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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 五葉松の栽培

 五葉松ブームの始まりや種の採取について、昭和40年代から50年代にかけての大ブームの立役者でもあったH氏の御子息であるGさんから話を聞いた。

 (1) ブームの前

ア 地元での販売

 「五葉松がブームになる前には、山から引いてきたものが売れていた時期がありました。私が幼いとき、父は朝2時ころから山へ五葉松の木を採りに行っていました。午後2時か3時ころ、私が学校から家に帰ると、決まって毎日のように父を訪ねて来ていた方がいました。その方は、父が山から戻って来ると、『これ全部何ぼで買おわい。』と言って、その場で五葉松を全て引き取り、代金を支払ってくれていました。また、この方のように毎日ではありませんでしたが、時々、近隣の市町村の方が買いに来られていました。」

イ 先見の明

 「昭和30年(1955年)ころは、山にたくさんの五葉松が生えていて、山から採ってきたものは『山採り』と呼ばれ、関東から来た業者によく売れていました。それを見た父は、五葉松を苗木から育てようと考え、私が幼稚園のとき、田んぼに五葉松を植え始めました。祖父は、『米の一番できる所に木を植えて、どなに(どう)するんぞ。』と言って、言い争いをしていましたが、五葉松は毎年よく売れていたので、この辺りでは多くの人が五葉松を栽培するようになっていったのです。」

 (2) 種採り 

ア 種採取の組合

 (ア) 赤石高山植物保護会の設立

 「種を播(ま)き、苗を育てるようになると、種が入っているマツかさの採取が盛んになって乱獲が始まり、人よりも先に採ろうとして未熟な実を採ったり、浮種(実の入っていない種)を採ったりする人も出てきました。乱獲を防ぎ、信用を落とさないために、昭和41年(1966年)に五葉松の保護を目的として赤石高山植物保護会が組織されましたが、会を組織すると、地域の採取者を守る効果もありました。この会は、五葉松を守ることから『保護組合』とも呼ばれていました。」

 (イ) 「保護組合」の活動

 「組合では、まず山の持ち主である住友林業、明治鉱業(赤石鉱山)に立ち入りの許可をもらいました。住友林業が商売にしているスギやヒノキと五葉松は植生が異なっており、五葉松はより標高の高い所や、急傾斜地に生えていたので、住友林業からはすぐに許可をもらうことができました。明治鉱業も、業務で発破を掛けたりする都合上、立ち入り禁止区域を設けていただけだったので、こちらもあまり問題にはならなかったようです。赤石山付近一帯の植物は、愛媛県の天然記念物(『赤石山の高山植物』昭和32年〔1957年〕12月14日指定)だったので、町の教育委員会から立ち入りの許可を毎年もらっていて、許可者とそれ以外とを区別するために許可腕章を付けて採りに行っていました(写真2-1-5参照)。
 また、関東の業者に五葉松の種を販売しても、発芽率が悪ければ信用問題になるので、組合では採取期間も定めることにし、実が完全に熟している8月25日以降に採取することにしました。そのほか、監視員の制度もつくり、誰がどの日に見回りに行ったという日報のようなものを作りました。監視員は身分証明書を所持し、腕章を付けて見回りを行っていましたが、どこにどのくらい実が成っているか、下見に行って確認しているようなものでもあり、さらに、監視員としての日当も支給されていたので一石二鳥だったことを憶えています。」

 (ウ) 登山道の整備

 「組合では、何年か登山道の整備も行っていました。チェーンソーなどの必要な道具一式を持って山へ上がり、周辺の木を伐(き)って橋を架けたり、案内板を立てたりしました。私たちが最初に作った木製の案内板はすぐに腐ってしまったので、行政の方で『頂上まで何分』などと書かれたアルミ製の表示板を作ってもらい、それを各所に立てていきました。当時は登山ブームだったので、大学生が多く来ていて、私たちが種採りに行った帰りに、登山に来ていた大学生をバス停まで車で送ったことがあります。彼らは、遭難したときなどのためにチョコレートを用意していましたが、バス停まで送ったお礼にと、そのチョコレートをいただきました。また、『これだけきれいに整備している所はあまりない。』と言ってくれて、うれしく思ったことを憶えています。」

イ 種の採取

 「私は22歳のとき、東京の学校から土居に帰ってきて、そのあと3年から4年の間は、Fさんと一緒に種を採りに行ったことがあるくらいで、そのころには、五葉松のブームはすでに過ぎていました。しかし、種の採取を始めるのが早かった私の父は、最盛期のこともよく知っていたので、その話をよく聞かされていました。」

