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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 農家の人々のくらし

 (1) 米の増産を目指して 

ア 海岸沿いの湿田の様子とその改良

 海岸部の湿田の様子について、中学校卒業後、定時制高校へ通いながら家業の農業に従事したAさんから話を聞いた。
 「蕪崎(かぶらさき)や藤原(ふじわら)地区の田は、ときには潮も入ってくるような海岸近くにあったため、基盤整備が行われるまで、稲を作っていないときには葦(よし)が生い茂り、牛を入れると腹くらいまで埋まってしまう湿田で、中には牛も入れないような深い場所もありました。そのような湿田では米以外の作物を作ることができませんでしたが、その後、客土が行われると大型機械が入ることができるようになりました。また、八日市(ようかいち)地区にも犬を放り込むと出て来られない、『犬殺し』と呼ばれていた湿田が結構あり、牛が入らない所は、手で鍬(くわ)を打って稲を植えていました。
 晩稲(おくて)を作っていたときには、稲刈りを行う11月ころには霜が降りていたため、寒くて泣きながら親に手伝いをさせられた、という話をよく聞きました。湿田の中で冷たい水に浸(つ)かりながら稲を刈り、田船(たぶね)の中に一かたぎするくらいまとめておき、船で畔(あぜ)まで運んでいました。畔の羽(斜面)に杭(くい)を打って稲木を組み、刈った稲を小さい束にして掛け、天日干しをしていました。田は間口が狭く奥行きが長かったため、道端に稲木を組むときには5段から6段ほど横木を掛けなければなりませんでした。稲木の上の方の段に掛けるときには、下から稲の束を持ち上げてもらっていたことを憶えています。
 長津干拓の工事は、潮間(しおま)仕事で夜昼がありませんでした。干拓工事に行くとき、妻に『おーい、まるけとけよ(まとめとけよ)。』と言って仕事に出て、『夜遅くに帰って来てからカーバイドのガスランプをかけて、稲木に掛けたんじゃ。』という話をお年寄りはしていました。食べるためには仕方がなかったのですが、昔の人は本当に苦労していました。」

イ 長津干拓の改良

 「長津(ながつ)干拓工事が昭和40年(1965年)3月に完成してから約50年になります(写真2-1-1参照)。工事が行われたのは、今のように性能の良い大型機械がない時代だったので、出来上がりが海抜より20cm低くなり、そのため、水が引かず、潮も入って来ていました。また、当時は、手抜き工事で堤防がすぐ切れるという悪いうわさも立ちましたが、これは単なるうわさだったようで、50年経(た)った今でもどこかが崩れたという話は聞いたことがありません。
 農地の配分については、1町(約1ha)から1町2反(約1.2ha)作を目標に、当時としては大規模な配分であったにもかかわらず、事前の希望調査では、農地が足りないくらいの希望がありました。ところが悪いうわさがあったせいか、八日市地区では私を含め3、4人しか購入せず、しかも私以外の人はすぐに売却してしまいました。地元の人があまり購入しなかったため、購入対象者を半径4kmの範囲まで広げると、中村(なかむら)地区の人が農地のほとんどを購入していました。中村地区の人たちは、米を作ることに対して非常に熱心で、当時、国や県に対し、補助について何度も掛け合って土地を改良していきました。中村地区の人たちがいなければ、今のように長津干拓は良くならなかったと思います。
 私(Aさん)が農協の理事長をしていたとき、三島にあった県事務所に日参し、『農業用水路を掃除したり、挿し板をしたり、水を掛けたりといった苦労をしなくても済むように、配管工事を行って、バルブを開くだけで水が出るようにしてほしい。』と陳情して、それが完成すると、昔の農業用水路は不要になりました。ちょうどそのころ農業機械も大型化されていて、道路幅4mでは軽トラックは離合できても、代かきを行う大きな農業機械は通るのが大変でした。そこで、三島の県事務所へ行って、『不要になった農業用水路を壊して道路を拡張してほしい。』と何度も陳情したのですが、配管工事をしてもらった直後だったので、担当者からは良い返事をもらうことができず、町の予算で長津干拓の全ての農業用水路を潰して道路を拡張してもらいました。
 ほかにも、行政に無理を言って畑作事業により客土をしてもらったり、コンクリートによる畦畔(けいはん)の造成をしてもらったりもしました。基盤整備を行った所でコンクリートの畦畔があるのは、当時、日本中でも長津くらいのものでした。ところが、国の減反政策により20年米作ができないという条件があったため、せっかく全ての圃場(ほじょう)を客土したにもかかわらず、米の値段が良かったころはお米を作ることができませんでした。そこで、サトイモを作っていたのですが、連作すると痩せたイモしかできず、『干拓イモ』と言って業者に安く買い叩(たた)かれたため、全く儲(もう)かりませんでした。客土から20年が経過し、ようやく米作りができるようになったころには、米価は安くなっていました。そのころには、政治家に対して『米価を上げてくれ、気合を入れてやってくれ。』と要求するような米価運動も行われなくなっていたこともあり、米価が上がることはありませんでした。」

