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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 「往還」とくらし

ア 子どものころの思い出

 (ア) きれいな水路

 「私(Bさん)が子どものころ、往還の南側の水路には蓋掛けがされていませんでした。その水路にはとてもきれいな水が流れていたので、夏になると天然のウナギやアユ、フナがたくさん獲れていたことを憶えています。私たちがよく『地獄』と言っていた、竹で作った『ウナギの地獄獲り』と呼ばれる仕掛けに餌となるミミズを何匹か入れて、夜の間に水路に沈めておくと、一晩のうちにウナギが仕掛けに掛かっていました。水路は私の家の前の辺りで流れが緩やかになり、水深がある淵になっていたので、何個か仕掛けを作って設置していたことを憶えています。
 最近でも、昨年(平成29年〔2017年〕)、水路を暗渠(あんきょ)にするときには、工事担当者に『ウナギがおるけん、気を付けて工事してよ。』と言うと、『まさか、おらんやろ。』と返されたので、私は、『いや、絶対におるんやけん。』と強く伝えました。工事が始まると、水を汲(く)み上げるポンプが使われましたが、水を吸い上げる部分に取り付けられていた籠に大きなウナギが2匹掛かりました。ウナギはすでに死んでいましたが、それを見た工事担当者は、『おったなあ。』と驚いていました。去年もウナギを確認することができましたし、それまでも何回もウナギを見ることがあったので、水路の水は昔からきれいな状態で保たれているのだと思います。
 また、夏になると水路は子どもたちの遊び場になっていました。私たちは水路で泳ぐために、流れる水を堰(せ)き止めていました。山内病院と郵便局との境目辺りで水を堰き止めると、山内病院の西側の八百屋の辺りまで水が溜(た)まります。それだけ水が溜まると、私たち子どもが泳ぐには十分な水量となっていました。泳いでいるときにも、淵となっている部分にはフナやアユがいました。
 水を堰き止めること自体が子どもの遊びの一つになっていて、そのための板も自分たちで作っていたことを憶えています。近くの八百屋さんへ行き、使われなくなったリンゴ箱をもらって来て、それを上手に加工して水路に打ち付けて水を堰き止めていました。作ってみて、板が水路の幅に足りないようであれば、もう一度その八百屋さんへ行って、『もう一つ箱をおくれ。』と言って、お願いをして箱をもらって来ていました。夏に泳いだ水路の水はとても冷たく、きれいで、泳いでいて気持ちが良かったことを今でもよく憶えています。」

 (イ) バスの車掌さん

 「往還にはバスが通っていて、バス停は私(Bさん)の家の近くであれば、延命寺の誓松の所にありました。往還にはこのバス停と、国鉄伊予土居駅の入(はい)り口の所にもう一つバス停があったと思います。
 私が子どものころには、まだ木炭車が走っていました。私が小学生のころのことですが、私の家の近くに始発便となるバスが停(と)められていて、出発の準備をするためか、当時は車掌さんが運転手さんよりも1時間ほど早くそのバスの所へ来ていました。ある車掌さんはサツマイモを持って来ていて、木炭車のタンクの中に10俵から15俵分の炭を入れ、タンクの縁にイモを並べていました。私たちは車掌さんの所へ行き、車掌さんを手伝って子どもの力でフイゴを手動で回してタンクに点火していました。点火すると、その熱でタンクの縁が真っ赤になり、そのころにイモがちょうど良い具合に焼けているので、出来立ての焼きイモをご褒美にもらって学校へ持って行って食べていました。車掌さん1人でフイゴを回して点火する作業は大変だったのではないかと思います。それで、朝早く出会って点火を手伝ってくれる私たち子どものために、イモを用意してくれていたのでしょう。豊岡(とよおか)から来られていた車掌さんには、たくさんの焼きイモをもらったことを憶えています。今になって考えると、焼きイモに釣られていたような感じですが、私たち子どもは、フイゴを回して点火する作業の手伝いを本当に楽しみにしていました。」

