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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 牛を育てて

 (1) 昭和40年代以降の旧野村町の酪農の歩み

 旧野村町の酪農の歩みについて、Aさんから話を聞いた。

ア 酪農専業化

 「野村での酪農専業は、減反が始まった年(昭和45年〔1970年〕)の2、3年後が最初です。『どうせ米を作れないのなら、酪農だ。』ということになり、耕地を全部放棄しました。ただし、昭和40年代は、まだ兼業が主力で、酪農専業は何軒もありません。この辺りは、酪農家が多かったですが、ほとんどが兼業で、必ず米は作っていました。養蚕は減ってきていて、酪農専業のところも、牛の数は15、6頭で、20頭飼っているところはあまりなかったと思います。」

イ 乳牛改良

 「酪農の専業化とともに乳牛の改良が始まり、量産から能力重視になってきました。現在であれば、1乳期(約10か月)で8,000㎏くらいは搾乳できないといけません。また、体型審査で90点以上のエクセレントを目指したり、共進会で上位を目指したりするようになりました。野村町農協も、基礎牛導入事業を始めて補助金を出し、北海道や静岡県から育成牛の導入を進めました。その契機は、この辺りの共進会で喜多(きた)郡に上位を全部持って行かれ、『野村も負けていられない』となったことだと思います。全日本ホルスタイン共進会で入賞するなど、徐々に成果は出ていますが、優勝は難しいです。北海道には、ショウ(牛の品評会)を目指して専門で牛を育てている、いわばプロもいます。そのプロが出す牛は、全然手入れが違っていて、これはかなわないという感じでした。北海道では、ショウに出す牛は、別の広い部屋で飼われて、調教もされ、きちんと止めてポージングするというような、この辺りでは絶対にできないことをしています。」

ウ 酪農家の減少

 「酪農専業が徐々に増える一方で、酪農家が減るのは早かったです。一方は専業化していく、一方は酪農をやめて出稼ぎに行くという流れに変わっていったのです。都市の基盤整備が始まるなど、どんどんと出稼ぎで稼げるようになりました。そのため、小型の酪農家がどんどん減っていき、酪農家の規模が拡大していったのです。
 現在、西予市の酪農家は60戸を切っていて、野村だけでいうと、もっと少なくなっています(図表1-1-3参照)。結局一番問題なのは、少子高齢化による後継者不足です。とにかく、田舎の子どもは一人前になったら、みんな都会へ出て行って、後継者が残らないのです。そして、親も『子どもには、跡を継がせてもいけない。』という考えから、子どもを地元に残さないのです。これは、自分たちの生活が精一杯で、子どもに跡を継がせてどうするかという心配からきていることなのです。それで、『勉強をして好きな所で働け。』となるのです。大きな農家ほど学費に充てる資金を持っているので、都会の大学に進学させ、そのまま就職させるのです。
 野村の酪農も、このままだと長くはないでしょう。道野々(どうのの)地区には後継者がいるので、この地区の方々がどこまで頑張れるかだと思います。また、現在は酪農が減って、肉牛になっています。これは、酪農では朝、晩と定時に働かなくてはなりませんが、肉牛は極端な話、餌さえ忘れずにやっておけば良く、負担が少ないからです。しかし、現在は乳価が110円くらいで安定しているので、酪農の方が、毎月給料をもらうサラリーマンのように、収入が安定しています。」

