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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 旧新宮村の産業と人々のくらし

 旧新宮(しんぐう)村の代表的な商品作物として茶と葉タバコが挙げられる。茶は第二次世界大戦後に栽培が本格化したのに対して、葉タバコは藩政時代以来栽培されてきた。霧が深く日照時間に恵まれない銅山川流域では、県内の他地区で栽培されている黄色種の栽培には不向きで、従来刻み用に使用されていた阿波葉が一貫して栽培された。阿波葉の本場は、その名のとおり阿波国であり、旧新宮村の阿波葉も銅山川下流の阿波から藩政時代に伝えられ、明治初期に編纂された『宇摩郡地誌』によれば、葉タバコは旧新宮村域における第一の特産物となっている。その後、明治30年代に新宮の渡しの近くに新立(しんりつ)たばこ取扱所が開設されたことも契機となって葉タバコ栽培は次第に盛んとなり、最盛期だった昭和初期には上山(かみやま)村で80ha、新立村で40haの栽培面積があったという。その後、戦争の激化により、労働力の不足と国の食糧増産政策もあって栽培面積は激減した。終戦後に再び栽培が始められたが、長年続けられた葉タバコ作りも昭和38年(1963年)ころをピークにして以後は漸減し、同60年(1985年)には、専売事業の民営化に伴い日本専売公社が廃止され、日本たばこ産業株式会社が設立された。その後、農産物自由化により外国産たばこの輸入が始まり、同63年(1988年)秋に日本たばこ産業株式会社からの廃作要請を受けて、同年度限りで旧新宮村における葉タバコ栽培は終了した。
 一方、当地における養蚕は、明治末期に農家の副業として注目されるようになり、葉タバコ農家以外の農家に養蚕をする者が徐々に増え始めた。戦時中と戦後しばらくは食糧増産が第一となり、養蚕も休止せざるを得なかったが、昭和29年(1954年)、新立・上山両村の合併により新宮村が成立すると、新村の農業政策として、葉タバコ、養蚕、茶及び畜産を基幹作目として振興することを決定した。同45年(1970年)、新宮村では、村単独で設置していた飼育所を廃止し山村振興対策事業により自動温湿度調整装置を備えた稚蚕共同飼育所を新設した(共同桑園1.5haは同44年〔1969年〕に造成)。このような養蚕振興策の結果、新宮村では40年代後半に養蚕の最盛期を迎えた。しかし、このころから品質の良い化学繊維が出始め、アジア各国でも優秀な蚕糸が産出されるようになって、日本の絹糸価格も毎年のように下落するようになると、新宮村における養蚕も次第に衰退し、平成3年(1991年)の1戸を最後に家蚕の養蚕は終焉(しゅうえん)を迎えた。
 旧新宮村の葉タバコ栽培について、Aさん(昭和8年生まれ)、Bさんの御夫婦とCさん(昭和12年生まれ)から、旧新宮村の養蚕について、Dさん(昭和13年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。