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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 クリの栽培

 (1) 城川町のクリ

ア 植栽

 「この辺りでは、昭和35年(1960年)ころに植栽された方が多くいます。それは新しい品種として筑波(つくば)が導入されたことが大きかったと私(Aさん)は思います。鬼北(きほく)の試験場では、鬼北分場創立10周年が昭和41年(1966年)だったので、恐らく昭和30年代の初めには分場を拠点としてクリの生産を奨励していたのではないかと思います。
 昭和41年9月22日に当時のクリ経営の状況を発表した際の資料が手元にあります。この資料では、昭和37年(1962年)に『窪野(くぼの)地区の3年生の木から56kgのクリを収穫することができた』とあります。また、昭和41年(1966年)当時で『6年生の木が最も古い』とも書かれてありました。この記録から考えると、植栽は昭和35年(1960年)からで間違いないのだろうと思います。窪野地区は『一番早くに植栽を行ってクリ栽培を始めた』と聞いたことがあるので、それも裏付けになると思います。」
 「私(Bさん)は埼玉県で仕事をしていて、昭和50年(1975年)に城川町に帰って来ました。その後、昭和53年(1978年)には城川のクリがピークとなり、そのとき農協が集めたクリが900t程度あったことを憶えています。これから考えると、この時期から10年ほど前の昭和43年(1968年)ころが植栽のピークになっていたのではないかと思います。クリの木は10年生くらいで実を付けるのがピークとなることからもそう言えると思います。」

イ 最盛期

 「昭和48年(1973年)ころには850tほどの収穫量があり、多かったことを私(Aさん)は憶えています。最初の植栽からちょうど10年経(た)っていることを考えると、これくらいの収量があったとしても不思議なことではありませんでした。このころのキロ当たりの単価が200円から215円くらいでした。農協が下相(おりあい)に選果場を建設したのもこのころのことで、それまでは農協の支所ごとに小規模な選果機が置かれていて、それで処理がされていたことを憶えています。」
 「昭和52年(1977年)には、このとき導入された選果機が稼働していたことを私(Bさん)は憶えています(写真2-3-1参照)。収穫量が多く、大量のクリを処理しなければならないときには、職員の就業時間内に作業が終わらないことがあり、その場合には『役員も出て行って処理せんか。』ということで、夕方5時以降に選果場へ行って作業をしたことがありました。50kgは入るドンゴロス(麻袋)にクリが詰められ、その袋を平ボディのトラックに人力で積まなければならなかったので、これは大変な作業だったことをよく憶えています。当時は、ドンゴロスを担いだトラックの運転手さんが、『本当にこんなにクリが入っているのか。イモと間違えてないか。』と、驚くくらいの量のクリがあったのです。
 昭和53年(1978年)にはクリの収量が多くなったので、『これでは機械がもたないかもしれない』ということで機械に改良を施したようです。具体的には、『1,000tは捌(さば)くことができなければならない』ということで機械の改良を行ったのだと思います。」

ウ 韓国産のクリ

 「一方、昭和53年(1978年)に発行された城川町栗生産同志会の冊子は、その表題が『救えくり園』となっていて、密植の影響により、クリの収量が上がらないようになっていることが記されています。さらにこのころには、韓国クリが国内に輸入されたことにより、町内で収穫されたクリの単価が下がってしまっていたことを私(Aさん)は憶えています。」
 「韓国クリは昭和40年代の後半くらいにはすでに日本へ輸入されていたと思います。昭和39年(1964年)にレモンが輸入自由化となったとき、クリも一緒に自由化されました。その後、昭和49年(1974年)にムギグリの輸入が始まったことで、国産クリの価格が低迷するようになったのです。このとき、韓国クリが一気に入ったことで、単価が落ちていったことを私(Bさん)は憶えています。皮肉なことではありますが、韓国クリの苗木は、そのほとんどが鬼北から韓国へ送られたものであると言われています。」