 (ウ) 子どもの楽しみ

 「私(Bさん)が子どものころにはアイスクリームを売りに来たり、紙芝居をしに来たりする方がいました。アイスクリームを売りに来ていた方は、男性でしたが女性の格好をして、コルクやトタンを使って保冷するアイスボックスを取り付けた自転車に乗って、『チリン、チリン』と鈴の音を鳴らしながら売りに来ていました。一度、『なぜ女性の格好をしているのか。』と、子ども心に興味を持って聞いたことがあります。そのときは、『この格好の方がアイスが良く売れるから。』と答えられ、私は『そんなものか』と思ったことを憶えています。
 紙芝居は延命寺の松の所や今のユーホール近くで行われていました。この紙芝居は、誓座を経営されていた方の親戚の方が行っていました。自転車に乗り、鈴を鳴らしながらやって来て、この辺りを一回りし、決められた場所に着くと自転車のスタンドを立てて準備をしていました。当時、紙芝居は10円で観ることができていたので、10円玉を握りしめて遊んでいた私たちは、紙芝居の鈴の音が聞こえるとすぐに誓松の所へ行っていました。友人同士で遊ぶときにはよく先輩から、『お前、10円持って来とんか。』と言われていたことを憶えています。紙芝居のおじさんに10円を渡すと、『お前は何にする。切り抜きか、イカか、飴(あめ)か。』などと聞かれるので、『イカちょうだい。』と言うと、スルメイカを甘辛く炊いて割いたものを渡され、それを食べながら紙芝居を楽しんでいました。また、切り抜きを選ぶと、薄い板状の飴を針や自分の爪を使って削り、動物などの形にきれいに抜くことができればもう一つもらえる、という特典がありました。
 私が観た紙芝居で印象に残っているのは小天狗霧太郎(こてんぐきりたろう)などで、これは比較的長く続けられていたと思います。紙芝居のおじさんは、話がとても上手でした。紙芝居の紙の裏側には台詞(せりふ)が書かれているのでしょうが、台詞をそのまま読むのではなく、子どもたちの様子を見ながら絵に合わせた台詞を話してくれていたようです。紙芝居なので、絵が動くことはありませんが、おじさんの話を聞くと、その世界に引き込まれ、まるで紙芝居の絵が動き出すかのように頭の中で想像をすることができ、『おじさんの話し方はすごいなあ』と思っていたことを憶えています。紙芝居は1話、2話というように続けられるので、その日の話が終わると、次の日がとても待ち遠しく、とても楽しみでした。私だけではなく、どの子どもも同じ思いを持っていたようで、紙芝居のおじさんが来る時間までには、大勢の子どもが集まっていたことを憶えています。一つの話は大体7分程度の短いものでしたが、当時は私たち子どもが気軽に楽しむことができる、最大の娯楽だったと言っても良いくらいです。」

 (エ) 往還近くの線路

 「往還のすぐ近くには国鉄の線路が敷かれていて、私(Bさん)は友人と線路端まで走る汽車を見に行っていました。線路の近くまで行って、走る蒸気機関車を見ていたので、運転席に座っている機関士や機関車のボイラーに忙しく石炭を入れる機関助手の様子がよく見えていました。
 私たち子どもが蒸気機関車を見ようと線路に近づいていると、私たちの目の前を通過する直前に、機関車からは白い蒸気が、『シューッ』という音とともに吐き出されていました。熱せられた蒸気が私たちに向かって降りかかるように迫って来るだけではなく、蒸気の力で吹き上げられた細かい石なども飛んで来るので、私たちは慌てて逃げていました。恐らく、前方の安全を確認しながら蒸気機関車を動かしている機関士が、『近づいたら危ない』ということを私たちに教えるために蒸気を出していたのだと思います。実際、私たちも警笛を鳴らされるよりは蒸気が迫って来ることの方が怖かったので、子どもと機関車の双方の安全を確保するには効果的な方法だったと思います。私たちはいつも線路の盛り土の下の所にいたのですが、それでも機関車から見ると危険だったのでしょう。蒸気が出されると私たちは線路からさらに離れた、蒸気が届かない場所まで移動して機関車を見ていました。安全な所に移動して蒸気機関車を見ていると、多くの機関士さんや機関助手さんが私たちに向かって手を振ってくれていたことを憶えています。
 子どものころには、何時に列車が通過するということは完全に憶えていました。下り列車は必ず伊予土居駅に停車するので、もうすぐ列車が来るということは分かっていました。しかし、上り列車は大体の時間を憶えておかないといつ通過するか分かりませんでした。当時は警報機付きの踏切などなく、線路を渡るときには左右をよく確認して渡らなければなりませんでした。当時は延命寺の北側の踏切に、踏切手が遮断機を上げ下げする手動の踏切があった程度でした。」

