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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 往還の町並み

 「私(Aさん)の父が土居町出身だったこともあり、すでに戦争が激しさを増していた昭和19年(1944年)、国民学校4年生のときに縁故疎開でこちらに来ました。昭和20年(1945年)8月に終戦となり、私はそのまま土居町でくらすようになったのです。戦中から戦後にかけては食糧難で、大変な苦労をしたことが今でも思い出されます。辛(つら)い思いもしたので、『戦時中の苦労については一口には語れない』というのが私の本音です。
 戦後の学制改革により、昭和22年(1947年)に発足した六・三・三制による新制中学校、そして小富士高等学校(現愛媛県立土居高等学校)の定時制課程へと進み、高校卒業後はいくつかの仕事を経験して、1年半が経(た)ったころに町教育委員会の公民館主事として採用されました。採用後は、教育委員会だけではなく、町長部局でも他の公務に携わりました。」
 「私(Bさん)は土居町で生まれ、昭和36年(1961年)ころだったでしょうか、宝塚(たからづか)市(兵庫県)にあった東宝の撮影所(宝塚映画製作所)に就職し、その後、昭和45年(1970年)まではそこで生活していました。数年間地元を離れて生活していたので、その間の土居町については、帰省したときのことなど、断片的な記憶しかありません。」

ア 役場から西へ

 「土居の商店街には、店名や営業内容の移り変わりが激しい店舗があることから、私(Aさん)は年代を限定して正確に記録していくことは難しいのではないかと思っています。
 役場庁舎は、昭和34年(1959年)に完成しました(写真1-1-2、図表1-1-2の㋑参照)。それまで庁舎は延命寺の向かい、土居農協の南側にありました。新しく建設された庁舎の西側には、昭和40年(1965年)ころには中央公民館と隣保館が建設されていました。また近くには、信用金庫やカーペットなどを扱うインテリア店、食堂、産婆さんの家などがあり、役場庁舎の向かい側には印判店や洋服店があったことを憶えています。昭和40年前後には、役場庁舎の北西には左官屋、巡査派出所があり、そこからさらに往還を西へ行くと桶屋や歯科医院、精肉店が、山内病院の前側、往還沿いの位置に入野(いりの)郵便局、八百屋、燃料店、下駄(げた)屋、おもちゃ屋がありました。往還は、お遍路さんがお寺(延命寺)を巡拝するときに通る道でもあったので、このおもちゃ屋は巡拝客相手のうどん屋や饅頭(まんじゅう)屋として営業していた時期もあったようで、南予の人がよく饅頭を購入していた、という話を聞いたことがあります。延命寺の近くには、お遍路さんを相手にする店が多くあったのです。」
 「私(Bさん)の家の前には入野郵便局がありました。入野郵便局が現在のユーホールの駐車場となっている場所に移転するときには、土居郵便局と改められていました。入野郵便局ができる前、郵便局は駅前にあって、飯武(いだけ)郵便局という名称だったと思います。飯武郵便局が移転して入野郵便局に、入野郵便局が土居郵便局となってその後移転していったのです。
 入野郵便局の建物には電報電話局が入っていました。2階部分には電話交換業務を行う部署が置かれ、1階には電報電話局の工事部が置かれていました(写真1-1-3参照)。私がまだ学生だったころ、夜になると電話交換業務を行っていた2階の部屋によく呼ばれていました。『ちょっとおいでや。』と、2階から職員の方に呼ばれて部屋へ行くと、職員の方は、『ちょっと見とってんよ(見ていてください)。』と私に伝えて席を離れていました。その間、私は交換機の前で電話連絡が来ないかどうか、じっと座って見ておかなければなりませんでした。夜間になると職員の人数が2人程度にまで減っていたので、トイレ休憩も含めて席を空けることがなかなかできなかったのでしょう。電話が掛かってくると交換機のレバーが開くので、それを見ていた私が、『何番が開いたよ。』と言って、職員の方に伝えていたことを憶えています。」