 (2) クリ栽培に取り組む

ア クリ栽培を始める

 「クリは城川のような里山に適した果樹です(写真2-3-2参照)。私(Bさん)の場合は、父親がクリ栽培を行っていたので、それを継ぎました。私が城川町に戻ってクリ栽培を始めたのは昭和50年代に入ってからのことですが、父は収穫量がかなり多かった昭和40年代にはすでに始めていました。昭和50年(1975年)のころだったか、子どもの小学校入学をきっかけに地元へ帰ることにしましたが、そのときにはクリの木も樹齢が経っている状態だったので、昭和40年代のピーク時の収量を期待することはできませんでした。ピーク時には8tの収量がありましたが、私がクリ栽培を始めたころには、7t、6tと徐々に収量が下がっていきました。さらに台風の影響を受けるなど、クリ栽培を行う環境が少しずつ悪くなっていったように思います。私が始めた当初は、1kg当たり400円の値が付き、25kg入りの袋が1万円で売れていたことを憶えています。」
 「私(Aさん)がクリの栽培を始めた理由は、『城川町という中山間地域で現金収入を得ることができる、地形に応じた作物は何か』ということを考えたとき、最も有利な作物がクリであったからです。クリの栽培をすでに行っていた近所の方から、技術などについて教えていただきながら取り組むことができたというのも大きな要因であったと思います。」

イ 栽培に適した土地

 (ア) 枯死を避けるために

 「クリ栽培に適した地形などの環境についてですが、私(Aさん)は『クリは凍害に弱いので、東向きは不向きである。』と言われていたことを憶えています。
 樹木には形成層があり、そこには水分があります。季節としては春ですが、3月には寒波が南下することがあります。寒波が南下して気温が氷点下になると、水分を多く含んだ形成層が凍ってしまいます。凍った水分が徐々に融(と)けてくれれば問題ないのですが、東に面した地形であれば、朝日が当たって一気に融けてしまうため枯死につながるのです。水は凍ると膨張してしまいます。それが朝日を浴びて一気に融けると、幹から表皮が分離して樹液の流れが悪くなり、芽が出るはずの時期にすでにやられているという状態になってしまうのです。クリの木がこのような状態になると、被害が大きい場合は芽が出ません。被害が軽微であれば芽が出ますが、その芽が青く大きくなり始めたころに枯れてしまいます。このような理由で、『東向きの地形はクリ栽培には向いていない。』と言われているのです。
 現在は田んぼから転作するなどしてクリを植栽することもあるため、東向きを避けることが少なくなってきたように思いますが、クリの木が成長するには、土が深く、西向きか北西向きが最適とされています。」

 (イ) 減反政策の影響

 「昭和50年代には、土地の合う、合わない(栽培に適する、適さない)ということは、問題にはなりませんでした。その理由は減反政策です。減反政策によって、山に近い田んぼにはどんどんクリが植えられたのです。
 減反政策が進められていたときには、クリなどの果樹に切り替えても、スギやヒノキに切り替えても補助金が出ていました。このような減反政策の影響を受けて、私(Bさん)が農業委員会の会長をしていたころには、登記簿だけを見ると、実際にはスギやヒノキが植えられている場所が田んぼとして登記されたまま残っていました。減反政策が進む中で地目転換の手続きが行われず、クリが植えられて果樹園となっている所や、スギやヒノキが植えられて林となっている所が、書類上は田んぼであるということになっていたのです。登記が田んぼのままであると、固定資産税は田んぼとして掛けられ、さらに、土地所有者が農業委員会に地目転換を申請しなければ、5反歩(約50a)以上の農地を持たない人は農地を購入することはできないことから、書類上、地目が田んぼのままで残っている山を購入することができないというデメリットがあるのです。
 クリとは直接関係しないことかもしれませんが、実は地域の山が少しおかしなことになっているのです。減反政策とともにクリの木が植えられましたが、それはクリが無農薬で育てることができ、剪(せん)定作業なども行う必要がないことが大きな理由であると思います。他の果樹では、何も手を掛けなければ良い収量は見込めませんが、その点クリは、何もしないでもある程度は収量が見込めるため、効率が良かったのです。それでクリを栽培する方が一気に増えますが、自由化の影響を受けて単価が下がり、収量も昭和53年(1978年)以降はのこぎりの歯のように上下し、徐々に下がってきたことからクリをやめてしまう人が増加し、栽培面積も減少するのです。」