 (オ) 昭和天皇の行幸

 「昭和25年(1950年)に昭和天皇が行幸で伊予土居駅に立ち寄られたときには、私(Bさん)も駅まで行きました(写真1-1-6参照)。大勢の人が集まって来ていて、駅前の広場が人で埋め尽くされたような状態になっていました。昭和天皇は駅でお召し列車を降りられ、駅前の広場に設置されていたお立ち台に上がって被(かぶ)っていた帽子をとり、集まっていた人々に振っていました。そのとき使われたお立ち台は、その後しばらく役場の倉庫に入れられていたようですが、後に指物大工さんが滑り台に作り替え、小学校で活用されていました。
 また、私の父の知り合いで海軍出身の方は、昭和天皇を駅でお迎えするために竹で幟(のぼり)旗を作っていました。昭和天皇をお送りした後に、この方が『お前、釣りするんだろ。川魚用の竿(さお)を作ってやる。』と言って、幟旗に使っていた竹で釣り竿を作ってくれました。この竿で釣りをすると、よく釣れていたことを憶えています。
 私たちは昭和天皇がお召し列車で出発するのを見送るために、線路端の畦(あぜ)道に整列していました。そのとき、『大抵、天皇さんは南側を向いて座っとるぞ。』と友人同士で話し、線路の南側に整列していた私たちは、昭和天皇のお顔を見てお召し列車を見送ることができると思っていたのですが、実際は北側の座席にいらっしゃったようで、友人たちと残念がったことをよく憶えています。私は初めて昭和天皇のお姿を見ることができたのですが、穏やかな表情で近くにいる人々に優しくお言葉を掛けられていたことが印象に残っています。」

 (カ) 農繁休業

 「当時、学校には農繁休業の期間がありました。私(Bさん)の家は農家ではありませんでしたが、親戚が農業を営んでいたこともあり、中学校を卒業するまでは手伝いに行っていました。
 当時は子どもである私でも労働力として必要とされていたようで、農繁期になると、学校が放課になる時間に合わせて叔母が正門で待ち構えていたことを憶えています。放課後に友人と遊ぶ約束をして、農作業に行きたくないときには正門ではなく裏門から出ることがありましたが、どこで話を聞き付けたのか、そのときには必ず裏門で叔母が待ち構えていたものです。私の親戚が耕作する農地は線路の両脇にありました。稲の苗取りや麦踏み、ジャガイモの収穫などの作業を手伝っていると、『おい、そろそろ鉄道馬車が通るけん、もうちょっと避(よ)けとけよ。』と声を掛けられていました。私が幼いころには、汽車の警笛が聞こえると、祖父母が『鉄道馬車の警笛じゃ。』と言っていたことを憶えているので、地元の大人は列車のことを『鉄道馬車』と呼んでいたのだと思います。
 また、当時、この辺りのいくつかの農家では子牛を飼っていました。その子牛が成長して犂鍬(すきぐわ)を付けて農作業に行くようになると、人間の指示通りに動くように、『脳に入れる。』と言われた、調教のような作業が必要でした。中学生くらいの子どもは、牛の鼻やりを任され、牛が暴れないように上手くコントロールしながら歩いていて、牛に、『ホチ』と声を掛けると歩き出し、『ドウドウ』と声を掛け、鼻を抑えると止まっていました。牛が左右に曲がるときには特に声を掛けることはなく、牛が引く犂鍬を扱っている叔父が、『右に曲がるぞ。』と言えば、鼻やりを右へ引いて曲がっていました。牛は私の言うことをよく聞いてくれました。しかし、ある牡牛が私だけを角で突いてきていて、叔父が、『これは危ない。どうにかせんといかん。』と言っていたので、調教に詳しい方に話を聞くと、『悪いことをしたときには、強く教える。』というアドバイスをいただきました。剣道をしていた私は、その牛が角で突いてきたときに、両前足を竹刀で思いっきり叩(たた)くと、それからその牡牛が私を角で突いてくることは一切なくなりました。ただ、痛い思いをさせるだけでなく、その後のフォローも大切で、竹刀で叩いた後には優しく頭を撫(な)でながら、『突いたらいかんぞ。』と声を掛けたり、叔父が持って来てくれた古い餅米を食べさせたりしたことを憶えています。」