ウ 野田地区の利水

 野田地区の様子について、郷土の歴史に詳しいBさんから話を聞いた。
 「野田地区は、地図だけ見ると大地(おおち)川や面白(つらじろ)川に囲まれていて、水利が豊かであるように見えますが、それらの河川は枯れ川で、普段はほとんど水が流れていないので、これまで野田地区の農家の方は、農業用水の不足に一番困っていました。昔からの言い伝えでは、野田地区と川之江の二名(ふたな)は、『お月さんでも焼ける。』と言われていたほどです。盆踊りも、元禄時代に、雨が少なく苦しんでいた野田地区の住民が、上方から来た山伏に雨乞い踊りを教えていただいて地蔵踊りが始まったという伝承があるくらいです(写真2-1-2参照)。また、野田地区の隣の豊岡(とよおか)町長田(おさだ)地区も水に苦しんだ地域でした。6月20日から9月12日までという、野田地区の農業で最も水が必要な時期に、6日に1回農業用水が止められ、全て長田に流しています。これは、江戸時代、野田から長田へ庄屋の娘を嫁に出したとき、嫁入り道具の代わりに水の権利を持たせたという伝説によります。それ以来200年間、この『長田行き』という習慣が続いています。慣行水利権は厳しいので返還されることはなく、豊富に水があるときでもその水を取りに来るのです。戦後、銅山川に柳瀬(やなせ)ダムが建設されると、ダムから貯水池を経由して、おおむね今の高速道路沿いの山際に水が通るようになりました。この辺りの人々は疏水改田組合を組織し、2年くらいかけてその水を利用して水路を造ったり、土を入れ替えたりしながら、それまで畑しかなかった約5町5反(約5.5ha)の土地をほとんど自力で改田していきました。」

エ 野田地区の改田

 幼心に見た改田の様子や、父親から聞いた話について、Cさんから話を聞いた。
 「当時、畑には石がたくさん転がっていて、それを改田するために、畑を手鍬で掘ると、『タチマタ(三脚のように3本の木を束ねてひもを掛け、大きなケンド〔ふるい〕を吊(つ)ったもの)』に掘った土を入れてふるいにかけ、土だけを畑に戻していきました。全ての土地で元の地盤くらいまで何十㎝か掘って、それを繰り返しました。水が溜(た)まるように造られた畔の羽も、土を手練(てねり)し、手で押さえて造ったと父から聞きました。そのようにして、一切れ(一枚の田)が5畝(約5a)や6畝くらいの面積の土地を、地域の人が協力して改田していきました(図表2-1-2参照)。また、今の高速道路辺りから野田地区までの3,000mくらいの水路も、協力して造ったそうです。水路のほとんどの部分は土や石で造られていましたが、どうしてもコンクリートが必要な部分は、スコップで砂やバラス、セメントを練って造ったそうで、動力機械もなかった時代に、人力だけで本当によくやったものだと思います。そのような苦労の末、野田地区でも米の作付を増やすことができるようになったのです。」