ウ 低樹高栽培の導入

 (ア) 大切な日差し

 「何もしなくてもある程度は収量を見込むことができるクリですが、より多くの収量を得るためには剪定を行う必要がありました。その他、肥料をやったり、消毒をしたりと収量を確保するために必要なことがありましたが、日が当たらないということがクリにとっては最も避けなければならないことだったので、より多くの枝に日が差すように、不必要な枝を抜いてやる必要がありました。日が当たらなければクリの枝は枯死してしまうので、下の方の枝まで日の光を入れるようにするには、主幹を抜いて樹高を低くしてやることが必要で、これを行うと下の方の枝がいつまでも元気な状態を保つことができるのです(写真2-3-3参照)。
 そこで、大きな玉づくりと多収量を上げるための方策として、また、消毒作業の負担が軽減されることから、昭和50年代には低樹高栽培という栽培方法が行われるようになったことを私(Aさん)は憶えています。この栽培方法では、樹高を3.5m程度に抑えることが特徴でした。」

 (イ) 導入に向けて

 「当時、岐阜県に中山間農業研究所があり、そこに低樹高栽培を研究されている先生がいらっしゃいました。この先生の研究論文が『現代農業』という書籍に掲載され、これを読んだ当時の城川町栗生産同志会の会長さんが、『この先生の所へ低樹高栽培を習いに行こう。』と提案して、私(Bさん)たち生産者は岐阜県まで行きました。しかし、当時、低樹高栽培について、県の栗生産同志会の方たちは反対をしていたことを憶えています。それは、県の同志会では独自に指導をいただいている先生がいたので、他所(よそ)の先生が研究されている技術を導入することには消極的にならざるを得なかったということが理由でした。
 伝統的なクリの栽培は、クリの木を大きく育て、その木から何kgのクリを収穫するかという方式でした。木をより大きく育てるために間引いて1反(1反は約10a)当たり10本になるように栽培し、大きな木を育てて1本のクリの木から50kg収穫できれば反当り500kgの収穫を確保できる、という生産を行っていたのです。」

 (ウ) 難しかった普及

 「クリの樹形はその後、変形主幹型が一時的に導入されましたが、それよりも樹木をさらに下へ伐(き)り下げてくる岐阜県の低樹高栽培が行われるようになっていきました。最初に剪定を始めたころには、低樹高にするためにクリ農家の方のクリ園へ道具を持って出向いて行っても、木を伐らせてもらえませんでした。最初は、『まあ、やってみてくれや。』と言われるのですが、高く伸びたクリの木の1本か2本をバッサリと短く、高さ3.5m程度にすると、『分かった、もうやめてくれ。後は自分でやっておく。』と言われていました。実際、私(Bさん)が後から行ってみると、木はそのままの高さで残されていました。木がバッサリとなくなってしまうので、驚くのも無理はありません。このように言われた方は、クリの実は木の上の方にしかつかないと考えていたようです。それは、ただ、上の方は日当たりが良いからつくのであって、木の高さが低くなっても同じことであることや、効率良く作業を行うために木を低くするということを理解してもらえていなかったのだと思います。」

 (エ) 低樹高栽培の利点

 「以前、木は上へ上へと伸びていくように栽培していました。しかし、下の方には日が当たらず、枯れ枝になってしまっていたのです。さらに、5m、7mと樹高が高くなっていくと農薬が届かず、害虫や病気の防除ができなくなるという問題があったことから、樹高を低くする栽培方法が提唱されていったのだと私(Aさん)は思います。低樹高栽培では、その植樹本数が1反(約10a)当たり40本となっていて、1本の木から10kgのクリが収穫できれば良いとされています。それで反当たり400kgの収量を確保することが計算でき、年周りによって多少の違いはありますが、実際に400kgの収量を確保できている年もあるのです。
 さらに、低樹高栽培は伸びようとする樹木の成長を抑制し、クリを主幹ではなく枝に生(な)らしていくところに特徴があります。主幹からは3本程度の主枝が出ているので、主幹を伐り、さらに主枝の高い所は伐って除(の)けてしまったうえでクリを主枝で栽培します。この低樹高栽培を行うと、クリの木がある程度長持ちするという利点がありました。従来の栽培方法では15年程度しか収穫することができませんでしたが、40年近く経った木でも結構な量を収穫することができるようになっているのです。」

