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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 東宇和蚕糸農協野村工場の記憶

 (1) 野村工場の記憶

ア 野村工場で働く

 「私(Bさん)は、昭和23年(1948年)に宇和女学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業しました。当時は、戦地や満州(まんしゅう)(現中国東北部)などから引き揚げてきた人が多く、就職先がなかなかありませんでした。学校の同級生が120人ほどいましたが、半数は教員となり、どの学校へ行っても同級生がいる状況でした。私は、女性従業員の募集が多かった蚕糸工場に申し込み、働くことにしました。
 当時の工場長さんは、『女工は見下げた言い方で嫌いだ。』と言い、私たちを『業生(ぎょうせい)』と呼んでいました。業生は、昼間は工場で働いて、夜は仕事を終えると高校定時制の授業を受けたり、華道や洋裁、和裁を学んだりして過ごしていました。3年間、業生として働いた後、郡是(グンゼ)へ講習に行き、業生の指導員という立場になりました(写真1-2-8参照)。私が蚕糸工場に入ったときに30歳、40歳になっている人もいれば、中学校を卒業してすぐに入ってきた人もいました。同級生なら横一列ですが、その年齢差がずっとある中で指導することは、とても大変でした。」

イ 指導員として

 (ア) 指導員の仕事

 「多条機では、1間(約2m)ほどに1人ずつ立って、4粒か5粒の繭から繰り出した糸を1本にして、デニールという単位で、巻きつけていきます。数字が大きくなるほど、糸が太くなります。これが20あり、1人で約100粒の繭を見なければいけません。全ての繭から同じ量の糸が繰り出せるわけではないので、早く糸がなくなる繭もあります。そうすると、すぐに代わりの繭を用意して合わせなければ、3粒で回ることになって細い糸になってしまうので、すぐに合わせなければなりませんでした。糸がなくなってから5秒以内に見つけて補充しなければ、格が落ちてしまいます。こっちで糸がなくなったと、結んでつなげている間に、あっちで糸がなくなってと、本当に大変でした。
 私(Bさん)が指導員になってからは、そのように100粒の繭を見ている業生を観察するために、多条機の間を何度も見て回っていました。『昨晩少し遊んでいて今日は眠い。』とか、『デートのことを考えている。』など、集中していない人もいて、糸がなくなってしまうこともありました。私は回りながら、ある業生の担当場所で、『そこの繭、なくなっていますよ。』と言って、合わせる作業を手伝っていても、別の業生から『Bねえさん、ちょっと。』と呼ばれると行かなくてはならず、気が休まりませんでした。
 仕事が終わっても、『今日は格が落ちなくて良かった。』と落ち着く間もなく、『明日は、どうなるだろう。』と心配をしていました。毎日、胃が痛くて、熊の胆(い)やセンブリを飲んで、骨と皮みたいになりながらも、一生懸命に働いていました。あるとき、胃カメラを飲んだら、医者に『胃潰瘍(いかいよう)になったことがありますね。』と言われて、私が『いや、ありません。』と答えたら、『胃潰瘍の傷が治って、引きつっている所がありますよ。』と言われたことがあるくらいです。」

 (イ) 桝田製糸へ

 「大洲の桝田製糸が野村の工場と同じ機械を導入したとき、『従業員が機械に慣れるまでいてほしい。』と頼まれ、私(Bさん)は桝田製糸の業生の指導に行きました。指導に行って2、3日経(た)ったころでしょうか、1週間は経っていなかったと思いますが、桝田製糸の社長さん(2代目社長の桝田長次郎氏)が、生糸の取引での出張先で亡くなってしまいました(昭和30年〔1955年〕の年末)。このようなときに赤字を出してはいけないと、私は必死に指導をしました。当時の桝田製糸では、郡是を定年になった人を工場長として招いていました。その工場長さんと、『少しでもレベルの高い生糸を作ろう。』と、頑張って仕事をしたことを憶えています。」

 (ウ) 最高級生糸「カメリア」

 「野村の蚕糸工場で作られた生糸は、『カメリア(白椿)』の商標で、別格とされていました。蚕は4回脱皮をして大きくなります。その当時は、3眠の蚕で生糸を作りました。人に例えると、成人で一人前の糸になるところを、中学生くらいで糸にしたので糸が細いのです。その細い糸を4本か5本合わせて1本の糸を作るので、細くて艶があり、丈夫でキレや風味ある生糸になったのです。このような最高級の生糸を作るために、その方法で何年か製造されていました。
 その時点では聞かされていなかったのですが、その最高級の生糸をイギリスのエリザベス女王の戴冠式に使いたいと、バイヤーの人が工場に見学に来ました。今の天皇陛下が皇太子のときに、エリザベス女王の戴冠式に列席されて、工場のみんなで、『私(Bさん)たちが作った生糸から作られたものを着てもらえたのかしら。』と話して、『頑張って働いて良かった。』と思いました。10年ほど前に野村町のウォークラリー大会に参加して、当時の西予市長さんと話をしたとき、市長さんが、『ここのシルクが、エリザベス女王の戴冠式で使われたのですよ。』と言われたので、『私は、その時に工場で生糸を作っていました。』と答えると、『そうですか。』と驚かれていました。」