イ 交通事情

 (ア) 未舗装の道

 「往還が舗装されていないときには、道がよくデコボコになっていました(写真1-1-7参照)。あるとき、私(Bさん)が店によく来ていた県土木事務所伊予三島出張所の職員の方に、『おっちゃん、こんだけデコボコになっとんやけん、グレーダー(整地作業をする機械)で均(なら)してくださいや。』と言うと、『もうそろそろこの辺りにも来るころやけん、もうちょっと待って。』と言われました。すると程なく、台風などの影響で川が運んできた土砂を使って道の整備が行われました。川が土砂を運んでくると、余計な土砂を置く場所に困っていたということがあったようで、道路の整備や路面の整地作業にその土が使われていたのです。
 路面が整地されておらず、デコボコになったままの状態のときに雨が降り、穴に溜まった雨水を車が撥(は)ねると、その水しぶきが奥の座敷まで入って来ることがありました。当時、半間(げん)(約91cm)の土間の奥に12畳の座敷があり、朝、雨戸とガラス戸を開けて掃除をしていると、車が比較的速いスピードで往還を通ることがありました。その際、『バシャーン』という音が聞こえると、次の瞬間には座敷に水が飛び込んで来ていたのです。そのときには、いつも母親が怒りながらも水浸しになった畳を丁寧に拭き、乾かしていたことを憶えています。
 雨の日には、水溜まりの水に悩まされていましたが、晴れた場合には、風で巻き上げられる砂埃(すなぼこり)に悩まされていました。特に夏場には砂埃がすごかったことを憶えています。少し風が起こると、往還は煙幕を張ったような状態になっていました。その中を歩くと体中に砂埃が纏(まと)わり着くので、家に入るときには玄関先でタオルを使って体中を叩(はた)き、砂埃を落としてから入っていました。それくらい砂埃が立っていたので、私が子どものころには、私はもちろんのことですが、兄や姉も学校から帰ると、家の前の水路から水を汲み上げて、店の前に撒(ま)き水を打つことが日課となっていました。晴れた日には、往還沿いに住む方はどの家でも水を撒いていたと思います。砂埃がひどいときにはマスクを着用することもありましたが、空気を吸い込む鼻や口の形に合わせて、その表面が砂埃で茶色くなっているほどでした。また、喉が渇いて牛乳などを飲むと、口の中がザラザラとしたような感覚がありました。細かい砂が口の中に入ったままになっていたのだと思います。よく母親は、私に、『牛乳を飲む前にうがいをせい(しなさい)。』と言っていたことを憶えています。
 往還が舗装されたのは、昭和36年(1961年)に町役場が現在のユーホールの場所に移転して、何年か経ってからのことだったと思います。」

 (イ) 狭い道

 「往還は未舗装の上に道幅が狭く、対向車同士、普通車同士はもちろんのこと、特にトラック同士であれば、離合できる場所まで片方がバックするなど、譲り合わなければ離合することができませんでした(写真1-1-8参照)。あるとき、南予の方から高松(たかまつ)(香川県)の木材市場へ向かうトラックが、木材を積んで西から往還を走って来ました。このトラックが、往還の東から来たトラックと私(Bさん)の家の前付近で対向したときには、お互いが譲らず、両方のトラックの運転手が積荷の上に登って胡坐(あぐら)をかいて座り込み、弁当を取り出してそこで昼飯を食べるというようなことがありました。お互いがそうやって相手がしびれを切らすのを待っていたのでしょう。結局、派出所のお巡りさん2人くらいが現場にやって来て、『わしの車が先にここまで来とる。』などと主張する両方の運転手を説得しながら、『お前、さがれ。』などと指示を出して何とか離合させようとしていました。かなりの時間が経っていたので、両方のトラックの後ろには進めなくなった車が数珠繋(つな)ぎの状態となって、渋滞が発生していたので、お巡りさんも早くこの2人を何とかしたかったのだと思います。大型の車、特にトラック同士が往還で対向すると、このような出来事が何回もあったことを憶えています。現在の往還は水路に蓋がされたことで、道幅が比較的広く見えますが、当時は蓋がなく、道幅がとても狭かったのです。
 西から来た木材を積んだトラックが延命寺の駐車場付近まで後退すればすぐに解決するのですが、荷台には丸太を大量に積んでいるため、運転手が、『バックして四つ角でハンドルを切ったときに荷台のバランスが崩れて積荷が崩れたらどうするのか。』などと言い返すと、お巡りさんは運転手に対して何も言えなくなってしまっていました。結局は、お巡りさんが東から来たトラックの運転手を説得し、離合できる場所までバックさせて解決していました。」