 (3) クリ栽培の苦労

ア 害虫

 (ア) モモノゴマダラノメイガ

 「クリの病気にはタンソ病やミグサレなどがありましたが、これらは剪定である程度は抑えることができました(写真2-3-4参照)。タンソ病に罹(かか)ったクリの実は外皮に黒い筋状の線が入ったり、実の天辺だけが黒く変色したりしてしまうので、外見で判断をすることができていました。見た目からきれいな果実ではなくなってしまうのです。それと、私(Bさん)たちクリ生産者にとって厄介だったのが虫の害です。モモノゴマダラノメイガは、本来であればモモの実につく害虫で、昔は、『モモがなくなるとクリの実についてしまう。』と言われていました(写真2-3-5参照)。今ではモモは関係なく、最初からクリの実についています。このモモノゴマダラノメイガは枯れ枝の中で越冬することが特徴なので、この虫の被害を受けないためにも、クリの木の手入れをしてやることがとても大切になってくるのです。」

 (イ) クリタマバチとチュウゴクオナガコバチ

 「ほかにもクリタマバチによる被害が私(Aさん)には印象に残っています。クリタマバチは、前年のうちに芽の部分に卵を産み付けていて、クリの芽や葉が出てくる時期になると、卵から孵(かえ)って山桜桃(ゆすら)のような丸い果実が生ったように枝につき、新芽にできた葉を枯らしていました。クリタマバチの被害が大きかったときには、新芽が出て少し大きくなってきたころに、クリの木が茶色っぽく見えるような状態でした。葉が枯れてしまうので、木が活動できなくなり、果実をつけても玉が太らず、木自体が枯れてしまうのです。このクリタマバチを駆除するための消毒は、無事に実が育っていくためにはとても大切な作業です。最近では、このクリタマバチを天敵で駆除する方法が徐々に広まっています。」
 「クリタマバチは成虫になって何日も経たないうちに卵を産んで死んでしまいます。ほんの数日ではありますが、卵を産み付けるまでの間に抑えなくてはならないため、消毒で狙い撃ちができず、私(Bさん)たちクリ生産農家にとって駆除がとても難しい害虫でした。
 クリタマバチにはチュウゴクオナガコバチという天敵がいます。これはハチの仲間ですが、クリタマバチが産んだ卵の中に卵を産み付け、クリタマバチの発生を抑制するのです。
 チュウゴクオナガコバチはクリタマバチより少し遅く発生して活動します。チュウゴクオナガコバチの活動により、クリタマバチの数が減ってくると、それに合わせるようにチュウゴクオナガコバチの数も減ってくるのです。その後、クリタマバチの数が増えてくると、チュウゴクオナガコバチの数も増えてくる、ということを繰り返すのです。
 実際、クリタマバチは農薬だけでは抑えることが難しいと思います。どの段階で卵から産まれてくるのか、そのタイミングを見極めることがとても難しいうえに、成虫の状態でないと農薬の効果がなく、駆除することができないのです。チュウゴクオナガコバチを導入してからは、クリタマバチによる被害は確実に減っているのです。」

 (ウ) センコウムシ(キクイムシ)