 (ア) 採取の方法

 「土居町側のマツの木は、麓近くに生えているものほど木が大きく、電信柱くらいの高さでしたが、木を3mほど登れば実を採ることができたので楽でした。しかし、密植となっている所では、木の下の方に日が当たらずに枝が枯れ落ち、4m以上も枝がない所を登らなければならないので、1日に10本も登ることができず、マツかさを肥料袋に1袋分採るのが精一杯でした。
 細い木の場合、体重を掛けて木を横に倒して実を採っていました。木から降りると再び上がるのは大変なので、木から木へ跳び移るような身の軽い人も結構いましたが、落ちて怪我(けが)をした人もいたのではないかと思います。どこにたくさん実が付いているかを木の上から目視して、その木から降りて、見付けた木だと思って登ってみると、隣の木だったということもありました。」

 (イ) 儲かった話

 「組合としては土居町内だけで種を採取していましたが、父たちのグループは、営林署の許可をもらって高知県側でも採取していました。値段が一番良かったときには、1日で採った種が1升あれば、住友化学の月給分くらいになったこともありました。日照りの場合は『焼け熟れ』で種が入らないことがありますが、例年は水分もあり、きれいに熟した種は粒も大きくなります。また、採れる地域によっても種の大きさが違い、マツかさの状態であれば、さらに差が出ます。マツかさと種の量の比率は様々ですが、大体、マツかさ肥料袋1袋分で種1升弱くらいになります。1日に肥料袋1袋から2袋分を採っていたので、少なくとも2日あれば種1升くらいは採っていました。この辺りの人たちの多くは五葉松で稼いでいて、私も五葉松のおかげで成長したようなものです。」

 (3) 播種から育成、販売

 播種や育成、販売について、Fさんから話を聞いた。

ア 播種、発芽

 「マツぼっくりは、乾くと開きます。シキビの場合は、種が飛びますが、五葉松は開いてもなかなか種が飛びません。良く乾かすと種が飛び出てきますが、乾かしすぎると発芽率が悪くなります。その加減が難しく、飛び出ないときには竹べらでかき出します。
 種を播くのは12月から3月までの間であればいつでも構いません。列状に播く人もいれば、ばら播きにする人もいました。種を播いた後の覆土は薄いほど良く、ちらちらと種が見えているくらいにしていました。赤石産の種1升で8千粒くらいあり、石鎚産の種はそれより少し大きいので1升で6千粒くらいでした。私はその8割から9割の種を発芽させていましたが、ほかの方はそれほど高い発芽率にすることができず、半分程度の人もいれば、全く発芽させられなかった人もいました。発芽させるときには、水分と温度が大切で、発芽する温度は摂氏18℃くらいで、これは4月20日ころの気温に相当します。私はビニールを掛けていたので、天気の良い日には、ビニールの中が高温になり過ぎないように、ビニールの上に寒冷紗を置き、1日中監視して発芽させていました。昭和40年代後半ころの3、4年が最盛期で、30万本分の種を発芽させていました。人を雇って3万本から5万本の苗木を植え替えて、それを3年生で全て出荷していました(写真2-1-6参照)。」

イ 育成

 「五葉松は、1年生、3年生、4年生といつでも売れていましたが、五葉松が儲かる理屈というのは曲者(くせもの)です。幼木の単価表を見ると倍々ゲームのように感じ、今、自分の所に何万本あって、何年後に何年生が何万本になる、といった計算ばかりしてしまいます(写真2-1-7参照)。ただし、1年生で植え替えをしなければならず、植え替えには、その1.5倍くらいの面積が必要となっていました。さらに、次に植え替えを行うときにも1.5倍から2倍、というように、どんどんと広い農地が必要となってくるのです。たくさん植えた人の中には、幼木を売らなければ植え替えるための土地が確保できず困っていた人もいました。また、植え替えをしっかりと行わなければ、『枯れた。』とか、『木と木がくっついて枯れ枝が出た。』といったクレームを受けることもあります。私は、大きな木に育つ前に売る方が無難で効率が良いと考え、3年生を基本にして1年生から3年生くらいで売っていました。大きく育てることもありましたが、3年生で売ると一番効率が良かったと思います。植え替えをせず、種を播いたままの3年生で売ると、枯れてしまう確率が高く、1年生で植え替えを行って3年生で売った五葉松は、根がしっかりしていたと思います。
 病気で困ったことは少なく、アブラムシとハブ類が出たくらいでした。農薬散布もそれほど行ったことがなく、スミチオンを少量散布するくらいで、それほど手が掛かるものではありませんでした。土居町が五葉松の原産地であり、本家本元であるので、育てる環境としては、他の地域より適していたはずです。」