 (2) 旧野村町での酪農

ア 酪農を始める

 「私(Bさん)の父が、野村で最初に導入された子牛を購入し、酪農発起人の宇都宮勇太郎さんや大塚勘兵衛さんと一緒に、3人が先導者となって酪農を始めました。私は昭和23年(1948年)に宇和農業学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業し、父の仕事を手伝うようになりましたが、父は酪農関係の組合に勤めていたので、私が主役のような感じだったことを憶えています。
 当時、この辺りは養蚕が主力でした。私の家も酪農を行っているとはいえ、1、2頭を搾乳する程度で、当時は、朝6時、昼12時、夕方6時、夜12時と1日に4回、手で搾っていました。主に養蚕での収入で生活をしていて、養蚕の蚕沙(さんさ)(蚕の食べ残し)を利用しながら牛を飼っていたことを憶えています。
 私が結婚してから間もないころ(昭和30年代半ば)、父が亡くなりました。そのころも養蚕が主力で、養蚕が忙しい時期は、私だけが酪農の仕事を行っていました。昭和40年代に入ったころには、5、6頭を搾乳していました。そのころは、まだ養蚕の景気が良かったうえに、酪農だけで生活できていたので、養蚕で得た収入はほとんど残すことができていました。その当時の農村は、景気が良かったと思います。酪農初期のころは、牛を1頭飼っていたら、『月給取りを1人養うことができるくらいの働きをする。』と言われていて、今の相場と違って牛乳に値打ちがあった時代でした。それが、だんだんと値打ちが下がってきて、1頭搾りでは生活ができず、ある程度の頭数を搾らないといけないということで、飼育する頭数が増えてきたのです。」

イ 酪農専業へ

 「養蚕は年に3、4回極端に忙しい時期があって、私(Bさん)の家では大勢の人を雇いながら続けていたのですが、酪農であれば年間の仕事を家族だけで行うことができたので、昭和40年代の半ばころに養蚕をやめて、酪農専業にしました。酪農専業にしてからは、自宅の裏の牛舎で20頭くらい乳牛を飼うようになりました。その後、この辺りにも道路が整備されて住宅が増えてきたこともあり、牛舎からの悪臭防止について、保健所から指示を受けるようなこともありました。
 そこで、牛舎を自宅から5㎞離れた場所へ移転しました。移転してからは、37頭くらい搾乳していました。移転は牛乳の生産調整が始まる前だったので、生産に大きな影響を受けることがありませんでした。移転先は周囲に人家がなく、環境は良かったのですが、水道や電気が通っていませんでした。川の傍(そば)だったので、ボーリングで水を取ることができるのではないかと思いましたが、それでは水量が足りませんでした。何とか上水道の設置をお願いしようと水道課へ行くと、ちょうど酪農の先輩が町議会議員で、議会の水道委員長だったこともあり、水道設置の許可をもらい、上水道で牛を飼うことができたのです。牛舎は本管が設置されている場所から遠かったので、3名の方にお願いをして、その方の土地に300m程度の水道パイプを設置させてもらいました。また、道路にも面していなかったので、両側の土地所有者の方にお断りをして進入路を設置しました。新しい土地で酪農を始める苦労を感じながらも、皆さんが気持ちよく協力してくれたことを憶えています。
 今は、私は乾乳牛等の搾乳をしていない牛に餌をやりに行く程度で、仕事のほとんどは息子夫婦に任せています。昭和60年代くらいから、私の家でも搾乳主体に変わり、子牛の育成は全て北海道へ預託しています。分娩(ぶんべん)前になると北海道から戻ってきて、北海道へ生まれた子牛を送っています。何頭が北海道にいるのか、はっきりとした頭数は分かりませんが、40頭くらいはいるのではないかと思います。北海道は酪農の本場ですから、良い点もたくさんありますが、預託料の負担が大きく、往復の運賃だけでも5万円くらいはします。しかし、『この牛には、この牛の種を付けてください。』とお願いしておくと、交配は確実に行ってもらえるのです。北海道へ預け始めたころは、全頭ではなく、この系統を残したいという4、5頭を北海道へ送っていたことを憶えています。」