 「クリの収穫は、誰でも経験したことがあると思いますが、木から落ちているものを拾い集めます。クリの実は落ちる寸前まで成長を続けていると言われています。
 センコウムシ(キクイムシ)は枯れ葉の下などに生息している虫で、木などにも入り込むことがあります。クリが地面に落下すると、クリの果実に直径が1mmもないくらいの小さな穴を開けて入り込むことがあります。それくらい小さな穴から入るので、ちょっと見ただけではどこから果実に入り込んだのかが分からないくらいですが、センコウムシが入り込んでいる果実は、その糞(ふん)が出ているので見ればすぐに分かります。
 クリの果実の皮を剥いでみると、内側の渋皮の部分で止まっている虫がたくさんいます。渋皮で止まっているので、果実には全く影響がなく、実を100%取ることができますが、売るとなったら虫が入っているものは売ることができません。虫が入るとそれだけロスが生じてしまうのです。センコウムシはクリの果実が落ちてからの害虫なので、地面に落ちたままの期間が長ければ被害に遭う可能性が高くなり、すぐに収穫してやると被害に遭わずに済みます。私(Aさん)は、センコウムシの被害からクリを守るには、毎日クリ園へ行って丁寧に収穫することが大切であると考えています。」

イ 防除

 「『防除』とは、消毒のことで、6月下旬、7月中旬、8月中旬の夏場に3回は行います。消毒は本当にしんどくて、私(Aさん)にとって嫌な仕事でした。現在使われるような液剤の消毒液が普及するより以前の、粉剤が使われていたときは大変でした。夏の暑い時期に行わなければならないということと、真上に向かって撒(ま)くので、落ちてくる粉剤をそのまま自分が被(かぶ)ってしまうということがあり、辛(つら)い作業だったことをよく憶えています。
 昔の農薬は効果がありました。効果があるということは、人間の身体にも良くないということで、それが分かっていながらの作業だったので辛かったのです。当時は私も若かったので何とかやれたのでしょうが、今、当時と同じようにやれるかと考えると、できないと思います。
 消毒の作業をするには、重さが10kg程度はある噴霧器と、さらに10kgはある薬剤の、合わせて20kgほどを背負わなければなりません。さらに噴霧器から伸びる吹き出し口を右手に持って、薬剤を散布していました。消毒は標高の高い所から徐々に下りていくように行っていたので、一度は約20kgの荷物を担いだ状態で、クリ園の一番上まで登って行かなければならないということでした。1回の消毒作業で10kgほどの薬剤を使っていましたが、1日にそれを何回かは繰り返して行っていました。私が3町歩(約3ha)ほどの樹園地を持っていたときには、大体3日間かけて1回目の消毒を行っていたと思います。夏場なので、日中の気温が上がっているときには作業を中断していましたが、それでも大変だったことを憶えています。
 その当時は低樹高栽培ではなかったこともあって、樹高の高いクリの木に薬剤をかけていましたが、本当に上の方まで薬剤が届いていたかどうかは分からず、とりあえずやった、というような感じでした。粉剤は比重が軽かったので、吹き出すと上へは上がって行っていました。他のクリ園でも同じような薬剤を用いて消毒を行っていたと思いますが、消毒作業を行っている他所のクリ園を眺めると、クリ園が白く煙っているように見えたことを憶えています。」
 「クリの消毒はリンゴの8回に比べると、はるかに楽です。しかし、昔の消毒作業では、背中に動力散粉機を背負って行っていたので大変でした。クリの木の樹高が高いころは、消毒の粉をとにかく上へ向けて撒いてクリの木にかけていました。上の方まで消毒の粉がしっかりと届いているかどうかは、正直なところ分かりませんでした。
 液剤になってからは、共同で消毒作業を行うことが多くなりましたが、クリ園は山にあるため、液剤を薄めて使うのに必要な水を確保することが困難でした。取水地から、一度高い所に設置してあるタンクへ水を汲(く)み上げる作業が必要でした。私(Bさん)は3人か4人で園地を回って消毒作業を行っていましたが、取水地からでは園地までホースが届かないので、まずは高い所のタンクまで水を持って行くということが必要だったのです。
 消毒では、エンドリンという薬剤を散布したことを憶えていますが、これはよく効いて、虫がたくさん死んでいました。しかし、一方でほんの数滴でも川や池に落としてしまうと、そこに生息している魚が死んでしまうくらい強烈だったので、効き過ぎる薬剤だったのだろうと思います。これだけよく効く薬剤を散布していますが、散布している当の本人は、薬剤から身を守るという意識が低かったと思います。消毒が夏の作業だったため、マスクをするのも煩わしいくらい暑く、暑さ対策を優先していたためでした。3人で共同作業を行うときは、動噴を担ぐ人、薬剤噴出のホースの口を持つ人、ホースの口と動噴との間のホースを持つ人、というようにそれぞれ役割分担をしていました。3人で作業を行いながら園地の中を移動しますが、動噴は水が入っているタンクとホースでつながっているため、動いた道順をそのまま引き返さなければならず、移動の面では効率が悪く感じられました。」

