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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 様々な災害に立ち向かう

 (1) 豪雪による被害

ア 急病人を駕籠で運ぶ

 「昭和34年(1959年)の1月には何度も雪が降りました。土居(どい)公民館から少し上がった所に診療所(現西予市国民健康保険土居診療所)がありますが、その近くに住んでいた方が虫垂炎になり、主治医のお医者さんに診察してもらったところ、腹膜炎を起こしそうなので至急手術する必要があると診断され、設備の整った野村(現西予市野村町)の病院へ入院することになりました。ところが、その日は大変な大雪でバスは動いていなかったので、土居地区の消防団が出動して移送することになりました。その当時、土居には聚楽館(しゅうらくかん)という劇場があり、そこでは映画が上映されたり、ときにはサーカスや芝居などが行われたりすることもありました。聚楽館には昔のお医者さんが往診の際に使用していた駕籠(かご)が残されていて、病人の方をそれに乗せて、消防団員が交替しながら担いで雪の中を運んで行ったのですが、膝くらいの高さまで雪が積もっていたため、なかなか前へ進むことができなかったという話を私(Cさん)は聞いたことがあります。そのとき消防団に贈られた感謝状が消防団の詰所に今も残されています(写真2-2-1参照)。」
 「駕籠を担いでいない人は、前方の雪を足で踏み固めなければ、前へ進むことができなかったと私(Bさん)は聞いています。当時は祓川(はらいがわ)トンネルが開通していなかったので、古市(ふるいち)を経由して魚成(うおなし)橋へ向かいました(図表2-2-1、写真2-2-2参照)。交替で駕籠を担いでいた消防団員の方たちは、途中でお腹がすいてきて、パン屋さんをのぞいたりしていたそうです。診療所から魚成橋まで2里(約8㎞)くらいあると思いますが、1月17日の夜10時ころに病人を乗せた駕籠が土居を出て、魚成橋に着いたときには翌日の午前3時か4時ころになっていました。どうしても体力がもたなかったため、そこから先は土居の建設業者が、所有していたブルドーザーに病人を乗せて野村の病院まで運んだそうです。当時のブルドーザーはまだ積載車のない排土板が付いただけのもので、俗に押しブルと呼ばれていました。」

イ 孤立した家の救助

 「私(Aさん)が住んでいる窪野地区の長崎(ながさき)集落は、比較的標高の高い所にあるため、冬場は雪のために随分苦労してきました(図表2-2-1参照)。長崎集落にはキビュウという小字の地区があり、標高が700mくらいあるのですが、あるとき、その地区のある家が大雪で孤立してしまったことがありました。その家には子どもさんもいたのですが、御主人は体が丈夫ではなく、水や食糧が尽きてしまったため急いで救助する必要がありました。そこで、私は集落の仲間たちと一緒にその家まで救助に向かいました。そのときは股の上の高さくらいまで雪が積もっていたため、仲間の1人が体全体で雪をかき分けながら進みました。朝早く出発してお昼になってようやく目的地に到着しました。その家の周辺では風で散った雪や鼻息が凍っていて、『本当に寒いときにはこんな風になるのか』と大変驚いたことを憶えています。」

ウ 昭和38年の豪雪

 (ア) 雪道を歩いて帰省する

 「昭和38年(1963年)の豪雪のとき、私(Dさん)は城川町役場の建設課に勤務していました。今はそれほどでもありませんが、昭和30年代には、冬になるとよく雪が降り積もっていました。昭和37年(1962年)の12月28日は役場の御用納めの日でしたが、それから雪が連日降り続き、その日に役場の当直に当たっていた職員は、積雪のために帰宅することができず、1週間も役場に寝泊まりする羽目になったことを憶えています。また、城川町出身で東京や大阪などの他府県に就職した方が、お正月を実家で迎えようと国鉄(現JR)の卯之町(うのまち)駅まで着いたのですが、大雪のために国鉄バスは不通になっており、当時は自家用車のある家も少なかったので、城川町へ帰るための交通手段がありませんでした。そこで、仕方なく卯之町駅から城川町まで歩いて帰って来ていて、そんな我が子を心配して宇和(うわ)町(現西予市宇和町)まで迎えに行った親御さんもいました。」
 「昭和38年(1963年)の豪雪のとき、私(Cさん)は城川町役場の土居支所に勤めていました。昭和37年(1962年)の御用納めが終わってから翌年の2月中ごろまで、毎日といってもよいくらい雪が降り続き、1月に晴天だった日は3日くらいしかなかったように思います(写真2-2-3参照)。当時はこの辺りからも自衛隊に入隊した方が結構いましたが、その方たちの中には、年末に帰省したとき、バスが大雪のために運行していなかったため、卯之町(現西予市宇和町)から城川町の自宅まで歩いて帰って来た方もいました。年が明けて正月休みが終わってもまだバスが運行していなかったため、隊への報告の際に必要となる交通途絶証明書の交付申請のために役場へ来た方がいたことを憶えています。」
 「昭和38年(1963年)の豪雪のときには、雪が高さ1mくらいは積もっていたので、青年団の人たちがスコップを持って町の中へ出て、人が通行することができるように道路の除雪作業をしていたことを私(Bさん)は憶えています。城川町の出身で県庁に勤めていた方の中には、鹿野川(かのがわ)(現大洲(おおず)市肱川町)の方から歩いて城川町まで帰って来たという方もいました。国鉄バスも1か月くらいは通行することができませんでした。」