 (2) 稲以外の作物

ア ヤマノイモの栽培

 輪作作物としてのヤマノイモについて、Aさんから話を聞いた。
 「戦前から戦後間もないころまでの話ですが、ヤマノイモは寒さに強いので、圃場の少なかった所ではヤマノイモを植えた後、その上から麦を播(ま)き、麦を収穫した後にヤマノイモの芽が出ていました。他県では支柱を3mもの高さにする所もありますが、土居では、強いやまじ風が吹くため、1mの支柱を土に20cmくらい打ち込んで倒れないようにしています。支柱を高くしておくと、強風で倒れたときに根が切れてしまい、全滅する恐れがあるからです。支柱にはポリプロピレン製の結束ひもを何段か引っ張り、下の段に最初に出てきた勢いの良い蔓(つる)をくくり付けます。それは、蔓が上(うえ)に上がろうとするのを抑え、地面にはわせないように、横にもうまくはわせるためで、地面をはわせると、下の方は窒息して葉が腐ってしまうのです。そのようにして、私は、できるだけ全ての葉を生かすように心掛けていました。
 天満の友人は、畑より2mくらい高い所にあった道路のガードレールに結束ひもを引っ張ることで、ヤマノイモの葉を一杯に広げていました。そこで収穫されたヤマノイモは、キャリー1箱に20個、1個が1㎏以上あるような大きなものでした。私が、『キャリーにたくさん入らんような大きなイモがあるじゃないか。』と言うと、友人は、『電柱の控え線にもぐりついた(巻きついた)やつは、太いわい。』と言って笑っていました。葉全体を広げ、いかに日が当たるように工夫するかによって、育ち具合や大きさが違ってきます。私は、一時、ヤマノイモをたくさん作っていましたが、手間が掛かるので、今は1反(約10a)くらいに減らしていて、ほかにサトイモを4反くらいと米を作っています。連作障害を防ぐために輪作を行い、同じ圃場では4年空けています。また、干拓地の海側半分は年に1、2回大雨で浸水することがあり、ヤマノイモは、一度水に浸かると全て腐ってしまうため、陸地側だけで作るようにしています。この辺りのヤマノイモ分会では、毎年圃場を巡回していますが、皆さん熱心な人ばかりで、中には『普及所みたいなのぉ。』と言うくらい、手間を掛けて上手にヤマノイモを作っている人もいますし、80歳を過ぎても熱心に作っている人もいます。」

イ 先進農業

 昭和53年(1978年)から平成にかけて10年余り土居町農協天満支店長をされていたDさんに、「非常に熱心で、とても良いキュウリやトマトも作り、市場でも高く競り落とされていました。」と評価されるEさんから話を聞いた。

 (ア) 耕耘機

 「私の父は根っからの農家ではなく、若いころは商売をしていた時期もあったようで、暗算が達者でした。また、勝負どころを理解している人で、スイカを売るとき、『これくらいの値で売れたら』と思って売るのを控えていたようでも、ここぞと思ったときには思い切り良く売っていました。また、父は道路に面した良い土地が出ると買っていたので、私が農業を始めたときには1町(約1ha)前後の田畑を持っていました。私は土木工事に行ったり、会社の仕事で四阪(しさか)島(現今治市)に行ったりしていましたが、20歳のころ、『耕耘(こううん)機を買うちゃるけん、百姓せいや。』と父に言われて農業を始めました。昭和30年(1955年)前後、まだ耕耘機は珍しかったので、私があちこちの田畑で耕耘機を動かしていると、いつも10人から15人くらいがその様子を見ていました。今となっては笑い話のようですが、『ホッチ、ホッチ。』と言って牛を使って土を耕していた人が、私が耕耘機を使って農作業をしているのを見て、その作業効率の違いに嫌になったのか、耕作途中で帰る人もいました。また、近所の方に頼まれて、その方が所有する農地を耕耘機で耕すこともよくあり、朝の暗いうちから辺りが真っ暗になるまで仕事をしていました。」