ウ 台風

 「昔はクリの木が大きかったため、台風による被害が大きくなっていました。風で木が揺さぶられてしまうため、枝折れをしたり、枝がねじれてしまったりしていました。枝がねじれてしまうと、枝自体がひび割れてしまうため、まず実をつけることはありませんでした。特に銀寄(ぎんよせ)という品種は酷(ひど)い状態で、木ははすい(弱い)ので折れてしまううえに、イガがまだ真っ青なときに下に落ちてしまっていたことを私(Bさん)は憶えています。
 低樹高ではない時代には、台風が来るとなるとどうしようもなく、もし、台風が来たときには、『もう少し成長したら良いのに』と思える、まだ青いまま落下したイガを集めて持って帰り、成長途上のクリに筵(むしろ)を掛けて蒸らしてから出荷していました。」
 「しかし、低樹高栽培になると、樹高が低いので風が当たることが少なく、その影響を最小限に抑えることができるようになりました。つまり、低樹高にすることで、クリの木が風に強くなったのです。私(Aさん)は、最近では台風の影響でクリが落下することが減ってきたと思います。低樹高での栽培に加えて、地形のことも関係していると思います。また、戦後に植林されたスギやヒノキが防風の役割を果たしてくれているのです。」

エ 山から下ろす

 (ア) 動力一輪車

 「近年になって園内道が整備されるまでは、収穫したクリの搬出には動力一輪車が使われることが多かったと思います。その後、動力三輪車が使われるようになりました。動力一輪車は、『使う』というよりも、『使われる』という表現の方が良いくらいでした。動力が付いているため、登道をどんどん登って行って、私(Bさん)はそれについて行かなければなりませんが、ついて行くというよりは、引っ張られて行くという感じだったのです。一輪車なので、ついて行くのがしんどくなっても手を離すわけにはいかず、大変だったことをよく憶えています。手元にアクセルがあるのですが、ゆっくりでは坂道を登ることができないので、ある程度アクセルを回してスピードを出さなければならず、使うのがきつい(大変な)運搬用具でした。」
 「動力一輪車は、動力がない一般的な一輪車より少し大きく、コンテナを2個並べて運ぶことができていたと思います。下ろすときにも一輪車に積む荷物のバランスを考えないといけないので、この点でも大変だったことを私(Aさん)は憶えています。
 標高600m付近でクリをたくさん作られていた方は、林道がまだ整備されていないころには、材木などを運搬するために使うネコ車に長い梯子(はしご)を取り付け、荷台を長くして、クリの運搬車として使っていました。その運搬車に袋に入れたクリを並べて積んで、下の道路まで下りていたことを憶えています。当時は道幅が狭かったので、クリの運搬は本当に大変な作業だったのです。このネコ車には動力が付いていなかったので、山の上まで上がるときには、担いで上がっていました。」

 (イ) 選別と出荷

 「搬出した後は、各家庭に持ち帰って庭先選別を行っていました。選別では、ムシグリ(虫が食ったクリ)や病気に罹ったクリを取り除いて農協へ出荷する準備を行っていました。収穫が多い方は夕方3時には収穫をやめて家へ持ち帰って選別をし、翌朝の集荷に間に合わせていたようです。私(Aさん)の家でも収穫が多いときには、家族総出で夜10時ころまで選果作業を行うというような日があったと思います。
 選果が終わったクリは、25kg入る袋に詰めて道路へ出しておくと、農協が手配した運送会社がその袋を集めて回っていました。昭和50年代にはまだ軽トラックなど、運搬用の車を持っている農家が少なかったと思います。それで農協が集めて回る形で出荷していたのです(写真2-3-6参照)。」