ウ 販売

 (ア) カタログ販売

 「五葉松の販売のために、農協を通じるのとは別に、赤石五葉松盆栽組合という販売組合も作りました。組合では、カタログを作成しましたが、昔は、枝や葉の長さまで細かく求められるようなことはなく、木の年数と高さでほぼ値段が決まっていたので、カタログを簡単に作成することができました。大量販売のブームが過ぎると、葉性(はしょう)(葉っぱの形や色具合)や枝振りなどといったことに注目して、『この木がほしい。』という形で注文するお客さんが増えてきました。そこで、カタログにナンバー付の写真をたくさん載せて、この木限定で販売し、その木がない場合にはそれに近い木を販売する、という方法に変わっていきました(写真2-1-8参照)。当時は、撮影ノウハウがなかったので、大きさを簡単に比較できるように、タバコの箱を一緒に撮ったこともありました。今でも家にたくさん五葉松の写真が残っていますが、それはカタログを作成するときに撮影したものです。」

 (イ) 買付ツアー

 「販売する五葉松のカタログを作成していましたが、紹介できる木が限られてしまううえに、実際の木の様子が分かりにくいので、直接買いに来る方が大勢いました。平成になった前後ころには、バスでの買付ツアーが開催されていたこともあり、その対応は、販売組合での私の仕事でした。『交換会』と呼ばれていた競りが1月から3月にかけて開催されていて、その交換会も私が担当していました。当時、土居町内には宿泊施設が少なかったので、観光などで訪れている個人客はもとより、五葉松の販売会で土居町に来た人の中には、五葉松食堂のほかに、今でいう民泊のような所に宿泊していたお客さんもいたようです。」

 (ウ) 海外販売(輸出)

 五葉松の輸出の様子やその難しさについて、Gさんから話を聞いた。
 「昭和の終わりころから五葉松の輸出は始められていて、新井清太郎商店や横浜植木株式会社、大和農園の3社がその取扱い会社でした。横浜植木が扱う五葉松は、高松の方が荷主になっていて、こちらは混載してもらっていましたが、新井清太郎商店が扱う五葉松は、私たちが荷主になっていました。以前は、土居が主で、高松の方が土居に五葉松を持ってきて混載していましたが、今では土居の出荷が減り、高松へ持って行って混載してもらっている状態です。
 取扱い会社は外国人バイヤーを連れて来て、値段やマージンを決めたり、通関手続きなどを行ったりしてくれ、私たちの仕事は、病虫害対策や防除など、コンテナに詰めるところまででした。
 輸出先はEUで、そのほとんどはオランダに輸出されていました。コンテナをこちらまで持ってきて五葉松を詰めますが、コンテナから五葉松を出した後、すぐに壊すことができるような樽木で組んだ棚に詰めていました。詰めるときには、神戸税関坂出(さかいで)出張所の植物防疫の検査員が来て検査を行い、翌日に封印されてからの出荷となっていました。輸出は、栽培のときから作業が始まっています。土壌に線虫などがいると輸出できないので、隔離栽培を行わなければなりませんでした。土壌消毒をした土の中に植えて、2年間水滴が流れ込まない地上50㎝以上の棚の上で育てて、植物防疫所の検査を受けたものでなければならず、年に1回は防疫所の人が来て、線虫などの有無について全て目視で検査を行い、合格したものには検査済みの札を付けていました(写真2-1-9参照)。ヨーロッパに着いても同じように隔離検査を行うため、すぐには市販はされません。何か月かストックをして、線虫の有無などの様子を見てからようやく販売されていました。アメリカや中国では、線虫や病原菌は、土が一番の感染源であるという考え方から、土が少しでも付いていると輸出することができず、その対策として木の皮がむけるくらい土を除くと全て枯れてしまったので、それ以来、この両国へ輸出することはありませんでした。船は東南アジアを経由するので、コンテナに温度調節機能が付いていても、真夏にはコンテナ内が高温になるため、10月以降に出荷していました。私は、かなり前に、ヨーロッパに輸出している五葉松をオランダなどへ見に行ったことがありますが、気候風土が違うため枯れているものもありました。五葉松の栽培には日本のようにある程度湿度がある気候が適していて、湿度が低い気候には適していなかったのです。高い輸送賃や手数料を払って輸出した結果、枯れてしまったのでは、次の年の注文が減ってしまうので、よく考えなければならないことでした。また、私が輸出をしていたときには、1ドルが150円から180円の間くらいだったと思いますが、利益は為替相場によっても大きく違っていました。今でも1年に200本から300本くらいの五葉松をヨーロッパに輸出していますが、日本に比べて需要の波が大きいので、飽きられることのないように、『懸崖』や『まがり』など、様々な形の五葉松を作らなければならないと思っています。」