 (イ) 雪の中の選挙

 「昭和38年(1963年)の1月には大雪の中で県知事選挙が行われました。告示日は1月1日で、投票日は26日となっていて、土居地区では、学校(城川町立土居小学校)が第3投票所になっていました。投票日も大雪であったため、私(Cさん)も含め土居支所の職員が朝早くから出勤し、投票開始時刻に間に合うように投票所周辺の除雪作業などに従事していたことを憶えています。」
 「昭和38年(1963年)1月26日は県知事選挙の投票日となっていて、城川町では学校や各地区の公民館、集会所など、数多くの投票所を開設していました。投票日当日もかなりの積雪がありましたが、1人でも多くの方が投票所に来ることができるように、除雪等の対策をとっていたことを私(Dさん)は憶えています。」

 (ウ) 上高地で起きた事故

 「窪野地区には上高地(かみこうち)という戦後になってから開拓された集落がありました(図表2-2-1参照)。開拓が計画された当初は、地主さんもなかなか土地を手放さなかったそうですが、最終的には国策に従うということで買収に応じたようです。戦後、上高地に入植した農家は10戸だったそうですが、その多くは窪野地区の、元々田畑を持っていなかった方だと思います。昭和38年(1963年)の豪雪のとき、上高地では2mくらい雪が積もっていたと私(Cさん)は記憶しています。台風でも大きな被害を受けた、旧日吉村の節安(せつやす)地区は、『日吉村誌』によると38年の豪雪のときにはマイナス10.1℃を記録したということです。そのときの上高地の気温は分かりませんが、上高地は旧日吉村と尾根伝いにつながっているので、上高地にも大変な寒波が来たのではないかと思います。38年の豪雪のときには、上高地で農家の方が犠牲になるという痛ましい事故がありました。苗の温床を作るために鶏小屋に資材を取りに入った方が、雪の重みで小屋の屋根が崩れ落ちてその下敷きになってしまったもので、そのときには消防団が出動したことを憶えています。私は町役場の産業課にいたとき、上高地へ2、3回行ったことがあり、開拓団の総会にも出席したことがありました。上高地には広い土地があり、田んぼもつくられていて、生活に必要な水も十分にありました。また、山裾には孟宗竹を切って作った竹筒が並べられていました。確認したわけではありませんが、おそらく竹筒にクリを埋めて、ネズミが食べに来るのを防ごうとしていたのではないかと思っていました。土居では、中山(なかやま)(現伊予(いよ)市中山町)から移り住んだ方が早くからクリを植えていました。私も、昭和34年(1959年)ころ、窪野地区の窪川でクリの穂木(挿し木・接ぎ木に使う枝)をもらって接ぎ木をしたことがありました。」

 (エ) 医薬品や食料

 「上高地や窪川、川津といった標高の高い場所にある集落には、町から医薬品が何回か配布されていました。そのとき、川後岩(かごいわ)では雪の重みで納屋が倒壊したという記事を私(Cさん)は広報で読んだことがあり、そのとき亡くなった方は、まだ若かったと思います。親御さんの気持ちを考えると、本当に気の毒な出来事だったと思います。」
 「当時、私(Aさん)の家ではソバやハッタイ粉(トウキビを炒(い)って焦がし、挽(ひ)いて粉にしたもの)を作っていたので食糧はありましたが、お正月用のお酒を買おうと思っても、周りには営業している酒屋さんがありませんでした。そのため、清酒を手に入れることができなかったので、仕方なく合成酒を1升くらい買って3日間くらいはそれを飲んでいたことを憶えています。その年は、以前の生活にはなかなか戻ることはありませんでした。」