オ 施肥と草刈り

 (ア) 木が動く

 「クリは冬場の12月に落葉するので、その後、3月くらいまでの間は木の剪定を行います。剪定は遅くても3月には終わらせなければなりませんでした。それは、春先になると『木が動き』始めるからです。『木が動く』とは、木の内部で樹液が動き始めることを意味します。その間、2月の初旬に最初の肥料を与えます。施肥は、6月の下旬から7月の初旬にかけての1回と、10月ころのお礼肥えとを合わせて年間3回行っていました。
 6月に肥料をやる前、春の内に下草を刈っておくことも大切な作業の一つでした。この作業は、2回から3回は行わなくてはなりませんでした。私(Bさん)が草刈りへ行って、『今年は楽になったなあ』というような状態になると、その年はクリがあまり落ちて来ませんでした。草があまり生えていないということは、クリの木の下の方まで日の光が届いておらず、下の方の枝が枯死してしまうということだったのです。」

 (イ) 山が抜ける

 「私(Bさん)の父がクリを栽培していた当時は、動力が付いている道具は使っていないと思います。山からの搬出にはショイコが、草刈りには長い柄の伐採鎌が使われていたことを憶えています。その鎌で1町歩、2町歩といった広さのクリ園の下刈りを行っていて、それは大変な作業だったと思います。鎌の刃は、朝、草刈りに出掛けるときにはきれいに研がれて良く切れる状態だったのでしょうが、草刈りを行って帰ってくると、その刃はボロボロになっているほどでした。
 草刈り機を購入して初めて使ったときには、作業能率が良く、『これはええわい』と思いました。山の園地は勾配があるので、除草剤を使い過ぎると『山が抜けてしまう』恐れがあります。山の土は草の根で抑えられています。除草剤を使用すると根まで枯らしてしまうので、根が土を維持することができず、大雨が降ると土が流れ出してしまうのです。これを『山が抜ける』と言うのです。」

 (4) これからのクリ栽培

ア クリ栽培に思うこと

 「私(Aさん)は長いことクリを作ってきましたが、その栽培方法は時代とともに変わってきました。現在は、大きくてきれいな実を採ることができますが、それだけ昔の栽培よりも労力をかけていて、年間で180日から200日程度はクリ園で仕事をしなければなりません。
 品種的にも大粒の品種が普及してきました。クリの場合は、粒は大きい方が良い単価になる傾向にあります。大粒のクリは品種改良でできたということもありますが、剪定の方法によっては、結果調整により、同じ品種でも粒を大きく作ることも可能です。結果を自然に任せてしまえば、結果数の隔年現象が起こってしまうので、結果調整はこの点でも大切な作業になるのです。」

イ 東宇和の特選クリ

 「東宇和には特選クリがあります。この最初の目的は、クリを上手に作っている方を見本にするために、その方が作ったクリの単価を少し上げて、上手にやればこれくらいの単価で売れますよ、ということをクリ農家の方に示すことでした。この取組が現在の特選クリに続いているのです。平成8年(1996年)には城川町の規約が整えられ、合併して西予(せいよ)市となった現在でもその規約は残っていると思います。
 特選クリには基準があります。ただ、市場では特選クリという名前で出してもそれなりの扱いはしてもらえません。2年間ほど特選クリという名称が入った箱に入れて出荷していましたが、普通のクリと何ら変わりがなかったことを私(Bさん)は憶えています。」
 「そこで、特選クリを増やしていこうじゃないかということで、生産農家への支払い単価に一般のクリと差をつけるようになりました。それが現在も続いていて、クリ農家の方に剪定なり管理なりをきちんとしてくれればこれぐらいの単価になる、ということを知ってもらい、特選クリの生産農家が一時期80人くらいになっていたのではないかと思います。現在はクリ農家の高齢化が進んだこともあって、生産農家が400人くらいいる中で、47人が特選クリを生産する農家として認定されています。私(Aさん)は今でも、きれいな果実ができたときには、『きれいな果実ができたなあ。』と、うれしく思いますが、それはそれまでの苦労の積み重ねがあってのことなのです。」