イ 延命寺から東へ

 (ア) 遍路宿

 「延命寺から往還を役場へ向いて進むと、道の北側には食堂があり、続いて『ナバエミセ』という、文具とお菓子の販売店がありました。『ナバエミセ』の東側には酒店があり、牛乳卸店、理髪店と続き、お餅屋、呉服店がありました。呉服店から路地を挟んだ向かい側には、もと『ヱビスヤ』と呼ばれていたお遍路さん相手の旅館がありました(図表1-1-2の㋒参照)。『ヱビスヤ』さんの壁には、恵比寿(えびす)さんが大きな鯛を釣り上げたところを五色できれいに描いた大きな鏝絵(こてえ)がありました。延命寺の近くの往還沿いは、明治時代まではお遍路さん相手の旅館街だったと私(Aさん)は聞いていますが、昭和40年(1965年)ころには旅館としての営業はしていなかったと思います。」
 「私(Bさん)が子どものころ、遍路道でもある往還には大勢の歩き遍路がいました。延命寺では20人程度の参拝客が御詠歌を詠んでいるのを毎日聞いていました。延命寺の誓松の木の上で遊んでいると、鈴の音が聞こえてきて、『鈴の音がようけしだした(たくさん鳴りだした)ぞ。』と、友だちと話していると、大勢のお遍路さんが参拝に来て、御詠歌を詠んでいたのです。当時はこのような大勢のお遍路さんを相手にした旅館も3軒ほどありました。私たちはその旅館のことを『旅籠(はたご)』と呼んでいたことを憶えています。また、『木賃屋』と呼ばれていた、宿泊料の安い木賃宿もあったと思います。木賃屋に泊まるお遍路さんの中には、自ら托鉢(たくはつ)を行ってお米などの施しを受け、それを宿泊代として宿に支払っていた方もいたと聞いたことがあります。」

 (イ) 氷屋

 「『ヱビスヤ』の東隣には食堂があり、割烹(かっぽう)料理店、写真店と続きます。写真店からは民家が2軒続き、洋品店、遍路宿の一角を改築してオープンした飲食店がありました。さらに菓子店、飲食店と続き、『氷屋』と呼ばれていた、氷を仕入れて販売する店があり、国鉄伊予土居駅の南側にあった氷製造所から仕入れていたことを私(Aさん)は憶えています。氷屋の隣には司法書士の方が事務所を構えており、石材店へと続きます。往還から役場庁舎へと続く丁字路には、豆腐の製造・販売を行う店がありました。さらに東へ進むと、自転車店、木工所があり、文具店、司法書士事務所と続いていました。」
 「当時、氷はとてもよく売れていたようで、朝、トラックで駅前にあった氷製造店から運ばれて来た氷は、お昼には売り切れていることがほとんどでした。氷屋で買う氷はとてもきれいで、向こう側が透き通って見えていたことを憶えています。
 氷の話になりますが、私(Bさん)が子どものころには、発熱をすると土居と別子山の境になる二ツ岳(ふたつだけ)まで氷を取りに行ってもらっていたようです。病院の先生が私の家に髪を切りに来ていたときのことです。発熱している私の様子を診た先生が、『これはいかん。氷で冷やしてやらな。』とおっしゃったので、両親は慌てて氷屋へ走りましたが、既に氷は売り切れてしまっていました。そこで先生が、『私の知り合いに頼んでみましょう。』と、病院で使う天然の氷を取りに行く方に頼んでくれました。二ツ岳には夏場でも天然の氷があったので、当時は氷が融(と)けないように大鋸屑(おがくず)と塩をドンゴロスに入れて歩いて二ツ岳に行き、取った氷をそのドンゴロスに入れて持って帰っていました。氷を取るには頂上付近まで行かなくてはならなかったようなので、それは大変なことだったと思います。私も私の兄も、子どものころには二ツ岳の氷を取って来てくれた方には何回かお世話になったことを憶えています。」

ウ 広島銀行

 「丁字路の南東角には薬局があり、薬局と法務局との間には広島銀行の支店がありました(図表1-1-2の㋓参照)。なぜ土居町に広島銀行があるのかと不思議に思われる方も多いのではないかと私(Aさん)は思っています。
 広島銀行は、かつては芸備銀行といい、その前は三島銀行でした。三島銀行を設立した方の1人に入野村の御出身の方がいたことから、『土居町にも芸備銀行を置かなくてはならない』ということになったようです。広島銀行となってからも町内に支店が置かれていましたが、平成18年(2006年)3月に土居支店は三島支店に統合され、支店はなくなりました。しかし現在でも、町内のスーパーの一部には、広島銀行のATM(現金自動預け払い機)が設置されていて、支店が置かれていた当時の名残をとどめているのです。」