 (2) 土居町でのくらし

ア 公民館主事として

 (ア) 新生活運動

 「私(Aさん)が公民館主事として勤務していたころには、新生活運動が提唱されていました。新生活運動では、例えば、正月については旧暦を廃止して新暦のみとするであるとか、お盆は新暦の8月15日にするなど、古い因習を打破しつつ近代的な生活スタイルに変えていくという、人々の日常の生活に大きく影響することが多く含まれていました。当時の公民館は、この新生活運動の中心となって、地域住民に対する普及、啓発の役割を担っていました(写真1-1-9参照)。
 当時は県庁に新生活運動協会本部が置かれていて、運動を進めていくための資料が数多く送られて来ていたことを憶えています。新生活運動の県大会は松山(まつやま)で開催されていました。私も出張で松山へ行くことがありましたが、当時は伊予土居駅から列車に乗って松山へ行っていました。松山での会合が長引くと、夜行列車に乗って帰って来ていたことをよく憶えています。会合で松山へ行って、帰宅が夜遅くなるということはあまりなかったと思いますが、青年団の会合があるときには、夜中の2時30分に伊予土居駅を出発する夜行列車に乗って松山へ行き、松山駅を夜中の2時30分に出発する列車に乗って、朝方に土居へ帰って来ることもありました。」

 (イ) 楽しく、やりがいを感じた仕事

 「当時は地域の住民の多くが公民館事業の取組みや行事に大変協力的でした。特に小学校など地域の学校も同様で、あるとき、滋賀県の特別支援学校にお勤めだった校長先生が、こちらの学校の校長として地元に帰って来たことがありました。この校長先生は、子どもの育て方や新生活運動を収録した16ミリフィルムを校区内の各地域で上映してその普及に努めていました。公民館だけが地域住民に対して普及するのではなく、学校とともに一緒になって地域に入り、住民を巻き込みながら普及活動を実施することができたので、仕事をするのも楽しかったことを憶えています。
 私(Aさん)は、公民館主事の仕事にはとてもやりがいを感じていました。念仏踊りを復活させたときには、途絶えていた伝統芸能を地域で復活させる活動であったことから、NHK広島放送局で行われた中四国芸能発表会に愛媛県代表として選ばれ、出場させていただいたことも良い思い出です。公民館で勤務しているときには、仕事をしていて『おもしろい』と感じることが多かったと思います。」

イ 理容師として

 (ア) 理容学校への通学

 「中学校を卒業後、私(Bさん)は新居浜の理容学校へ進み、伊予土居駅から国鉄の列車を使って毎日通学していました。当時の列車は蒸気機関車が客車を牽(けん)引する編成になっていて、朝の通勤通学の時間帯の下り列車は、新居浜の住友へ通勤する大人と、高校などへ通学する学生とで満員以上の状態になっていたことを憶えています。
 それだけ人が多く列車に乗っていたので、客室に入ることができない乗客がいて、その人たちの中には、デッキで手すりにしがみついている人もいました。客車は8両くらい連結されていたと思いますが、朝夕の通勤通学の時間帯にはそれを大幅に上回る利用者がいたということなのでしょう。伊予土居駅を満員の状態で出発した列車が、新居浜市に入って多喜浜(たきはま)駅に到着すると、大勢の乗客が下車し、駅に置いてあった自転車に乗り換えて職場や学校に向かっていたようです。多喜浜駅でまず乗客が下車し、新居浜駅でさらに下車していたので、それから先は8両の客車には客がほとんど乗っていない状態だったことを憶えています。
 蒸気機関車は大勢の乗客が乗った客車を牽引していたので、スピードは遅かったと思います。後に準急せとが予讃本線を走るようになりますが、準急でも現在の普通列車より遅いくらいでした。」