 (エ) 業生に寄り添う

 「私(Bさん)は勤務をしていたとき、通勤から寮生活に変わりましたが、『部屋長をしてくれ。』とか、『寮長もしてくれ。』と言われ、自分の時間がなく、習いものなどができませんでした。職員室の打合せ会が週に1、2回あり、昼にたくさん仕事をした後、午後9時から10時くらいまで開かれていました。その後も、台帳管理などの事務も処理しなければなりませんでした。
 1日中、目を使っての仕事で目が疲れているだろうということで、係の人が作ったホウ酸水で、私が従業員のまぶたを開いて、洗眼をしていました。洗眼などしたことがなかったので、初めのころは不安を感じていたことを憶えています。洗眼が終わった人たちは御飯を食べて、風呂に入って、着替えて遊びに行っていました。従業員全員の洗眼が終わっても、私たちは御飯を食べる余裕もなく、その後も帳面を付けなければなりませんでした。忙しい思いをしていましたが、それでもずっと業生に寄り添っていました。
 中学校を卒業してすぐに入ってきた子の中に、シラミを持っている子がいました。他の従業員がいる前でそのことを言うわけにはいかないので、『家から電話が掛かっている。』と事務所に呼ぶふりをして寮の部屋に連れ出し、新聞紙を広げて櫛(くし)でシラミを取りました。あまり時間がかかると、その子の両隣で仕事をしている子が気にするので、なるべく早く帰すようにしていました。取ったシラミはブリキのバケツに入れて、マッチで火を着けて焼き殺しました。私も知らない顔をして仕事に戻り、誰にも一切このことを話しませんでした。部屋長さんが、『朝きれいに掃除をして、バケツも磨いていたのに、晩になるとバケツの底が黒くなっている。こんなバケツは置いていなかった。』と言って、不思議がっていましたが、私は、とぼけて知らないふりをしていたことを憶えています。
 寮に入ったばかりの業生は、『トイレが広くて暗くて怖い。』と言っていたので、トイレの入り口で待ってあげていました。そういう子が1人だけではなく、かなりいたように思います。年ごろの子が多いので、洗濯物の下着が盗まれることもあり、私が見張り番をしたこともありました。通勤の人もいましたが、寮には一番多いときで150人以上の寮生がいました。
 寮の門限は午後9時でしたが、9時になっても帰って来ない子がいました。高校を定年になった先生が寮母をしていたとき、私が『先生、帰っていいですよ。私が残っていますから。』と言って、寮生全員が帰って来て、札を返すまで残っていました。午後11時、ときには午前1時ころまで残っていたことがあります。『何をしているの。』と言いたかったのですが、そこで怒ってはいけないと、『遅かったね。』と私が言うと、『すみません。』とその子が言うので、『早く帰って寝ないと、朝、眠いよ。早く帰りなさい。おやすみ。』と、優しく言っていました。
 従業員の中には、岩手から来た子もいました。その子に、こちらが標準語だと思っている言葉で何度も説明しても、方言の違いからなかなか理解してもらえませんでした。これは、参りました。
 いろいろな人と接して、あらゆる仕事をして苦労もしましたが、振り返ってみると楽しかったと思います。『あの子とは性が合わないから嫌い。』ということは、一切ありませんでした。どの子も同じです。そうでないと、態度ですぐに分かってしまいます。多いときには、職員を除いて300人近くいたでしょうか。『ちょっと、そこの子。』と呼びかけても伝わらないので、とにかく全員の名前を憶えなくてはいけませんでした。名前で呼びかけると、反応が全然違っていたのです。」

 (オ) 工場勤務を振り返って

 「工場では、いろいろな仕事をしてきました。そのときは辛かったですが、今では宝物だと思っています。工場で一緒に働いていた人と、今でも会うことがあります。50、60年振りくらいに会うこともありますが、それでも私(Bさん)は憶えています。名字が変わっていても、この人は、どこそこから来ていて、こういう顔だったというように思い出されるのです。『知らない、忘れた。』と言われるほど寂しいことはないので、どんなことがあっても、私は絶対に『知らない、忘れた。』と言うまいと思っています。OB会を開くとなれば、昔、一緒に旅行や水泳に行ったときなどの写真を見て、これは誰それだったということを、思い出しています(写真1-2-9参照)。」