エ 誓座

 「法務局の向かいには水道工事店、青果店があり、その東隣には誓座(ちかいざ)という劇場を経営していた御主人の家がありました(図表1-1-2の㋔、写真1-1-4参照)。
 誓座は劇場で、映画の上映が多かったことを憶えていますが、それ以前は芝居がよく行われていたようです。戦後になって映写機が置かれ、映画が上映されるようになりました。私(Aさん)が町の職員として公民館で仕事をするようになったころには、まだ営業していたはずなので、昭和40年代に閉館していたのではないかと思います。
 誓座にはよく映画を観(み)に行っていました。建物の中は、内子(うちこ)町に現在も残っている内子座とよく似ています。客席は升席で区切られていて、昔は地べたに座っていたのかもしれませんが、私が通っていたころには区切られた枠内に長椅子が置かれていたと思います。2階席もありましたが、2階席で映画を観ているお客さんは、板の上に直接座っていたことを憶えています。
 誓座ではNHKの『のど自慢(当時は「のど自慢素人演芸会」)』が開催されたことがありました。私がよく行っていたころには多くのお客さんが入っていて、『溢(あふ)れるくらい』という表現がピッタリと合うような状況でした。しかし、経営されていた方が誓座の営業をやめてしまうと、人が使わなくなった誓座の建物は古くなってしまい、屋根が落ちかけた状態になっていたことを憶えています。」
 「私(Bさん)が小学校6年生のときの学芸会は誓座で行われました。誓座の回り舞台を使って那須与一の劇を行い、私は主役の与一を務め、弓を放ったことをよく憶えています。学芸会の前日練習でも学校から誓座まで来て、舞台を使って練習をしていました。それまでにも学校で一生懸命に練習をして、誓座での前日練習に臨んだことを憶えています。誓座の舞台は回り舞台の装置があるため、奥が広く、実際に舞台上で動いてみなければ広さの感覚をつかむことができなかったと思います。また、劇場で行うため、声の出し方も先生に教えてもらいながら練習しました。誓座での前日練習のとき、先生にはよく、『その声では後ろまで届かんぞ。』と言われていたことを憶えています。大きな声、特に甲高い声を出すと声がきれいに劇場内に響き渡り、練習をしている自分もそれを確認することができるほどだったので、一生懸命に声を出すようにしていたと思います。昭和27年(1952年)ころのことですが、誓座の建物はとてもきれいな建物でした。劇場の中は升席で区切られ、両脇には花道がありました。回り舞台は舞台下に何人かが入って、覗(のぞ)き窓から舞台の様子を見ながら人力で動かしていました。
 昭和30年(1955年)ころ、テレビがまだ各家庭に普及していなかった時代には、誓座で芝居や映画などがほぼ毎日のように催されていて、特に映画は昼と夜の2回上映されていました。昼は12時30分から、夜は18時から上映されていました。昼は2本立て、夜は4本立てで夜中の12時ころまで上映されていたことを憶えています。私は中学生のころ、夜の上映によく行っていました。上映が始まる18時から行くのではなく、20時ころに行っていました。これくらいの時間に行くと、150円くらいだった入場料をいくらか割引してくれて、恐らく、70円か80円くらいになっていたのではないかと思います。誓座の経営者の方をよく知っていたから割り引いてくれていたのでしょう。私が、『おっちゃん、来たでえ。』と言うと、『おお、よう来たなあ。半分だけ置いとけ。』と言われて、70円か80円で入れてくれていました。誓座の中には売店があり、夏の暑い時期になると、カチワリ(氷)が売られていたことをよく憶えています。」