 (イ) 宝塚、土居間の交通

 「私(Bさん)が宝塚の撮影所へ行くときには、準急せとで高松まで行き、宇高連絡船では本州に渡るのに2時間かかるので、より短時間で渡ることができるホバークラフトに乗っていました。それでも宝塚へ行くのに時間がかかっていたので、どうにか早く移動ができないものかと思っていたときに、新居浜の黒島(くろしま)沖に日東航空の水上飛行機が就航しました。就航後はこの水上飛行機に乗って伊丹(いたみ)空港(大阪国際空港)まで移動できるようになったので、移動のための時間が大きく短縮されて助かりました。
 水上飛行機は陸上にも着陸が可能でした。当時はグラマンマラードやビランドマッター、スーパーウィジョンなどと呼ばれていた機体が使用されていたことを憶えています。グラマンマラードが定員12名から15名ほど、ビランドマッターが11名から13名ほど、スーパーウィジョンが5名から8名ほどと、どれも小さな機体でした。
 また、私が勤めていた撮影所の親会社が阪急だったので、阪急電車を利用するときに使う社員用の定期券が支給されていました。この定期券については、当時、私鉄の労働組合が一本化されていたこともあって、土居に帰って来てせとうちバスに乗るときでも利用することができていました。私が宝塚で仕事をしていたときには、休日になると、この定期券を使って電車に乗って色々な所へ出掛けていたことを憶えています。日東航空に乗ってこちらに帰って来ると、黒島から東浜(ひがしはま)(新居浜市)までの間は新居浜市営バスを利用していましたが、市営バスでは支給されていた定期券が使えなかったので、料金の10円を支払って乗車し、東浜からは土居を経由して川之江(現四国中央市)まで行くせとうちバスが走っていたので、阪急からいただいていた定期券を使って乗車し、土居まで帰っていました。」

 (ウ) 父からの教え

 「私(Bさん)は昭和45年(1970年)、宝塚から土居町へ帰り、理容師としての仕事を本格的にスタートさせました。宝塚へ行く前以来のことなので、数年振りのことでした。仕事を始めるに当たっては、理容師の仕事を通して父から教えられていた、理容師としての心構えや技術が大変役立ちました。
 私は理容師の資格を取得し、宝塚へ行くまで実家の理容店で父の仕事を手伝っていました。ある年の大晦日(おおみそか)、父と一緒に仕事をしていると、私の友人が午前2時30分ころに訪ねて来て、『こんぴらさん(金刀比羅宮)へ初詣に行こうや。』と誘ってくれました。仲の良い友人4人ほどが誘いに来てくれたのですが、父から『お前、お客さんを放っておいて行ったらいかんやろ。』と怒られて、私は行くことができませんでした。その日の午後2時30分ころになって、その友人が一緒に行くことができなかった私にお土産を届けてくれましたが、そのときはとてもうれしく思ったと同時に、父の言葉から職業人としての自覚を持つことの大切さを学んだと感じたことを憶えています。
 私がまだ幼いときには、店の手伝いをすることはありませんでした。中学校を卒業して専門学校に入学し、本格的に資格を取得することが決まると、手伝いをするようになったと思います。理容店には刃物がたくさんあり、それらの加工も自分で行わなくてはならないため、ある程度の自覚と責任感が必要とされているのです。自分が使うカミソリやハサミの手入れの仕方は、学校で教わるのではなく、私を実地で指導してくれる父から学び取っていました。学校では髪を切る技術や衛生学、消毒学といった基礎的な知識を身に付けることができましたが、経験を必要とする感覚的な技術は実地の指導者から学び取ることが大切でした。私は今でも刃物の手入れは必ず自分で行っていて、大切な道具を良いコンディションで保つことができているので、父の教えはとてもありがたいことだと感じています。父はよく、『刃物を使う仕事である以上、人の命を預かっている。』と言っていて、その指導はとても厳しいものでした。ハサミやカミソリの持ち方から、お客さんのヒゲを剃(そ)るときには逆剃りをするのではなく、自分の身体を動かしてより安全な方法で剃ることなど、技術的なことまで厳しく指導されたことをよく憶えています。逆剃りについては、自分の手首を返せば簡単に剃ることができますが、もし、お客さんが動くと怪我(けが)をさせてしまう恐れがあるため、お客さんの安全を第一に考えた指導であったと思います。
 父の体調のこともあり、私が土居に帰って再び理容師としての仕事を始めてから、理容専門学校を卒業したばかりの若い理容師を6名ほど育ててきました。基礎から応用まである程度の技術はもちろんのこと、私が父から教わったお客さんの安全が第一ということについては、しっかりと厳しく指導してきました。
 私が宝塚へ行く前も、帰って来てからも理髪店での仕事はとても忙しいものでした。待ち合いで大勢のお客さんに順番を待っていただくこともありました。私は店を朝8時に開けていましたが、当時は8時になると、店の外でお客さんが何人か待っていることがあったくらいです。特にお盆やお祭り、正月などのいわゆる紋日の前になると早い時間からお客さんが大勢来ていたと思います。閉店は一応20時としていましたが、時間通りに閉店することはほとんどなく、大体21時くらいまではお客さんがいることが多くありました。ただ、私がこちらに帰って来てから後は、土居にも理美容の店が増えてお客さんが分散したこともあって、閉店時間が遅くなるということはほとんどなくなったと思います。もともと往還沿いには私の店と父が育てた弟子の店、東の方の店の3軒ありました。それでも店には大勢のお客さんが来ていたので、3軒では足りないくらいの需要があったと思います。」