 (2) 野村工場の閉鎖と現在の蚕糸業

ア 野村工場の閉鎖

 「愛媛県内に三つ(大洲、野村、広見(ひろみ))あった蚕糸組合は、県の指導により昭和62年(1987年)6月に合併し、愛媛県蚕糸農業協同組合連合会となり、それぞれ大洲工場、野村工場、広見工場となりました。野村では合併反対の声が強くありましたが、合併が強行されたことを私(Dさん)は憶えています。その際、3工場をいずれ一つにするという合併目標を立てていました。しかし、大洲、野村、広見のうち、いずれか二つを閉鎖するとなると地元が反対します。そのため、どの工場も閉鎖することができずにいました。
 このころ、地元の繭だけでは足りず、質の悪い輸入繭も混ぜて生糸を生産したため、生糸の品質が低下してしまいました。平成3年(1991年)ころには、ソ連からプレスした繭を取り寄せています。私は野村工場の工場長でしたが、毎年赤字でした。そのように、負債が重なり、平成5年(1993年)12月に開催された理事会で、翌年3月31日付での組合の解散、3工場の閉鎖が決定されたのです。野村工場の従業員33人は全員解雇され、工場への個人出資金も経済連に没収されました。『繭がどうなるのか。』と、野村でも揉(も)めていました。工場閉鎖に伴って、養蚕をやめた人が多かったと思います。
 その後、県内で生産された繭はしばらくの間、高知県の安芸(あき)郡にある藤村製糸に出荷していました。工場は閉鎖された後も、しばらく残っていましたが、北朝鮮が工場内の機械等も持ち帰るなどして全て処分しました。その後、土地を野村町が買い戻し、跡地に乙亥会館が建てられました。なお、負債は平成9年(1997年)までに完全に返済しています。」

イ 現在の蚕糸業

 「平成29年(2017年)現在、養蚕農家は日本全体で336戸です。かつては、野村町だけでも900戸以上ありました。今年度(平成30年)は野村で5戸、西予市全体でも9戸です。養蚕が下火になったため、養蚕に関する機械も生産されなくなり、機械が故障したら壊れていない部品を使って修理している状況です。蔟に使う段ボールだけは、大日本蚕糸会に依頼して作ってもらっています。
 養蚕は現在、群馬、栃木、埼玉や福島で盛んですが、日本全体での年間繭生産量でも、最盛期のころの野村工場で必要な繭の量に及びません。野村工場に一番繭が入っていたころには、1日5万kgの繭が入っており、御飯も食べずに、繭を受け取らなければならないほどだったことを私(Dさん)は憶えています。また、日本の繭で作った生糸は、日本で使われる生糸の0.6%くらいしかなく、あとは中国、ブラジルからの輸入なのです。
 繭単価は平成20年(2008年)ころまで変動していましたが、それ以降は固定されています。3年くらい前に1㎏4,000円になりました。繭単価は今が一番高く、その前に高かったのが平成元年(1989年)で、すぐに下がりましたが3,000円くらいでした。」

ウ シルク博物館長として

 「平成6年(1994年)に野村シルク博物館と絹織物館ができましたが、製糸業法、蚕糸業法という法律により、釜の権利などの問題があって、野村では生糸を引くことができませんでした。しかし、平成10年(1998年)に法律が廃止され、可能になったのです。『地元の繭は地元で引きたい』という盛り上がりもあって、野村での生糸の生産が実現しました(写真1-2-10参照)。
 平成20年(2008年)、『ここ(野村シルク博物館)の館長になってくれないか。』と、元工場長の私(Dさん)に声が掛かりました。2年間との約束で館長になりましたが、もう11年になりました。今年度(平成30年度)で退職です。
 平成28年(2016年)に、ここで生産される『伊予生糸』が、農林水産省の地理的表示(GI)に登録され、養蚕農家の皆さんにとって、大変励みになったのではないかと思います。ただし、それだけで養蚕農家の収益が上がるわけではありません。後継者がなかなか育たず、養蚕農家の高齢化が進んでいます。それは養蚕だけでは生計が成り立たたないため、若い人たちが養蚕になかなか取り組めないからです。私たちも養蚕農家への支援活動をしています。養蚕に直接関わることでしたら支援できますが、兼業の斡旋(あっせん)まではできません。せっかくGIに登録されたのに、このままでは永く持たないかもしれません。『伊予生糸』も、ほとんど在庫がありません。養蚕農家がいないと、この先やっていけないのです。
 GIに登録されて全国的にも注目を集めたことで、市や県も西予市の養蚕を何とかしようと動き始めています。東京オリンピックに関連して何かできないかなどと、企画もしているようです。新しい人、若い人が養蚕に取り組めるように、今後も維持できるようにしてほしいと思っています。」

参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 野村町『野村町勢要覧』1991
・ 愛媛農林統計協会『野村町の農林業』1992
・ 愛媛県『河川流域の生活文化』1995
・ 野村町『野村町誌』1997
・ 「愛媛蚕糸業の歩み」発行委員会『愛媛蚕糸業の歩み』2000
・ 愛媛県教育委員会『えひめ、その装いとくらし』2005
・ 野村町『野村町誌(完結編)』2009
・ 西予市蚕糸業振興協議会『蚕糸マニュアル』2017


写真1-2-10 多条機での繰糸

写真1-2-10 多条機での繰糸

平成30年11月、野村シルク博物館にて撮影