エ 困難だった除雪作業

 「大茅峠まで県道2号(主要地方道城川梼原(ゆすはら)線)が開通した時分は、雪の深さが今とは違っていました。私(Aさん)が子どものころ、雪が降ると子どもの力では除雪ができないので、親が雪をかき分けて人が歩くことができるようにしてくれていました。」
 「私(Cさん)は若い時分、青年団の活動費を稼ぐために県道2号の大茅峠の建設工事に行っていたことがありました。その当時は工事用のブルドーザーがなかったので、もっこ(藁筵(わらむしろ)や、藁縄を網に編んだものの四隅に綱を付けて土や石などを盛り、棒で担って運ぶ道具)で土や石などを担いでいたくらいなので、今のように、雪が降った翌日に町が除雪作業を行ったりするようなことはありませんでした。」
 「昭和38年(1963年)ころ、雪が多く降ると私(Dさん)は町道の除雪作業に出ていました。城川町では除雪専用の重機を1台しか所有しておらず、町内の全地区を回っていると時間がかかりました。そのため、当時、約10社の地元の建設業者が所有していた重機をチャーターして除雪作業に当たっていました。町道は幅員が狭い道路ばかりで、雪が降るとすぐに吹き溜(だ)まりができていました。ときには2mから2m50cmも積雪があり、車が通行できなくなることもあったため、建設業者に除雪を依頼するときには町の職員が一緒に行って道案内をしていました。そのころ、町内の主な道路はほぼ舗装されていましたが、どの地区にも狭い生活道が数多くあり、それらの道の除雪を行うのには大変な苦労がありました。そこで、生活道の除雪については、地域の方々の皆さんが協力して行っていたことを憶えています。」

オ 大雪の日の出勤

 「私(Dさん)は普段、車で通勤していましたが、いつもは8時少し前に家を出ると間に合っていました。自宅から元の庁舎のあった杉之瀬(すぎのせ)までの距離は4㎞から5㎞くらいでした。そのころは車も少なく、若い職員の中には単車で通勤していた人も多くいました。その当時、田穂(たお)地区でもよく雪が降り、1mくらい積雪した年もありました。雪の日には、遠い人では野井川から庁舎まで来るのにかなり時間がかかりますし。歩いて来て、昼までに庁舎に着いて、昼食を済ませた後、帰宅していました。雪が降ったときは、杉之瀬まで少なくとも3時間はかかっていたと思います。雪をかき分けながら歩いたり、車が通った後の道を歩いたりして通勤したこともありました。県道などの幹線道路については優先的に除雪が行われていました。」

カ 雪のために遅れた林道工事

 「私(Bさん)が勤めていた森林組合では、昭和37、38年(1962、63年)ころ、嘉喜尾(かぎお)地区の吉野沢(よしのさわ)の林道の建設工事を進めていて、地元の建設業者が吉野沢から岩本(いわもと)までの林道の工事を請け負っていました。ところが、今のようにブルドーザーもなく、手掘りで作業を行っていた時代だったので、積雪で仕事がはかどらずに工事が延び延びになっていました。現地の状況を確認するために、私は建設業者の専務と一緒に、国鉄バスで吉野沢まで通うことができる間は、冬の餅をナップサックに入れてかるうて(担って)バス停から建設現場まで歩いて行っていました。当時、吉野沢の上の方ではまだ炭焼きが行われていたので、炭窯で火を起こしお餅を焼いて食べた後、そこからさらに奥に進んで行きました。建設現場に着くと、専務がスケールで積雪の高さを計測して毎日写真を撮らなければなりませんでした。その後、建設業者の専務と森林組合の組合長が県庁へ出向いて、県の林道係に工事の完成が当初の予定よりも遅れることを報告したところ、厳しい注意を受けたそうです。それからは、四国電力に依頼して建設現場まで電気を通してもらって、昼夜を分かたず突貫工事を行ったことを憶えています。」