 (3) 昭和36年の大火

 「昭和36年(1961年)に発生した大火は、宇摩郡特有のやまじ風が吹いていたときに、山仕事に行っていた人の焚(た)き火の不始末が原因で火が広がっていき、強い風が吹いていたことにより火は勢いを増し、火元の畑野山から川幅の広い浦山川を越えて、東隣の入野山にも飛び火していったことを憶えています。消火には相当な時間がかかり、3日間くらいはかかったのではないかと思います。およそ300m離れた私(Aさん)の家にも火の粉がたくさん落ちてきて、大変な思いをしたことを憶えています。ほとんどが瓦屋根の家で、茅葺(かやぶ)きの家はなかったので、私の家の近くでは大きな被害を受けた家はありませんでした。ただ、瓦屋根ではあっても家が焼けてしまった、という被害を受けた地域もありました。それくらい大きな火事だったのです。」
 「昭和36年(1961年)に起こった山火事のとき、私(Bさん)はたまたま土居町に帰省していたので、現場へ行きました。私は宝塚の撮影所で勤務している間に消防の訓練を受けていました。当時、会社には自衛消防団の組織があり、大阪(おおさか)市生野(いくの)区で消防ポンプを製作していた会社で1週間ほど講習を受け、梯子(はしご)車やその他消防機材の操作方法についても一通り学んでいたのです。
 この山火事は大規模で、およそ300m離れた私の家まで火の粉が飛んで来て、それはすごかったことを憶えています。私の母親は、慌てた様子でバケツに水を汲み、火の粉が飛んで来たら、『火の粉が飛んで来よる。早よ消して。』と言いながらすぐに消していました。私が真っ赤に燃えている山火事の様子を眺めていると、消防署に勤める知り合いの方から、『講習を受けているのであれば、手伝いに来てくれないか。』と頼まれ、まずは現地で消火作業に当たる消防士のために、たくさんのお弁当を背負って届けました。すすきヶ原にお弁当が用意されていて、『気を付けて上がって行ってくれ。』と言われました。私はその弁当を運びながら、『下を通ったらいかんよ。』と、多くの方に注意をして回りました。多くの方が、言われたことの意味を理解できず、『何で。』と問い返してきたので、さらに、『山火事のときは、火の下を通ったら怪我をする。』と伝えました。それでも、『道があるけん、その道を通らないかんやろ。』と言う方もいたので、『山火事が起こると蔓(つる)が焼け切れる。蔓が焼け切れてしまうと、それによって落下が食い止められていた石が落ちてくる。だから火の下を通ったらいかん。』と、きちんと説明して納得してもらいました。実際にこの山火事で、落石によって怪我をした方がいらっしゃいました。消防署の方には、『お前の言うた通りやったのう。』と言われたので、『私は講習を受けて山火事の恐ろしさを知っています。だからこそ、中腹の火と火の間を通って行ったのです。』と答えました。山火事では、中腹に必ず焼け残った場所や焼けてしまった場所ができます。風の方向などを見ながら、その場所を通って行くことが最良の方法なのです。
 消防の手伝いを行っていたので、私は山火事の現場近くで夜を明かしました。ただ、両親は、『山へ消火活動を手伝いに行った息子が帰って来ない。無事なのだろうか。』と、とても心配していたようです。結局、この山火事は3日半続き、最後は自然鎮火に近かったのではないかと思います。」

参考文献
・ 土居町中央公民館『土居町の展望』1957
・ 土居町『町勢要覧』1969
・ 土居町『土居町振興計画』1971
・ 土居町『町制20周年を記念して』1974
・ 土居町『土居町誌』1984
・ 土居町『町勢要覧』1984
・ 土居町教育委員会『土居のくらし』1987
・ 愛媛県『愛媛県史 県政』1988
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 四国中央市教育委員会『四国中央市のくらし』2011