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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 戦争の記憶

 「戦時中、私(山本昭二さん)は摂津本山(せっつもとやま)(現兵庫県神戸〔〕こうべ市)の浜の方にある深江(ふかえ)という所にあった川西航空機(現新明和工業株式会社)の製作所で勤めていました。工場では戦闘機と飛行艇の製造を行っていました。飛行艇はエンジンを4発搭載した大型のもので、離着水するときには『ブーッ』と大きな音を立てていました。工場の中にはこれらの飛行機を造る工程が数多くあって、私はその工程の一つで仕事をしていたのです。
 当時は太平洋戦争の真っ只(ただ)中で、飛行機の生産が急務となっており、工場での人手不足があってはならない状況だったので、会社の方からも、『軍隊に志願してはどうか。』というような話は一切ありませんでした。私は工場で精一杯働いていたので、『現役で軍隊に召集されるまでは志願することなく、工場での仕事をがんばろう』と思っていたところ、昭和20年(1945年)に終戦を迎えたので、軍隊に入ることがありませんでした。
 しかし、戦時中、川西航空機は軍需工場であったため空襲で狙われ、人的にも物的にも大きな損害を出していました。空襲のときには、アメリカ軍のボーイング社製の爆撃機がどんどんやって来て、神戸、大阪を中心とした阪神地区を爆撃していました。当時は、空襲の危険があるときには、まず警戒警報が鳴らされていましたが、実際は警戒警報が鳴るとすぐ、空襲警報が鳴る間でもなく爆撃機が飛来してくる状態でした。警報後、すぐに爆撃が始まるので、工場で働く従業員は防空壕(ごう)などへ逃げる時間がほとんどありませんでした。
 工場への爆撃は、都市を焼くための焼夷(しょうい)弾ではなく爆弾で行われていたので、爆弾が落とされた跡は、大きな穴ができ、雨で雨水が溜(た)まると工場の敷地のあちこちが池のようになっていました。逃げる時間が足りないときには、私は川に架かる橋の下へ逃げ込むこともありました。会社の重役の人たちは、会社の敷地内に鉄筋コンクリートで頑丈に造られていた防空壕へ逃げ込むことができていたようですが、私たち一般の従業員は別荘地帯の芦屋(あしや)(現兵庫県芦屋市)の山手(やまて)(芦屋市山手町付近)へ駆け足で急いで避難しなければならず、逃げる途中に『間に合わない』という状況になれば、危険ではありましたが、橋の下に逃げていたのです。
 逃げ遅れた人の中には、戦闘機の機銃掃射で撃たれて亡くなった方もいました。また、工場で組み立てられる飛行機の部品は馬車で運ばれていて、警報が鳴ると、その馬が逃げないように繋(つな)がれていました。爆発で生じた破片が飛んでくる中、馬は逃げることができず、その破片が当たって死んでしまうということがあり、空襲の後にその光景を見ると、とてもかわいそうな思いをしていました。それだけ危険な所で仕事をしていたので、私もいつ死ぬか分からないという覚悟はしていたことを憶えています。」