 (4) ブーム後退と再興に向けて

 五葉松ブームの後退とその原因などについて、Gさんから話を聞いた。

ア ブーム後退

 (ア) ブームの後退とその原因

 「父(H氏)は、五葉松は作り過ぎると、ある時期には余ると思っていたようです。『消耗してなくなるものではない。枯れるものもあるけれど、大事に育てていればどんどん溜まっていく。いずれは大量には売れなくなるから、増やしたらいかん、植えたらいかん。そして、信用できるものを作らないかん。』と言っていました。父は、毎年、春と秋に各15日くらい関東のお客さんの所を回り、その反応から今後どうなるかということを想像していたので、3反以上は作っていませんでした。需要と供給のバランスの問題かもしれませんが、値が良かったから作り、その時期に儲けることができたから良かったということです。やはり、後のマネージメントや展開の仕方というところまで考えていなかったので、商売として継続できなかったのだと思います。『盆栽というのは、五葉松が最高だから、五葉松だけ作っていれば良い。』とか、『五葉松は値段の高いものが良い』という考え方を持っていた方がいたことも影響しているのかもしれません。しかし、盆栽というのは、マツだけでもクロマツ、ニシキマツなどがあり、ウメやモミジもあり、草花まであるのです。この辺りでは五葉松だけだったので、お客さんにも飽きられてしまって長続きせず、花物などを好む女性にはなかなか受け入れられなかったことが問題であり、ブームが後退した原因であると思います。」

 (イ) 組合の変遷や解散

 「五葉松の販売を行う赤石五葉松盆栽組合は現在も残っていますが、設立当時は60人以上いた会員が、今は42人になっています。設立当時の会員資格は土居町関川地域の人だけでしたが、合併して四国中央市となってからは資格要件が緩和され、四国中央市以外にも西条、新居浜の人も加入し、現在も各方面に活動、情報発信を行っています。一方、平成13年(2001年)を最後に解散した保護組合(赤石高山植物保護会)は、最後の方になると、会員が10人少々にまで減り、解散時には10人を切っていました。そのころにも登山道の整備活動を行うという話が出ましたが、若い人の入会がなく、設立時のメンバーがそのまま年齢を重ねていたため、会員は高齢者ばかりで、整備活動を行うことはできませんでした。」

イ 五葉松の再興に向けて

 (ア) Fさんの商売の信条

 「私にとってFさんは、いろいろお世話になっているばかりでなく、父親同然にお付き合いさせてもらっている方です。Fさんはやらなければならないことを順序立てて決めて、それを必ず実行し、休むことを知りません。また、『五葉松を作っていれば売れる』というものではないので、どのようなものが売れるかを予測する必要がありますが、Fさんは、それを敏感に感じ取る力を持ち、日ごろから大変な努力と工夫をされています。商売である以上、儲けを出すことも大切ですが、Fさんは、全てのお客さんが喜んでくれる顔を思い浮かべながら商売をされているので、大変なことでも続けられるのだと思います。五葉松の場合は、買う人の思いと生産者の思いが合致しなければならないのです。」

 (イ) Gさん親子の信条

 「私の父(H氏)は、『この山の中で、人と会わずに生活してもいかん。お金は人からもらうもんで、人に教えてもらうもんだから、よそに出て行かないかん。』と言っていました。私は、父と同じように、お客さんの所へ行って、様々なことを教えてもらっています。私の息子にも、『毎日空だけ見よったらいかん。人とは話さないかん。』と話しています。また、お客さんから教えてもらうばかりでなく、県の勉強会にも参加して、旧双海(ふたみ)町(現伊予(いよ)市)、高知県馬路(うまじ)村、徳島県上勝(かみかつ)町の方々と様々なお話をしたのですが、切り口を変える、発想を変える、ということを学びました。また、五葉松を枯死させないようにすることを調べているうち、中国の砂漠への植樹運動に取り組んでいた遠山正瑛先生を知り、私も中国の砂漠に植樹するための活動に参加しました。自費で10回くらい行きましたが、そのときに、武村正義(元大蔵大臣)さんや堂本暁子(元千葉県知事)さんなど、個性豊かな様々な人と一緒になり、これからの自分自身の生活に役立つようなお話を聞くことができました(写真2-1-10参照)。私たちが生活する地域の外には様々な人がいて、その方々から大切な話を聞くことができます。私たちが話した五葉松の種の採取から育成、販売、五葉松への情熱などについての話をぜひ知ってもらい、これからの地域にどう役立てるかを考えていくことが大切だと思っています。」

参考文献
・ 土居町『土居町誌』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988  
・ 安森滋『四国赤石山系物語』2006

写真2-1-5 許可腕章

写真2-1-5 許可腕章

平成30年8月撮影。当時の腕章を付けての再現。

写真2-1-9 棚の上で栽培されている五葉松

写真2-1-9 棚の上で栽培されている五葉松

平成30年8月撮影。中央の小さな白い札は、輸出用検査済みの札。Fさんの農園にて撮影。