 (イ) 田とスイカ

 「当時は田でスイカも作っていました。2番田と言って、スイカを採ったらすぐに田んぼにします。昔は、広い苗代で苗を作っていて、50㎝くらいになった苗を採って植えていました。田植えには2間(けん)梯子(はしご)のような『定規』を使って4人で植えていました(写真2-1-3参照)。田植えのときには多くの労力を必要としたので、近所同士で助け合っていたことを憶えています。天満スイカは、比較的有名だったので、収穫すると天満の港まで運び、対岸の広島県の呉(くれ)まで船で送っていました。港では積み降ろしの人夫さんがスイカを1個ずつ天張り(ゆるやかな放物線)のように投げて、船に積み込んでいました。一緒に出荷する人と交代で呉の船に乗って、夕方に出て、呉までの往復に2晩かかっていました。」

 (ウ) 多彩な作物

 「私は、農業に従事するようになってから試行錯誤を続け、作ってきた野菜は、スイカやメロン、ハクサイ、キュウリ、トマトにブロッコリーと多岐にわたりました。最初のうちは『百姓だから百品作ろう』と思い、いろいろな野菜を作っていました。また、『うまくいくかどうか分からなくても、ほかの人が作っていない野菜を作ってみよう』とも思っていたことを憶えています。作付も露地からトンネルハウス、パイプハウスへと変わり、最後は、鉄骨のハウスになりました。私は、昭和57年(1982年)に鉄骨ハウスを建て、同時期にハウスを建てた8人と共同出荷していましたが、やはり、『ほかの人が作っていないものを作ろう』と考えて、菊の栽培に切り替えることにして、その後30年以上菊を作り続けました。」

 (エ) 菊の出荷

 「菊を採るのは、お盆、秋のお彼岸、年末といった時期でした。私は露地栽培も行っていましたが、3月中旬から5月下旬にかけて出荷する2度切り栽培を行う場合には、早めに採って鉄骨ハウスの中で暖房をしながら栽培していました。暖房にはかなりの量の重油が必要で、年間の重油代が80万円から90万円くらい掛かったこともありましたが、お彼岸の需要期で値段が良かったときには、1回の出荷で100万円近くの売上があったこともありました。
 当時は私と妻がトラックを運転して、神戸(こうべ)の兵庫県生花市場と松山(まつやま)の久万ノ台の花き市場へ出荷していました。そのときには、2t車に菊が200本くらい入った段ボールのケースを70箱から多いときで100箱くらい積んで運んでいましたが、30箱くらいのときは運送会社に送ってもらっていました。神戸へ運ぶ際に、瀬戸大橋が架かるまでは、川之江-神戸間や高松(たかまつ)-宇野(うの)間でフェリーを利用していましたが、昭和63年(1988年)に瀬戸大橋が開通すると全て車で移動できるようになりました。平成10年(1998年)に明石海峡大橋が開通すると、瀬戸大橋を利用するよりも神戸への所要時間が25分から30分早くなり、午後10時に土居を出ると翌朝4時くらいには神戸に着いていました。午前7時から始まった競りが終わり、その場で代金をもらうとすぐに土居に向けて出発して、一睡もすることなく土居と神戸を往復していました。30年もの間、トラックでの長距離運転を無事故無違反で続けることができました。」

 (オ) ハウス栽培の特徴

 「私の家のハウスは、一般的なハウスとは異なり、屋根の内側に開閉できるように断熱用のカーテンがありました。カーテンの線がねじれて交差すると真っ直(す)ぐに直さなければならないので、1日に1回は歩いて見て回らなければなりませんでした。また、作物は連作を嫌うので、土の管理も大変でしたが、当時、使用していたサンヒューム(臭化メチル系土壌用消毒剤)という消毒剤のおかげで、連作障害もなく助かっていました(写真2-1-4参照)。私はその消毒剤を毎年使っていたのですが、臭化メチルがオゾン層を破壊する物質であるということで、平成17年(2005年)には全廃となり、とても困ったことを憶えています。」

図表2-1-2 改田区域(斜線部分)

図表2-1-2 改田区域(斜線部分)

Bさんからの聞き取りにより作成

写真2-1-3 田植えに使っていた「定規」

写真2-1-3 田植えに使っていた「定規」

平成30年10月撮影