ウ 牛舎の火災

 「その後、野村の酪農においても牛を改良しなくてはならないということになり、農協で基礎牛導入事業が始まりました。これは補助金を使って、年に10頭くらいずつ良い牛を購入するというシステムです。私(Bさん)もその流れに乗って、酪農が盛んな静岡の牛を購入しました。ハイブリッジという系統で、もうそのような牛に会うことはないというほどの良い牛でした。乳が出て、その成分が良いうえに連産もしました。毎年、初産から6産まで、1週間も違わないほどの日に産むことができた、そんな優秀な牛だったことを憶えています。
 しかし、その牛は残念ながら焼け死にました。私の家の牛舎が平成15年(2003年)1月に火災に遭ったのです。搾乳牛が37頭いましたが、その内の21頭が焼け死んでしまいました。『似たような酪農家もあるはずだから、原因は究明しなければならない。』と、県警から鑑識の方が来て、何日もかけて調べていました。はっきりとは言われなかったのですが、『埃(ほこり)が配電盤に入ったことが原因ではないか。』ということでした。私の兄弟もみな酪農家で、助かった牛を一時的に預かってくれました。そのとき、『もう牛飼いをやめた方が良いのではないか。』と息子に相談すると、『やはり酪農をやりたい。』という返事だったので、資金を調達して牛舎を再建しました。預かってもらっていた牛を引き取り、北海道からも牛が帰ってくる、新しい牛の導入もする、と徐々に頭数を増やしていきました。血の滲(にじ)むような努力をしながら、家族全体で仕事に取り組み、今から2、3年前には借りていた資金の返済を終えたのです。
 私の家の酪農は波乱万丈でした。火事になったときには300人ほどのボランティアに来てらって、後片付けを手伝ってもらいました。近所に畑を所有している方からは、『うちの畑に埋めても構わないから。』と言われ、藁(わら)の焼け残りを埋めさせてもらいました。皆さんのおかげで再建ができたと感謝しています。現在、私の息子は県酪農経営者会の会長を務めさせてもらっています。『皆さんのおかげで再建することができたので、御恩は返さなければならない。』と、会合で松山(まつやま)へ行ったり、年に何回かですが、四国地区の会合へも行ったりと、忙しくしているところです。」

エ 思わぬ水害

 「『近く南海地震が起きる。』と言われているので、自宅が古いこともあって地震対策を行っておかなければならないと考えていましたが、平成30年(2018年)7月の水害については全く予想していませんでした。自宅に水が入って来たとき、本棚と茶棚は、鴨居(かもい)から直接引っ張っていたので、倒れることはありませんでした。私(Bさん)は冷蔵庫が前に倒れることを心配して、紐(ひも)で留めていましたが、水が下の方から来たので、冷蔵庫もタンスも倒されて使用不能になり、家の中は何もない状態になりました。牛舎は水害に遭わなくて助かったのですが、電気と水が止まりました。電気は発電機を調達し、この辺りの酪農家で持ち回りをして搾乳を行いましたが、水を得ることができず、息子が何日もの間、朝5時から夜12時ころまで水を運んでいたので、かなり疲れていました。少し早く給水が始まった地区の牧場の方が水を運んでくれたり、ヘルパーさんたちが手伝いに来るときに、タンクで水を持って来てくれたりしたので、何とか乗り越えることができました。」

 (3) 大野ヶ原の酪農

ア 牛を飼う

 (ア) 和牛の導入

 「昭和25年(1950年)に大野ヶ原が開拓認証になり、私(Cさん)は昭和27年(1952年)、22歳の時、香川県から独身で入植しました。私の代では、入植者で一番若かったことを憶えています。当時、組合長の武田寛さんには、大事にしてもらいました。入植して間もないころに、和牛を導入することになり、武田さんと一緒に、若いながらも私が大野ヶ原代表で何十頭もの牛を買いに行きました。武田さんが県職員の方から、宇和に行けば買えると聞いていたので、最初に宇和へ行きましたが、1頭も買えませんでした。そこに私の知り合いの宇和島の博労がいたので、その方に段取りを頼み、翌日、宇和島へ行くと、ちょうど九州から船で牛を連れて来ていて、家畜市場に何百頭と並んでいました。私がその中から40頭を選びました。そのときは、お金を持ち合わせていなかったのですが、『振り込みで構わない。』と言ってくれたので、翌日代金を振り込みました。40頭まとめて購入してくれたということで、牛を車に乗せて運んで来てくれたことを憶えています(写真1-1-2参照)。」

