から出てみると、蚕室の中で蚕が桑の葉を食べている音だったということがあったことを憶えています。」

 イ 春蚕

 「蚕を飼おうと思えば1年のうちに何回か飼うこともできましたが、春蚕が一般的でした。桑の芽が出るのは5月だったので、春蚕を出荷していたのは6月か7月ころだったと思いますが、その時期は桑の葉も若く、一番きれいな繭を取ることができていました。私(Dさん)の家では、いつもは春と秋に繭を取っていたのですが、桑の葉が余っていた年があり、そのときだけ晩々蚕を飼ったことがありました。ところが、そのころには桑の葉が硬くなっていて、蚕の餌としてはあまり適していなかったためか、あまり良い繭を取ることができなかったことを憶えています。」

 ウ 蚕の世話

 「家では、主人が桑の木の枝を切って、それを背負って運んでくれることもありましたが、ほとんどの場合は私(Dさん)だけで蚕の世話をしていて、夜明けとともに起きて蚕の世話にかかっていました。当時は、蚕の世話に追われて御飯を食べる間がないくらい忙しかったことを憶えています。
 蚕が小さいうちは桑の葉を細く切って与えていましたが、その後は枝を切ってきてそのまま与えていました。枝付きの状態で与えると、しおれていない、生きたままの状態の葉を蚕に食べさせることができました。蚕が桑の葉を食べると、食べかすが下へ落ちてきましたが、蚕は落ちた葉を求めて下へ潜っていました。そこで新しい桑の葉を置いてやると、蚕はまた上の方へ登ってきました。葉がなくなると新しい桑を積み重ねて置いていき、1日に何回も桑の葉を入れ替えることもありましたが、その高さは50cmを超えていました。桑の葉がなくなっていないか絶えず気にかけていなければならないので大変でした。3眠、4眠と蚕が動かなくなった時期を境に、上側に網を張って、桑の葉をちぎって置いておき、上の網に上がってきた蚕を取り分けて広げていました。また、回転蔟の枠の中に2頭の蚕が入ることがあり、そのときは2頭の吐き出す繭が合わさって大きな繭ができていました。そのような繭は『二つ繭』と言って、出荷のときにはほかの繭とは別に安い値段で買い取ってくれました。蚕には『眠(みん)』と呼ばれる動かなくなる時期がありますが、何日も動かないというわけではなかったので、室内の温度管理を除けば特に気を付けるようなことはありませんでした。蚕の上側に網を敷いて、そこに餌の桑を広げておくと、起きてきた蚕が網に登ってきたので、それを次々と分けていっていました。」

 エ 蚕の病気

 「蚕は病気になると、餌を食べなくなり動きも鈍くなっていました。その後、蚕は辺りをはい回るようになって繭を吐き出さなくなり、最後には真っ黒になって死んでしまったことを私(Dさん)は憶えています。そのように病気になった蚕のことを、当時、私たちは『ウミコ』と呼んでいました。蚕が病気になったのには、蚕室の空気の入れ替えが不十分であったとか、あるいは栄養が不足していたとか、何らかの原因があったと思うのですが、その当時ははっきりとした原因が分かりませんでした。」

 オ 毛羽取り

 「繭の毛羽取りをしていない繭は、繭同士が絡まってしまうこともあったため、製糸会社が買い取ってくれませんでした。そこで、出荷する前に毛羽取り器で繭の毛羽を取った後、ガスのトーチランプで焼いて殺菌していました。そのころ、柳瀬ダムの管理所の方たちから頼まれて炊事の世話に行っていたのですが、管理所で昼食が終わったので帰宅していると、私の家の方で大勢の人が集まっているのが見えました。どうしたのだろうかと思って急いで帰宅すると、蚕室が今にも焼けそうになっていました。そのときは近所の人が駆け付けて消火してくれたおかげで、幸い繭に影響はありませんでした。後で息子に事情を聞いてみると、トーチランプで焼いた毛羽を置いたままにして外出していたそうで、おそらく毛羽のいずれかに火が残っていたのだと思います。そのときの小火(ぼや)の名残で、今も蚕室の天井の一部が黒くなっているので、火はかなり上の方まで上がったのだと思います。
 また、毛羽取り器にかけると真綿ができるので、周りの養蚕農家の中には、それを広げてお布団にしていた人もいましたが、真綿には蚕の糞(ふん)や葉の食べかすがたくさん付いていて汚くてどうしようもありませんでした。初めのうちは、真綿を外へ干しておき、棒で叩(たた)いて糞を取り除いていましたが、忙しくてそのような余裕がなくなってきたので、ある時期からは真綿を焼いて処分していました。」