 (2) 台風や火災による被害

ア 昭和38年の台風9号に伴う被害

 「昭和38年(1963年)には台風9号に伴う豪雨により、高知との県境の手前にある大茅峠付近で大きな山崩れがあり、城川梼原線が一時寸断されました。当時はなかなか復旧作業が進まず、その年はずっと不通だったと思います。また、このときの豪雨で、柳沢にあった木橋がくの字型に折れ曲がっていたことを私(Bさん)は憶えています。その当時は林業の景気が良かったため、山林で材木をたくさん伐採していて、洪水のときにはそれが流されて来るということがよくありました。今は林業の景気が悪く、あまり材木を伐採していないためか、今年7月の豪雨のときには、材木が流されて来ることはありませんでした。」
 「昭和38年(1963年)の夏には、城川町では台風9号に伴う豪雨によって大きな被害が出ました。台風9号が来たのは8月9日のことで、被害が大きかったのは、野井川、川津、窪野などの地区でした(図表2-2-1参照)。特に野井川辺りではかなり大きな被害が出て、遊子川(ゆすかわ)小学校(城川町立遊子川小学校)に渡るための通学橋が流されていました(写真2-2-4参照)。このときの豪雨は、当時は『九十年来の大洪水』と言われていたことを私(Cさん)は憶えています。その時分は台風が来るたびに大きな被害が出て、この辺りでも河川が増水して橋が水に浸かるといったことがよくありました。」
「台風9号がやって来たときには、田穂の大池の水位が上昇し、池が決壊する恐れもありましたが、幸いそこまでには至りませんでした(図表2-2-1、写真2-2-5参照)。
 今年(平成30年〔2018年〕)7月の西日本豪雨のときにも大池の水位が上昇し、付近に住む家の方は避難をされました。決壊することはありませんでしたが、この辺りの河川は川幅も狭いため、越流しながら田畑を流していったということがありました。また、昭和40年代に入っていたかもしれませんが、高川地区では、台風襲来後の夜間に山崩れが起きて家屋が倒壊してしまうという痛ましい出来事もあったことを私(Dさん)は憶えています。」

イ 復旧に携わる

 「昭和38年(1963年)の台風9号のときには、強風で電柱が倒れたり、路側が決壊したり、田畑が随分崩れたりしていたので、城川町では、国に補助をお願いしながら災害復旧に当たっていました。国による災害復旧の補助に該当しなかった小災害については、町で対応しなければなりませんでした。小災害というのは復旧事業費が100万円未満の災害を指しますが、そうした規模の災害が非常に多かったことを私(Dさん)は憶えています。また、災害復旧の計画を行うためには被害状況を証明する写真を添付する必要がありましたが、そのころの城川町には写真店もなかったので、町の職員が写真の撮影から現像まで行っていました。当時、杉之瀬にあった役場の庁舎は古い木造建築でしたが、夜になると庁舎内の町長室を一時的に暗室として利用し、そこで写真の現像や焼付等の作業を行っていました。そうして出来上がった写真を国や県に補助を申請するための書類に添付していました(写真2-2-6参照)。また、豪雪を含む小災害に対して建設課だけで対応することができなかったときには、ほかの課員も動員して町内の各地を歩きながら被害状況を調査したこともありました。」

ウ 火災について

 「昭和38年(1963年)3月8日には遊子谷の南平(みなみひら)で、7世帯22棟が全焼するという大火事がありました。そのときには、消防団の人がホースを何本もつないで20mくらいまで延ばしていましたが、ポンプで水を押し上げたときに水圧がかかり過ぎたためホースが裂けてしまいました。同じ年の4月1日には、川津南の程野(ほどの)で4戸が全焼する火災が発生しました。当時、川津の消防団長さんは、自宅が焼けることも顧みず消防団での活動を優先し、自ら率先して一生懸命消火活動を行っていたということで美談になりました。その火事が起こっていたとき、ある人が中野川(なかのかわ)で、伐採した材木をトラックに積む作業を行っていて、私(Bさん)は同じ場所で立木の材積を計算するために、伐採した木の直径を測ったりしていました。作業中に、私と一緒にいた人の家が火事で焼けている、という知らせが入りましたが、その人は、『火事になっても仕方あるかい。』と言って、作業を終えるまで自宅に帰ろうとはしませんでした。その人の家は瓦屋根だったためか、幸いにも焼けることはありませんでした。また、当時の消防団には、まだポンプを積載した消防自動車はなかったので、鉄の車輪の付いた台車に手押し式のポンプを乗せて、ガラガラと音をさせながら人力で運んでいたことを憶えています。」
 「昭和38年(1963年)の4月27日には古市の中津川でも山火事があり、私(Cさん)も消防団員として消火活動に当たりました。火事があった山は石灰岩で、石灰岩に巻き付いた蔓(かずら)が焼けながらボロボロと下へ転がり落ちてきて、とても恐ろしかったことを憶えています。昔は山師(山林の伐採を請け負う人)が各地にいて山仕事をしていて、当時、古市には、のこぎりの歯の目立てが大変上手な山師がいました。そのころはチェーンソーなどはなく、のこぎりが一番の道具でした。お昼時分になると、山師は御飯を食べるために火を起こしてお茶を沸かしたりしたのですが、そのときの火の不始末が原因で山火事が起こるということがありました。」


写真2-2-1 土居地区消防団に贈られた感謝状

写真2-2-1 土居地区消防団に贈られた感謝状

平成30年12月撮影

図表2-2-1 城川町

図表2-2-1 城川町

平成5年国土地理院発行の5万分の1地形図「卯之町」及び同6年発行5万分の1地形図「梼原」による

写真2-2-5 田穂の大池

写真2-2-5 田穂の大池

平成30年12月撮影