 (イ) 酪農を始める

 「昭和34年(1959年)に酪農を始めるとき、県から反対されましたが、武田さんは『やる』という意志を固めていたので、京都まで武田さんや私(Cさん)を含む5人で、40頭ほどの乳牛を買いに行きました。亀岡(かめおか)(京都府)で20頭ほどの牛を貨車に積み、残りは大阪の方で積みました。水汲(く)み用のバケツを4、5個買って、餌の藁とともに持ち込み、列車が止まるたびにバケツに水を汲んで牛に飲ませる作業に苦労したことを憶えています。また、兵庫県との境の辺りだったと思いますが、長いトンネルに入りました。当時の貨物列車は蒸気機関車が牽(けん)引していて、牛を積んだ貨車は無蓋車(むがいしゃ)(屋根の付いていない貨車)だったので、煙が直接当たって呼吸をすることができず、『死んでしまうのではないか。』と思ったことを憶えています(写真1-1-3参照)。
 2回目の乳牛導入のときには、私ともう1人で買いに行きました。大金を持つことに慣れず、持つことが怖かったので、その方に半分持ってもらいました。鞄(かばん)に入れて持ち運ぶことも不安だったので、お金を風呂敷に包んで腹に巻き付け、牛を買いに行ったことを憶えています。そのときは、事前に各農家から、どのような牛が欲しいのかを聞いて回っていました。5、6人から、『こんな牛が欲しい。』と具体的な要望があったので、それをノートに書いておきました。ほかの人からは、『私に任せる。』と言われていました。」

 (ウ) 大野ヶ原の酪農の特徴

 「良い乳牛を北海道から導入しようと、私(Cさん)を含めて4人で北海道へ行っています。あの当時はクリスタンが人気でした。その代わり、一般の牛が1頭3万円から5万円くらいのときに、1頭が100万円くらいしていました。この牛が良いということで連れて戻っても、よく歩けない牛もいて上手くいかず、のちに県が導入した牛も同じでした。結局、牛は見た目だけではないのです。そこで、私たちは自家育成を行うようになりました。現在、大野ヶ原では、何年も牛を他地域から導入しておらず、全て自家育成です。他所(よそ)の酪農家は、北海道などから毎年乳牛を導入していますが、大野ヶ原では誰も行っていません。他地域から導入をしていた最後のころは、県酪連(愛媛県酪農業協同組合連合会)と県が、3分の1や半額の補助金を出していたのですが、半額補助でさえ、『必要だ。』とは誰も言いませんでした。半額補助で導入する牛よりも、自分の所で産み育てた牛の方が良いということです。これが、大野ヶ原の酪農の特徴だと思っています。」

 (エ) 獣医師の代わり

 「後産停滞といって、子牛が産まれたら、胎盤が出ずに残ることがあります。そうなると、熱が出て餌食いが悪くなり、乳が出なくなってしまうので、熱が出ている場合は、手を入れて指で胎盤をはがして出さなければなりませんでした。無理やり出すと、出血が止まらなくなるので注意が必要でした。親しくしていた獣医さんから、『大野ヶ原ではほかにいないから、お前がやれ。』と言われ、私(Cさん)に教えてくれました。私は、大野ヶ原のほとんどの家で胎盤を出しました。『子を産んだが、餌食いが悪いので診てください。』と言われて、診に行きます。熱が出ているときには、胎盤が出たかどうかを聞き、出ていなければ手を入れて胎盤を出します。すると、その晩から餌を食べ、食べ始めると、乳が出るようになるのです。そういう経験をずっとしてきました。」

 (オ) 公社牧場設置事業

 「今の牛舎を昭和50年(1975年)ころに県の事業を使って建てました。私(Cさん)が建てる前に、すでに5戸が建っていました。最初に話があったとき、東京の大学へ行っていた息子に、『こちらへ戻って来るのか。』と聞くと、『東京で就職する。』との返事だったので、牛舎を建てても仕方がないと思いやめたのです。
 その後、息子が帰省したときに、『みんな大きな牛舎で何十頭と飼っている。5頭や6頭だったら帰りませんが、大規模にできるのであれば、戻って酪農をします。』と言ったので、新しい牛舎を建てようと思っていたとき、再び県事業の話が来たのです(写真1-1-4参照)。
 ここで牛を飼い始めて、一番の問題は糞(ふん)尿処理でした。そのため、公社牧場設置事業を使って糞尿処理用のポンプタンカーを購入することにしました。当時、私は25馬力のトラクターを持っていたので、そのトラクターで引っ張ることができる、500㎏のポンプタンカーを勧められました。しかし、それでは糞尿処理を毎日行ったとしても間に合いません。そこで、県の方に相談すると、『宇和の小野田牧場に2tがあるから行って見て来なさい。』と言われました。小野田牧場では、ポンプタンカーをフォードの60馬力のトラクターで引っ張っていました。私は公社と直接交渉を行って、フォードの60馬力のトラクターとポンプタンカーを購入しました。また、ポンプタンカー、2tダンプ、60馬力のトラクターとトレーラーを入れる倉庫も建てました。
 粗飼料の確保にも苦労しました。昔は藁を購入していましたが、現在はロールベーラー(干し草を圧縮して梱包(こんぽう)する機械)でサイレージ(牧草などの飼料をサイロの中で発酵させたもの)を作ったり、良質な粗飼料がコンテナで輸送されて来たりするようになって随分楽になりました。」