 カ 繭の出荷

 「新宮村では、養蚕農家が取った繭を一旦決められた場所に集めてから出荷するようにしていました。繭の出荷場所は稚蚕共同飼育所のこともありましたが、大抵の場合は役場の近くの公民館でした。私は、自家用車に繭を積んで出荷場所まで運んでいましたが、そのときには自家用車のない近所の方の分も一緒に運んであげていました。箱バン(荷台に屋根がある箱型の車)を使っていた時期もあったのですが、それだと繭を積みにくかったので後に軽トラックに買い替えました。
 取った繭をあまり長い間置いておくと、繭の中で蚕が蛹(さなぎ)から蛾(が)に成長し繭から出てきて、糸が切れてしまうことがあるので、それまでに出荷しなければなりませんでした。また、汚れている繭や、向こうが透けて見えるくらい薄い繭は、品質が劣るため選り分けて出荷していました。出荷する繭を布袋に入れていました。そのころ、肥料はビニールの混じった丈夫な布袋に入れられて販売されていました。それを2、3枚ミシンで縫い合わせて作った大きな袋を繭の出荷のときに使用することもあったほか、古くなった布団カバーを何枚か縫い合わせて作った袋を使用することもありました。
 新宮村の繭を集めた場所には、野村(のむら)(現西予市)の製糸会社の方が繭を受け取りに来ていました。繭の代金は目方が基準となっていました。また、決められた日に繭を出荷した人と数日遅れて出荷した人とでは値段が違った、ということもあったのではないかと思います。私は繭の等級を決める場面に立ち会ったことはありませんが、製糸会社が繭の等級を決めていたのではないかと思います。」

 キ 普及員からの指導

 「普及員さんはカブ(オートバイ)で新宮村を回っていて、村全域を回るには時間がかかったので、3齢から繭を作るまでの間に普及員さんに指導に来てもらったのは2回くらいでした。私が養蚕をしていたころにはいろいろな普及員の先生が来られましたが、本当に人柄の良い方ばかりでした。野村の方の出身の普及員さんの話す言葉が新宮の言葉とは違っていたことを憶えています。」

 ク 養蚕をしていたころを振り返って

 「銅山川の端にあった桑畑は、新宮ダムができたときに全て水に浸(つ)かってしまい、水に浸からなかったのは山の上の方にあった4反(約40a)くらいでした。その当時は、この辺りでも多くの家が蚕を飼育していましたが、ダムを造るときに多くの方が立ち退いて川之江や三島へ引っ越して行き、この辺りで蚕を飼育していた人はほとんど残っていません。いつまで養蚕を続けていたか正確には憶えていませんが、新宮で最後まで養蚕を続けていたのが大影集落の方で、平成3年(1991年)に養蚕をやめたそうですが、私はそれより早くやめていました。
 養蚕をせこいと思っていたら長く続けてはいなかったと思うので、私(Dさん)にとって、当時は養蚕が生きがいだったのだと思います。『早く桑を持って行ってやらんとお蚕さんが裸になっとる』と思って、一所懸命桑の葉を採ってきて蚕に食べさせていたことを憶えています。蚕は見ているだけでも本当にかわいいと思っていて、頭をなでてやると丸くなって小さくなっていました。また、夜、お風呂に入り寝間着に着替えた後、蚕室の温度を見に行くと、気付かない間に私に付いていた蚕が、布団の中に入って繭を吐き出していたことがありました。私は蚕をかわいいと思うことはあっても汚いと思うことはありませんでした。時々、蚕室の換気をする必要があるため窓を開けると外から風が部屋の中に吹き込んできて、蚕がみんな頭を丸めて、一面真っ白になったこともありましたが、その姿が何とも言えずかわいいものだったことを憶えています。」


<参考文献>
・新宮村教育委員会『しんぐう』 1972
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・新宮村『新宮村誌』 1998
・「愛媛蚕糸業の歩み」発行委員会『愛媛蚕糸業の歩み』 2000
・新宮村『ふるさと通信誌~最終号~』 2004
・新宮村『広報しんぐう』

写真2-2-6 回転蔟

写真2-2-6 回転蔟

平成30年9月撮影

写真2-2-7 かつての蚕室

写真2-2-7 かつての蚕室

平成30年9月撮影