 (2) 延命寺の賑わい

ア サーカスと亥の子相撲

 「昭和30年代の前半、昭和34年(1959年)くらいまでのことだと思いますが、延命寺の境内では、サーカスなどの興行が催されていたことがありました。鉄でできた網状の大きな球体の中を、2台のオートバイが爆音を立てながらグルグルと回っていたことを私(Bさん)は憶えています。サーカスには大勢のお客さんが来ていて、土居町内はもとより、伊予三島から観に来ていたお客さんもたくさんいたようです。
 また、延命寺の境内では、亥の子のときに亥の子相撲が開催されていました。この辺りでは、亥の子を搗(つ)いて各家を回る代わりに相撲大会が行われていて、それで『亥の子相撲』と言われます。これは青年団が主催していた相撲大会で、大人の部も子どもの部もあり、大勢の人が参加していました。亥の子相撲の参加者は、『力飯(ちからめし)』といって、お米を炊いて、1個につき2合くらいの御飯を使って、大きな固いおにぎりにしたものを持って来て食べ、力を付けて相撲を取っていたものです。この『力飯』の中には梅干しの果肉が入っていて、とてもおいしかったことをよく憶えています。この行事は私が土居に帰って来てからは行われなくなったと思います。」

イ 地蔵祭り

 「延命寺の御本尊はお地蔵さんで、8月23日には、地蔵菩薩の地蔵盆が執り行われていました。そのときには、延命寺の付近で花火が上がったり、小学生や婦人会の方々が『地蔵踊り』と呼ばれた踊りをしたりして大変に賑わっていたことを私(Bさん)は憶えています。この地蔵盆の行事が現在の土居の夏祭りになっています。花火は後に規制されて行われなくなりましたが、それでも賑やかなお祭りでした。」
 「延命寺は地蔵菩薩をお祀(まつ)りしていて、そのお祭りが8月23日に行われます。このときには仕掛け花火が行われ、たくさんの人が集まっていたので、多くの店が出ていました。
 私(Aさん)が公民館主事として中央公民館で勤務していたころには、この地蔵祭りに合わせて、延命寺の境内を会場にして、公民館主催で盆踊り大会を開催したことがありました。私も準備や運営の世話をさせていただいたことを憶えています。
 また、一旦途絶えてしまっていた念仏踊りを、公民館が中心となって復活させたということも思い出として心に残っています。途絶えてしまっていた踊りを、地元の人と一緒になって活動して復活させることができたときの喜びは、今でもよく憶えています。復活させた念仏踊りには1番から12番まで歌詞がありました。それらを記録しているものを見てもそれ自体が古い書物で、経年の影響で消えている部分が多くあったり、歌詞を受け継いで覚えている人も少なかったりしたので大変苦労しました。しかし、苦労をした仕事ではありましたが、私にとっては一番の思い出として心に残っているのです。」

ウ 土居市

 (ア) 土居市の賑わい

 「延命寺の近くの道路沿いには、年末になると土居市と呼ばれる市が立っていました。当時は往還の南側には小川が流れていて、土居市が開催されるときには、蓋をして川を塞ぎ、その上に出店が建っていました。往還沿いに数多くの出店が並んでいて、年を越すために必要な品をはじめとして、数多くの品が売られていたことを私(Aさん)は憶えています。
 土居市は昼間から開かれていました。出店が営業しているときには、夕方から夜になって辺りが暗くなってくると、出店がそれぞれカーバイドランプで明かりを確保して営業していたようです。後には電気を引いて裸電灯の明かりで営業をしていました。」
 「土居市では、道沿いに出店が並んでいて、延命寺の境内には6軒ほどの唐津屋さんのほか、駄菓子屋、立ち食いのうどん屋、衣類販売店など、多くの店が出ていました。
 出店は地元の方が出すのではなく、他の地域から来られた方が出していて、乾物を販売する店は北海道から来られた方が出されていました。当時、よく使われていた石炭箱で塩数の子、棒鱈(ぼうだら)(鱈の干物)、鮭、昆布、ワカメなどが運ばれていたことを憶えています。この北海道の方は私(Bさん)の父と知り合いで、父が仕事の都合で4年ほど北海道に住んでいたときに、同期の社員に土居市の賑わいについて話したことがあり、それから土居市が開催される時期になると、石炭箱に入れられた乾物が北海道から伊予土居駅まで送られてくるようになったのです。
 伊予土居駅に届けられた荷物は、駅前の日通さんが私の家まで運んで来て、庭に一旦置かれると、新居浜や三島、川之江で乾物を販売する方たちがオート三輪で私の家までやって来て、土居市で商品として並べられる前に購入していたことを憶えています。この方たちは、先に北海道の送り主に連絡を取って、売買の約束をしていたので持ち帰ることができていたようです。出店に並ぶ商品の数が少なくなっていたので、どうしても購入したい一般のお客さんは、私の母に、『数の子お正月に使うけん。』などと理由を言って、『きれいな商品を取っておいてくれないか。』と頼み込んでいたようです。母は、頼まれたことを放っておくことができず、送り主の方に問い合わせて、『取っておいていいですよ。』という返事をもらい、なるべく頼まれ事には応えるようにしていたと思います。
 何年も北海道から荷物を送ってきて、小さな町で販売をされていたのですが、土居市で販売をすることで大きな利益を上げることができていたのでしょう。土居市は昭和40年(1965年)ころまでは開催されていたと思います。土居市が開催されているときには、誓座があった辺りまで多くの出店が並んでいたことを憶えています。」