 (カ) 機械の導入

 「昔は、それこそ血豆が出るほど鎌や鍬(くわ)を使って、草を刈ったり畑を耕したりしていました。今は時代が変わって草刈り機も使わなくなり、トラクターで刈っています。私(Cさん)の家には、現在、大型トラクターが4台あります。一番大きなものが100馬力、そして80馬力、70馬力、50馬力のものがあります。なぜ4台持っているのかというと、手間が掛からないからです。1台であれば、アタッチメント(付属品)の付け替えに時間がかかります。4台持っていれば、それぞれに用途別のアタッチメントを取り付けておくことができ、付け替えの手間が掛からないのです。
 その他にも、堆肥を積むショベルローラー、餌や堆肥を運ぶための2tダンプ4台と4tダンプ1台、ロールベーラーなどを個人で揃(そろ)えました。また、トラクターを畑で使うには、基盤整備が必要です。大野ヶ原はカルスト地形のため、そのままだと石灰岩がたくさんあり、トラクターが使えないのです。私の家では、昭和50年(1975年)ころに基盤整備を10町歩(約10ha)行いました。これらはかなりの費用が掛かりましたが、負債を残さずに息子に引き継ぐことができました。」

イ 大雪に立ち向かう

 (ア) 三八豪雪

 「昭和38年(1963年)の三八豪雪のとき、雪が降る前に用事ができた私(Cさん)は高松(たかまつ)(香川県)へ行っていました。大野ヶ原に帰ろうとしたら、豪雪で小屋(現西予市野村町小松)までのバスが不通となっていて、帰ることができませんでした。当時、大野ヶ原には、小松地区、寺山地区のそれぞれに1台ずつ電話があったので、連絡をしようと電話を掛けましたが、その電話に誰も出ず、連絡すらできない状態でした。バスは何日も不通で、大洲駅で待機していました。私は数日後に運行が再開されたバスにすぐに乗り込み、ようやく大野ヶ原へ帰ることができました。
 帰ってみると、大野ヶ原は雪に埋まってしまって1軒も家が見えませんでした。学校も全て雪に埋もれていました。牛乳を出荷しようにも、雪が積もって車を動かすことができないので、男は2斗(約36ℓ)缶、女は1斗缶、私の妻だけは2斗缶を担いで、股の辺りまである雪の中を、歩いて小屋まで運んだことを憶えています。当時、大野ヶ原の牛乳は、野村の明治乳業に出荷していました。歩いて小屋まで運んだ牛乳を野村まで車で運んでいましたが、2等乳となり、お金にならないので、野村で全て捨てていました。搾乳したその日のうちに出せればいいのですが、大雪で出すことができず、冷却せずに乳缶で運んだので、良い品質を保つことができなかったのです。
 そこで今度は大きなソリを作って乳缶を積み、それをブルドーザーで引っ張って運びました。当時、大野ヶ原にはブルドーザーが1台しかありませんでした。その1台で除雪を行い、引き返して乳缶の運搬を行いました。しかし、朝、こちらを出発しても、小屋に着くころには翌朝になってしまい、この方法でも品質が良い状態を保つことができませんでした。『小松地区からパイプを通して、小屋まで牛乳を下ろしたらどうか。』という話もありましたが、消毒の問題が生じることもあって、実現しませんでした。
 三八豪雪のときには、自分たちに必要な食料にも困りました。陸上の交通は遮断されているので、自衛隊の飛行機が必要な物資を運び、上空から落とすことになりました。小松地区の台地の上へシートを広げ、そこに落としてもらおうとしたのですが、何もかもが雪で埋まっていて辺り一面が真っ白で、飛行機から見ると、どこにシートがあるのか分からなかったようです。当時、小田深山(おだみやま)に多くの方が住んでいましたが、その小田深山と大野ヶ原とを間違えて、小田深山へ物資が投下されてしまったのです。間違えて他地域に投下されてしまうとどうしようもないので、大野ヶ原では茅(かや)か何かを燃やして煙を出し、そこに落としてもらいました。運ばれた物資で一番多かったのは、藁俵に入れられた餅で、何十俵と運ばれて来ましたが、なぜか米は全くなかったことを憶えています。次が子ども用から大人用までの衣類で、それが届くたびに仕分けをして住民に分配できるようにしていました。この豪雪では、1軒だけ建物に被害が生じました。雪が吹き溜(た)まって、押し潰されてしまったようでした。」

 (イ) 昭和50年代初めの大雪

 「私(Cさん)は昭和50年代初めころの大雪も強く印象に残っています。雪が2mくらい積もり、地域の半分以上の家が雪に埋もれてしまいました。玄関へと続くトンネルを掘って家から出入りしていましたが、翌朝になると風で飛んできた雪で再び埋もれているような状態でした。『この辺りに、誰それの家があるはず。』と思って雪の上を歩いていると、雪が抜けて落ちたことがありました。家の中ではストーブを焚(た)いているので、煙突の部分だけ熱で雪が融(と)けていたのに、風で飛んできた雪が積もって分からなくなっていたのです。この大雪では牛舎が被害を受け、潰れたり、屋根が落ちたりしていたことを憶えています。
 昭和49年(1974年)に国営カルスト牧場ができ、町がそこで利用するタイヤショベルを1台購入しました。タイヤショベルは冬の間は使われないので、私たちがそれを借り受けて除雪を行っていました。しかし、この大雪では、それだけでは除雪が間に合いませんでした。例えば、寺山地区から小松地区まで除雪をすると、帰りは再び除雪を行わなければ帰れなくなるほどでした。大野ヶ原の雪は下(平地)の雪とは違い、風が吹いたら飛んでしまいます。役場に、『除雪のために、押しブルを2台くらい準備してください。』と相談したこともありました。道がないと牛乳を出荷できず、私たちの生活に支障が生じてしまうため、私は高知県の梼原から押しブル2台を借りて来ました。私自身も3tの小さな押しブルを所有しており、そのような個人の押しブルが大野ヶ原に2、3台あったので、それらを使って牛乳を載せた車が通れるように、道路の山側の方を除雪しました。その結果、ガードレールの上まで雪が積み上げられた状態で、ようやく車が通れるようになったのです。その道を通って当時の町長さんが大野ヶ原に来たのですが、『ガードレールより上を通って来たのですよ。』と伝えると、驚いていたことを憶えています。今は、以前ほど雪は降りません。降ったとしても各戸に大型のトラクターがあり、バケットを取り付けて押しブルとして使えるので、搾乳が済むと、地域の人々で協力をしながら除雪作業を行っています。」

 (ウ) 凍る軽油

 「また、冬場に困ったのは、軽油が凍ってしまうことでした。私(Cさん)はこれには本当にびっくりしました。あるとき、2t車で野村まで餌を受け取りに行こうとしました。しかし、どこも故障していないはずの車が動かないのです。『どうしたのだろう、おかしい。』と言っていたのですが、原因は軽油の凍結でした。北海道は大野ヶ原よりも寒さが厳しい所ですが、軽油に灯油を混ぜているため軽油が凍結することがないそうです。灯油を適当に混ぜた軽油をエンジンで使用すると煙が出てくるので、北海道では、灯油をきちんとした割合で混合したものを販売しているそうです。」


図表1-1-3 西予市の乳牛飼養戸数の推移

図表1-1-3 西予市の乳牛飼養戸数の推移

愛媛県『家畜に関する統計』(H17~30年)により作成