 (イ) 土居市と別子山村

 「土居市が一番賑わっていたころには、別子山村に住む人々が法皇山脈を山越えをしてまで買い物に来ていたくらいでした。別子山から土居市に来る人たちは長い道のりを歩いて土居まで来ていたようです。弟地(おとじ)に住む人々はあまりこちらには来なかったかもしれませんが、保土野(ほどの)辺りに住んでいた人たちは土居まで来ていたのではないかと私(Aさん)は思います。
 別子山と土居との関係について、時代を遡って考えてみると、元禄4年(1691年)に別子銅山が開かれて、元禄14年(1701年)までの10年間は浦山川の上流の小箱(こばこ)峠を越えて、天満港へ鉱石が運搬されたり、生活物資が搬入されたりしていました(写真1-1-5参照)。たった10年間でしたが、『別子山と土居とを結ぶ道は形づくられて発達し、人々のつながりが形成された』と言えるのです。また、土佐へとつながる道もあって、伊予三島の富郷(とみさと)へ出ると、銅山川の支流に猿田川があります。川に沿って進み、白髪(しらが)峠を越えると高知県に入ることができるのです。」
 「別子から天満の港へ鉱石を出すときに通られていた道は、当時の名残で現在でも『鉱山道(どう(みち))』と呼ばれています。鉱山道は、後に開坑された伊予鉱山の鉱石などが運ばれていました。私(Bさん)たちも普段の生活の中で『鉱山道(みち)』と呼んでいましたが、この『鉱山道』という名称は、私たちより下の世代では知らない方が多いのではないかと思います。私たちの世代では、青年団の集まりがあるときには、『鉱山道のどこそこに何時に集まれ。』とか、中学生のとき、植林のために浦山にあった学校林へ行くときには、先生から、『鉱山道の所に苗木が置いてあるので、そこから取って行くように。』というように指示されていたことを憶えています。
 また、往還には博労さんもいたので、私が中学生のときには、この博労さんが息子さんと牛を連れて別子まで行くときに一緒に連れて行ってもらったことがありました。中の川(なかのかわ)から山越えをして別子方面へ行く道を通って行き、帰りには子牛を親子が2頭ずつ連れて帰って来ていたことを憶えています。別子まで歩いて行くと、朝に土居を出発したとしても到着するのは夜になっていたので、別子で1泊してから帰ってくる行程でした。別子への道は、牛が通ることができるほどの道幅はありましたがとても険しく、山肌が切り立ったような所を歩くときには、博労さんから、『絶対に下を見るなよ。』とよく言われていました。崖は高い所で200mから300mはあったので、下を見ることで目が回り、足もとがふらつくと危険だったのです。
 土居市には別子の方も1日かけて歩いて来ていたようですが、博労さんと知り合いの方は、博労さんの家に泊まってから別子へ帰ることもあったそうです。」


図表1-1-2 昭和40年ころの町役場付近の町並み図

図表1-1-2 昭和40年ころの町役場付近の町並み図

Aさん(昭和9年生まれ)、Bさん(昭和15年生まれ)からの聞き取りにより作成。民家は表示していないものもある。